今日も世界は平和
「さようなら」
「うん、またね」
「それじゃ」
そう言って、みんなそれぞれの家に帰っていく。彼女も一人、あの子も一人、私も一人。いっつも私たちずっと一緒だねなんて言ってるくせに、そのくせ帰る場所は全然一緒じゃない。
それは当然。だって彼女たちは私じゃないもの。些細な言い争い、力のある派閥の主の一言、環境の変化。小さな切っ掛けが一つあれば切れてしまう縁。
馬鹿らしい、本当にくだらない。けれども悲しいことに私はそんなくだらない関係を続けていないと平常心を保てない。必要だって思われたい、そうでなければ辛くて、辛くて、冗談でもなんでもなく胃に穴が空いてしまいそうになる。
「うっ……」
ほら来た。一人になった瞬間、訳も分からない不安に襲われた。学校の成績、人間関係、普段は仲良くしている友人が二人っきりになった時に「ここだけの話だから」と他の仲のいい友人の陰口を叩くこと。
聞かされたくもないのにそんな話を聞いて私は「うん、そうだね。私もそう思うかも」なんて心にもないことを口にして共感を得る。
そんな自分に嫌気がさして罪悪感。そう感じるならやめればいいのに。そう思うのにやめられない。
時々無性にひとりきりになりたくなって、じゃあいま周りにいる人たちの縁でも切れば? なんて思う。けれど、そうする勇気もなくて一人きりになったらダメになってしまいそうだって感じてまた空虚な笑みを貼り付けて日々を過ごす。
心はいつも不安でいっぱい。こんなことを誰かに話しても「お前もしかしてメンヘラ? うわ~めんどくさっ」なんて私のいないところで陰口を叩かれるのがオチだ。
そうなるのが怖くて、何も口にすることもできず心の中にいつも溜め込み鬱屈する。
「ただいま」
家に帰っても私の言葉に返事をする人はいない。玄関で靴を脱ぎ、リビングを通る。形だけの家族が上辺だけの会話を今日も口にしていた。
「享~塾に行く時間よ」
「あ、ごめん母さん忘れてたよ」
「全くしょうがないわね。最近たるんでるわよ。成績も少し落ちてきているし、もう少し頑張りなさいね」
「うん、わかってるよ。それじゃ、そろそろ行くね」
「はい、いってらっしゃい」
リビングに入った私を無視して〝母〟と〝弟〟が会話を繰り広げている。端から見れば普通の家族の会話。けれど、その裏を知っている私はそれがどれだけ空虚なもので馬鹿馬鹿しいかわかってる。
〝弟〟は中学生の頃から全国模試の成績に乗る常連。塾の先生にも学校の先生にも期待され続けていた。対して勉強もできず、めぼしい特技もなかった私は即座に空気になった。
けれど、そんな超人も高校に進学し、スランプに陥り次第に泥沼にはまった。〝母〟の前では虚勢を張り、塾に行くなどとほざいているが私は知っている。奴は今日も塾に行くふりをして近くのゲームセンターに足を運ぶのだろう。
そうして塾が終わる時間になると何事もないような顔をして帰ってくるのだ。
〝母〟はそんな〝弟〟の行動を知っていて、知らないフリをずっとしている。当然だ、家には塾からの電話も学校から成績も届くのだ。そして、私たちは知らない近所の母親たちのコミュニティーによる噂話でそのことも彼女の耳に届く。
けれど〝母〟は何も知らないフリをする。見たものも、聞いたものにも蓋をして今日も何事もないように笑顔で接する。それには職場の若い女性と浮気をしてほとんど家に帰ってこない〝父親〟もそんな〝父親〟に懐いていた現空気の私も含まれる。
馬鹿なやつら。哀れだと彼らを馬鹿にして自分の心を軽くして私は今日も部屋に引きこもる。自分が彼らの同類だと自覚しながら、それに気づかないように上から目線で見下しながら。
部屋に入る。私にとって唯一の聖域。ここだけは私を何もかもから守ってくれる。
布団にこもる。イヤホンを耳に当て、音楽を垂れ流す。暗い世界、好きな音楽。嫌なもの全部から私を守ってくれる。
けれどもまだ胃が痛い。怖いもの、不安なものは何もないはずなのに、得体のしれない気持ちの悪さが胸に残る。
胸に手を押し当てる。心臓の音がやけに鮮明に聞こえる。音楽で蓋をしているはずなのに身体の内から響いてくる。
ドッ、ドッ、ドッ、ドッ。
……気持ち悪い。
気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。
布団を勢い良く引き剥がす。イヤホンを思いっきり投げ飛ばす。全力でトイレに駆け込む。
「……うっ、おええええええええええええ」
吐いた。盛大に、胃の中にあるものを吐きだした。最悪だ、せっかく帰りに楽しみにしていたコンビニの新作ケーキ買って食べたのに。無駄にした、なけなしのお金250円。
グルグルと世界が回る。薬物をキメたわけでもないのに回っていく。不安が、心に染み込んでいく。
助けて、誰か助けて。
声を出したつもりが口から出るのはコヒュー、コヒューという呼吸音だけだった。嘔吐物の臭いが鼻につく。それでまた気持ちが悪くなる。
その臭いをいつまでも嗅いでいたくなくて急いで口をゆすぎ、臭いを消した。相変わらずリビングでは〝母〟が空気がいるのを気にもせずに机を前にして重いため息を吐き出していた。
嫌だ、嫌だ、嫌だ。この空間は嫌だ。
私はすぐさま部屋に引き返した。
布団よし、イヤホンよし、携帯の電源OFF。外界からの干渉をシャットアウト。残るは内界、自分の情報のみ。
薬を飲む、目を瞑る。睡眠薬で無理やり意識を閉ざす。
そうして世界に暗闇が訪れる。
「誰か、助けて」
意識が消える前、いつものように願いの言葉を口にする。けれど、その願いはきっと叶わない。そう知りながら気休めのように口にし、私はこの世界から消えた。