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~ 終ノ刻   闇喰 ~

 闇の中、天倉癒月は逃げていた。いつもは追う側だったが、今日は追われる側。ここが夢の世界だと分かっていても、口から漏れる吐息は本物だ。


 肩で息をしながら辺りを見回すと、そこには誰もいなかった。


 もう、相手は諦めたのだろうか。それとも、こちらを見失って闇の中を彷徨っているのだろうか。


 溜息と共に、癒月はその場に腰を下ろす。ずっと走り続けていたせいか、足が酷く痛んでいた。


「ここまで来れば、大丈夫かな……」


 誰に言うともなく、闇の中でそう呟く。が、そんな彼女の言葉をあざ笑うかのようにして、地面の中から二本の腕が突き出した。


「ひっ……」


 短い悲鳴を上げ、癒月は腰を下ろしたまま後ろへ下がる。腕は徐々に天をつかむようにして伸び、やがてその全身を現した。


 癒月の目の前に現れた者。それは癒月自身だった。髪は抜け、肌は醜く変色し、左目は既に失っている。まさに生ける屍、ゾンビのような姿となった自分自身が、口から血を垂らしながらこちらに向かってくる。


「来ないで!!」


 自分に向かってくるもう一人の自分に対し、癒月は精一杯の力を込めて叫んだ。他にどうすることもできなかったが、それでも相手は少しだけ怯んだようだった。


「あなたなんか……あなたなんか、私じゃない! だから、こっちに来ないで!!」


 完全なる拒絶。それが、目の前の化け物に対して最も効果的な言葉だった。既に元の姿の面影さえ失ったもう一人の自分は、拒絶をされる度に酷く苦痛に歪んだ表情をして呻いた。


「消えちゃえ! あんたなんか、私の夢から消えちゃえ!!」


 癒月の口から放たれた決定的な一言。それを告げられると同時に、怪物と化したもう一人の自分が光に包まれる。光は癒月も包み込み、その眩しさに目が眩んだ。


(うっ……)


 目元を庇うようにしてかざした手をどかすと、そこは奇妙な部屋の中だった。先ほどと同じく薄暗い場所だが、完全なる闇ではない。それに、自分の身体も妙に軽く、なにやら宙に浮いているような感じがした。


 ここはいったいどこなのか。その答えを出すより先に、癒月は目の前の光景に己の目を疑った。


 部屋の壁際に並べられた無数の蝋燭。そして、下着姿で台に拘束された照瑠と、同じく台の上に寝かされている自分自身。その横では父である啓輔が、なにやら妖しげな薬品をかき混ぜている。


≪あの日、癒月は事故に遭った。夏休み、ボランティア活動の帰りに車に轢かれてね≫


 蝋燭に照らしだされた部屋の中に、啓輔の声だけが不気味に響く。それを聞いた瞬間、癒月の頭の中に様々な記憶が走馬灯のように駆け抜けた。


 夏休みも終わりに近づいた八月の終わり。その日、自分は青年ボランティアの手伝いに出ていたはずだ。河原で子ども達とバーベキューを楽しみ、夜には打ち上げ花火も行った。


 その帰り道、癒月は不幸にも事故に遭った。自分が轢かれた時は痛みとショックで直ぐに意識を失ってしまったが、今ならばはっきりと思いだせる。


 青い車体をしたスポーツカーのような車が、癒月を撥ねて走り去る。後に残されたのは、地面に転がる血まみれの自分の身体。


 轢き逃げだということは直ぐにわかった。が、癒月自身にはどうすることもできない。薄れゆく意識の中、遠くから響く救急車の音を聞きながら、ひたすら声にならない助けを呼ぶだけだ。


≪癒月の肉体は、医学的には当に死んでいた。しかし、魂だけは、まだ辛うじてこの世に留まっていたんだよ。だから、私は癒月に代わりの肉体を与えることにしたんだ≫


 記憶が蘇っている間にも、父は照瑠に話を続けているようだった。それを聞く毎に、癒月自身も己が何をされたのか、父が何をしていたのかを理解した。


(そっか……。そういうことだったんだ……)


 夢で殺した人間が、現実世界でも殺されているという奇妙な事件。そして、自分の身体を襲った数々の異変。


 全ての点が一直線に繋がった。


 殺された女性が夢に出てきたのは、恐らく彼女達の断末魔の記憶。それが肉体の移植を通して、自分の夢に現れたもの。


 痣や吐血は、自分の身体が限界を迎えようとしていた兆候だ。父の話を信じるならば、そう考えて間違いない。


 そして、最近になって夢に現れた、ゾンビのように腐敗した自分。これは、癒月自身の身体がもう長くないということを暗示していたのだろう。


 どれほど禁術によって肉体を取り変えようとも、既に癒月の魂は現世に留まることができないところまで来てしまった。死者はあるべき場所に帰る。そんな普遍とも言える自然の摂理に逆らった結果、最後は己の崩壊する様さえも見せつけられることになった。


(私、もう死んでたんだね……。なぁんだ……。私、死んでたんだ……)


 不思議と恐怖は感じられなかった。それよりも、他人を犠牲にしてまで自分を生き長らえさせた父に対し、怒りにも似た感情が湧いてきた。


 薬の調合を終えた父、啓輔が、身動きの取れない照瑠に迫る。このままでは、次に犠牲になるのは照瑠だ。


 照瑠は自分を助けてくれた。悪夢にうなされて苦しんでいた時も相談に乗ってくれたし、今日もトイレで倒れたところを、友達と一緒に保健室まで運んでくれた。まだ、知り合って二週間ほどしか経っていなかったが、それでも癒月にとって照瑠は大切な友人だった。


(照瑠は、私のことをいっぱい助けてくれたよね……。だから、今度は私が助ける番だよ……)


 台の上に寝かされている自分自身に、癒月は倒れ込む様にして身体を重ねた。一瞬、意識がどんよりと濁るが、すぐに全身に激しい痛みを覚えて目が覚めた。


 事故の怪我が蘇り、徐々に崩壊を始めている自分の肉体。そんなところに舞い戻れば、当然のことながら直に苦痛を感じることになる。


 だが、癒月に躊躇いはなかった。痛みを堪えて起き上がると、目の前の父を鋭い目つきで睨みつける。


「ゆ、癒月……」


 照瑠の身体に薬を塗ろうとしていた啓輔の動きが止まった。癒月が目覚めたことに対し、予想以上に驚いているようだった。


「馬鹿な……。術の最中に癒月が起きるはずがない。あの男に教わった通りにやったというのに……なぜ、癒月が目覚める!?」


 予想外の事態に、父は激しく困惑しているようだった。それは照瑠も同様で、目の前で起きていることを見ていることしかできなかった。


 じりじりと、癒月は無言のまま父との距離を縮めて行く。ただ事ではないと悟ったのだろう。父も薬を手に後ずさったが、癒月はやはり何も言わずに父親に迫って行った。


「どうして……」


 辛うじて聞きとれるくらい小さな声で、癒月がぽつりと呟いた。その声に啓輔の意識が一瞬だけ逸れる。その隙を逃さず、癒月は父親の手から薬の乗った皿と刷毛を叩き落とした。


「どうして、こんなことをしたの……お父さん……」


 声を出すのも辛く、歩くだけで全身に痛みが走った。立っているだけでも精一杯のはずだったが、それでも癒月は怯まない。父親の腕を取ると、それを自分の方に引き寄せるようにして激しく引っ張る。


 既に死にかけの身体であるにも関わらず、癒月の力は人間のそれをはるかに凌駕していた。もとより半分は死んだ魂。その力を解放すれば、死霊が憑依した人間と同じく凄まじい力を発揮する。もっとも、その反動として、癒月の肉体は崩壊への階段を恐ろしいまでの速度で転げ落ちて行くことになるのだが。


「照瑠……。今、助けてあげるからね……」


 倒れた父のことを蹴り飛ばし、癒月は照瑠の方へ向き直って言った。その間にも、癒月の髪が次々と抜け落ちて行く。が、癒月は全く意に介さず、照瑠を縛り付けている拘束を外した。


「ゆ、癒月……」


 口の戒めを解かれ、照瑠が癒月の名を呼んだ。


「ごめんね、照瑠。私のせいで、照瑠にまで怖い思いをさせちゃった……」


「何を言ってるのよ、癒月! あなたは何も悪くないよ。だって、何も知らなかったんでしょ!?」


「うん。でも……今、全部思いだしたの。だから、今度は私が照瑠を助けてあげるね。照瑠が私を助けてくれたみたいに……」


 未だ床に倒れている父の腕を取り、癒月は再びその身体を放り投げた。「ぐぇっ……」という声がして、啓輔の身体が壁に叩きつけられる。壁際にあった蝋燭が次々に倒れ、燭台の下に敷かれていた黒布に火が付いた。


「逃がさんぞ……。折角……折角見つけた獲物なのだ……。癒月のための……癒月の新しい身体を……」


 頭に蝋燭から零れ落ちた蝋を被りながらも、啓輔はなおも照瑠に追いすがろうとする。そんな父の姿を冷ややかな目で見つめながら、癒月はその首に手をかけて締め上げた。


「逃げて、照瑠。お父さんは、私が押さえておくから……。だから、早く逃げて……」


「で、でも……」


「早くして! もう、どうせ私は持たないもの……。だったら最後くらい、照瑠のために何かさせてよ……」


「そんな……」


 それ以上は、何も言えなかった。


 天倉癒月は死ぬつもりだ。いや、癒月の父の話を信じるならば、既に死んでいるのだが。


 倒れた蝋燭の火が黒布に燃え移り、火の手は瞬く間に広がっていった。無数に立てられた蝋燭の本体にまで火が移り、癒月と啓輔の回りを炎が取り囲む。


 このままでは、癒月が死んでしまう。しかし、炎の前に投げ出された照瑠にできることなど何もない。今は癒月の言う通り、ここから逃げ出す事しかできないのだ。


 自分の無力さが悔しかった。なにが神社の巫女だ。これまでも奇妙な事件、不思議な事件に関わってきたが、いつも自分は助けられるばかり。目の前で死を覚悟している友達一人助ける力はない。


 こんな時、今は亡き母だったらどうしただろう。もしくは、あの犬崎紅だったら。


 照瑠がそう思った時、部屋の扉が唐突に開け放たれた。後ろを振り向くと、そこには岡田と工藤を連れた紅の姿があった。


「大丈夫か、九条」


 炎と煙を物ともせず、紅は真っ先に照瑠に駆け寄った。そして、直ぐに自分の着ていたコートを脱ぐと、それで照瑠の身体を隠すように包む。


「行くぞ、九条。このままだと、俺達も火に包まれる」


「で、でも……。癒月はどうするの!?」


 照瑠の問いに紅は答えなかった。言葉にして告げずとも、結果は既に分かりきっている。


 紅が部屋を開けたことで、外の空気が流れ込んだからだろう。癒月と啓輔を包む炎はさらに激しさを増し、照瑠や紅をも飲み込まんと迫っていた。


 このままでは全員が焼け死ぬ。選択の余地など、既にない。


 決して後ろを振り向かないこと。それだけを告げ、紅は照瑠の肩を抱えて部屋を出た。岡田と工藤の二人と共に、病院の出口を目指して走る。


 外に出ると、冬の冷たい空気が紅達の肌を刺激した。


 病院から少し離れた場所で、工藤が消防に連絡を入れる。岡田も警察署の人間に応援を頼んだ。その横では、紅と照瑠が寄り添うようにして、炎に飲み込まれてゆく天倉医院の姿を見つめている。


 火が、全てを飲み込むまでの時間は早かった。冬の乾いた風に煽られて、闇夜を照らす炎が激しさを増してゆく。


 紅蓮の光に包まれて、徐々に崩れ落ちて行く天倉医院。その光景は、さながら地獄の業火に焼かれる罪人そのものである。窓から黒い煙を噴き出しながら、病院はなおも燃えることを止めようとはしない。


 そんな中、紅と照瑠が見つめる先で、炎上する天倉医院の扉が唐突に開け放たれた。その中から現れたのは、火達磨になった一人の男。焼け焦げた白衣から、それが天倉啓輔の変わり果てた姿であることは容易に想像できた。


「あっ……あぁぁぁぁっ!!」


 全身を焼かれる痛み、苦しみに、啓輔は咆えた。が、直ぐにその身体は炎の中に引きずり込まれ、絶叫だけが辺りに響く。


「あれは……」


 燃え盛る炎の向こう側に、照瑠は一人の少女の姿を見た。火の手から逃れようとした啓輔を、再び炎の中に引き戻した者だ。


「癒月……」


 天倉啓輔を、再び地獄の業火の中へと放り込んだ者。それは、彼の娘である天倉癒月に他ならなかった。まるで、父親の罪を自ら共に償わんとするかのように、癒月はその場から逃げ出そうとはしなかった。


 赤々と燃える炎の中で、癒月がゆっくりとこちらを向く。その顔は既に半分が崩れ落ち、片腕も千切り取られたように失っていた。


「見るな! 見るんじゃない!!」


 炎の中の癒月がこちらに目を向けた瞬間、紅は照瑠の頭を抱えて抱き締めた。


 短い間だったが、天倉癒月は照瑠の友人だった。そんな彼女のあまりに醜い最後の姿を、わざわざ頭に焼き付けさせる必要もないだろう。


 なおも勢いを増す炎に包まれながら、癒月の身体が徐々に崩れ落ちて行く。指が抜け、目玉が落ち、顔の半分は皮が剥がれ、その奥にある頭骸骨がむき出しになる。そして、首がその付け根から転がり落ちると同時に、癒月の胴体もまた炎の中に倒れ込んだ。


 魄繋(はくつな)ぎ。本来であれば冥府に行くべき魂を、仮初の肉体を与えることで生き長らえさせる禁断の術。反魂の術を更に醜く歪んだ形に発展させたそれは、紅も実家の祖母から連絡をもらうまで知らなかった。


 天倉啓輔の犯した罪は、決して許されるものではない。だが、自分の親しい人が亡くなった時、仮にその人を蘇らせる術があるとすれば、どうだろうか。自分の大切な者を失った辛さや悲しみに負けた時、人間は悪魔の囁きに耳を貸してしまうのかもしれない。


「どうして……。ねえ、癒月……。どうしてよ……」


 自分の胸で泣く照瑠に対し、紅はかけてやる言葉が見つからなかった。


 悪いのは癒月ではない。それなのに、なぜ癒月が死なねばならないのか。そんな照瑠の気持ちは、紅にも分からないではない。


 だが、それ以上に、紅は今回の事件の裏に潜む存在に、言い様のない不安を抱いていた。


 事件の犯人は天倉啓輔だ。これは揺るぎない事実だろう。


 では、啓輔に魄繋ぎの術を教えたのは誰なのか。何しろ、紅の祖母や祖父でさえ、実家の蔵に封じられた禁術の書に目を遠さねば分からなかったような術なのだ。田舎町の開業医が、見よう見まねでできるものではない。


 闇の死揮者コンダクター。かつて、退魔具師である鳴澤皐月なるさわさつきから聞いた者の存在が紅の脳裏を掠めた。


 自ら相手を呪うようなことはせず、呪具を与えたり禁術を教えたりすることで人を闇に堕とす者。自分からは決して動かず、裏で人の死を操るが故に、自ら死のコンダクターを名乗る者。


 確証はなかったが、今回の事件に闇の死揮者が関わっている可能性は高かった。盆を過ぎた頃に起きた『君島邸事件』に次ぎ、またも出所不明の術に関係する不可解な事件。これでは、死揮者の存在を疑わない方が嘘になる。


(闇の死揮者か……。だが、仮に今回の事件が奴の仕業だとして……なぜ、奴は闇を広めるようなことをする……?)


 考えたところで答えは出ない。分かってはいたが、考えずにはいられなかった。


 遠くの方から、パトカーや消防車のサイレンが聞こえて来る。岡田と工藤の呼んだ警察や消防が、ようやく駆けつけてきたのだろう。


 宵の闇と静寂を破るようにして燃え続ける天倉医院。それを見つめるのは紅達だけではない。


 電柱の影になっているブロック塀の上で、全身を墨で染めたかのような黒猫が、金色の目を光らせている。その首に巻かれた首輪には、髑髏の鈴が鈍い輝きを放っている。



――――チリン、チリン……。



 鈴の音がして、黒猫が塀から飛び降りた。だが、その音を気付いた者はおらず、猫は夜の闇に溶け込む様にして颯爽と姿を消してしまった。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 N県警火乃澤署。


 昨日の天倉医院での火災騒動は、消防隊の活躍もあって被害を最小限に食い止めることができた。それでも病院は全焼してしまったのだが、近隣の家屋にそこまで大きな被害を出さなかったのは不幸中の幸いだった。


「しっかしなぁ……。毎度のことながら、この報告書をどうしようか……」


 椅子の背もたれに体重を預けながら、工藤健吾は頭の後ろに手を組んでぼやいた。


 火災の被害が少なかったことは良い。事件の犯人も見つけ、これ以上の惨劇を食い止められたところまでは、何の問題もない。


 問題なのは、やはり事件の真相部分だった。真犯人である天倉啓輔が、娘のために死者蘇生の儀式の生贄を探していたこと。そんなことは、間違っても報告書に載せるわけにはいかないのだ。


 その上、今回は不祥事も多かった。犬崎紅の仕掛けた九十九神の術のせいで、岡田と工藤の乗っていたパトカーは大破。おまけに犯人も家ごと焼け死んでしまい、証拠と思しき物は全て灰になってしまった。


 喧嘩に勝って、勝負に負ける。どこの誰が言っていたのかは忘れたが、工藤はふとそんな言葉を思い出した。


 確かに、事件は解決した。町を襲った猟奇殺人事件の犯人は死亡し、これ以上の被害者が出ることもないだろう。


 だが、警察官としては、こんな解決の仕方はあまりに不本意なものだった。おまけに暴走運転でパトカーまで大破させてしまったのだから、今日の仕事は報告書一枚では済みそうにない。それこそ、徹夜で始末書の山と格闘する覚悟が必要だ。


「やっぱり、岡田さんや初美さんの言っていた通り、カルト宗教に心酔した医者が殺人を行っていたってことにするしかないかなぁ……。本当の事を書いても、どうせ信じてくれそうにないし……」


 毎度のことながら、向こう側の世界・・・・・・・の関係した事件の報告書を出すのは難儀だ。下手に霊だの祟りだの禁術だのと言った話は書けないし、かといって、詳細不明のまま未解決事件にしてしまうわけにもいかない。


 一昔前に流行ったSF物の海外ドラマの主人公を思い出し、工藤は思わずその姿を今の自分と重ね合わせた。


 そういえば、彼も周囲からは変人扱いされながら、現代科学では考えられないような奇妙な連中を相手に捜査を続けていたっけ。もっとも、フィクションの世界とはいえ、向こうは天下のFBI。こちとら田舎町の警察署に務める一刑事であるが。


 報告書の内容に行き詰まったまま、工藤は自分の携帯電話が鳴っているのに気がついた。見ると、何やらメールが届いているようだ。中身を確認してみると、メールの送り主は初美だった。


「なになに……。『今日は、久しぶりに実習が早く終わりそうなの。よかったら、岡田さんと一緒に焼肉でもどう?』か……」


 これが初美以外の相手なら、工藤も素直に誘いにのっただろう。だが、初美は県警お抱えの法医学者。その上、あの性格である。きっと、肉を焼いている最中にも、その日の解剖実習の話をするに違いない。それも、ホルモンやユッケばかり頼んでは、工藤の反応を楽しみながら。


「初美さんと焼肉か……。今日ばっかりは、報告書と始末書に救われたかもな……」


 焼肉とビールが遠のいて行くことよりも、死体の話を聞きながら食事をしなくて済んだことに対する安堵の方が大きかった。


 心霊絡みの事件に巻き込まれたり、検死解剖の話を聞かされながら食事をしたり。向こう側の世界・・・・・・・の住人達が事件を起こす限り、工藤に安息が訪れることはなさそうである。


 初美に断りのメールを返信しながらも、工藤はこれからも続くであろう自分の不幸を呪いながら、大きく項垂れて溜息をついた。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 深夜の県道を、一台の車が走っていた。青い車体をした、いかにも走り屋が好みそうなスポーツカータイプの車だ。


 山に囲まれた夜の県道は人気がなく、二つのライトから放たれる明かりだけが道を照らしていた。人のいない町はずれの県道は、車を運転する男にとっては都合のよい場所だった。


 夜とはいえ、町中では警察の目が厳しすぎる。スピードを求める男にとって、町の道路は窮屈すぎた。


 カーブの多い道であるにも関わらず、男は更にアクセルを踏んで車を加速させた。タイヤが地面を擦るような音がしたが、お構いなしである。ガードレール擦れ擦れに車を走らせて、束の間のスリルを楽しんでいる。


 そもそも、スポーツカーと呼ばれる類の車は、そのどれもが極めて高いスピードを出せるように設計されている。が、その本領を発揮できるような場所は、日本の国道には存在しない。有料の高速道路でさえ、大型車は時速八十キロまで、それ以外の車でも時速百キロまでという速度制限がある。


 所詮は宝の持ち腐れなのだ。交通ルールなどに縛られている限り、スポーツカーは己の真の力を発揮することもなく一生を終えることになってしまう。


 だが、車を運転している男は、そんな現状に屈しようとは思わなかった。車として生まれたからには、きっとこいつも限界までスピードを上げて走りたいと思っている。そんな勝手な思い込みから、夜の道を駆けまわっていた。


 右へ、左へ、まるでレーシングカーのような動きをしながら、男は車を走らせる。この時間ならば、対向車が現れる心配も殆どない。今はこの県道全てが、自分と愛車のためだけに存在するサーキットなのだ。


 そんなことを考えて、ふと他所見をしたのが悪かった。


 車を飛ばす男の目の前に、いきなり一人の少女が現れたのだ。ドンッ、という鈍い音がした時には既に遅く、男の車は少女を跳ね飛ばした後だった。


「やっべぇ……。やっちまった……」


 口ではそう言いながらも、さして悪びれた顔もせずに男は車を降りた。後ろを見たが、轢いてしまったはずの少女が見当たらない。そのまま跳ね飛ばされて、がけ下にでも落ちてしまったのだろうか。


 訝しげに思いながらも、男は車の前方部分を確認した。そこには大きなへこみができており、先ほどの少女とぶつかった際にできたことは明白だった。


「畜生め! あのクソガキ、俺の前にいきなり飛び出してきやがって……。お陰で、俺のランサーに傷がついちまったじゃねえか!!」


 愛車が傷つけられたことが分かった瞬間、男の顔に怒りが浮かんだ。跳ね飛ばした少女のことなど気にもせず、自分の愛車のことだけを気にかける。他の人間が見たら、まず不快に思うこと間違いない態度だ。


 辺りに誰もいないことを確認し、男はぶつぶつと文句を言いながら運転席へ戻った。


 自分が人を轢いたのは、実はこれが初めてではない。以前、夏に町中で車を飛ばしていた時も、はずみで誰かを轢いた記憶がある。


 だが、そんなことは、男にとっては些細なことでしかなかった。現に、今も自分は警察に捕まることもなく、こうして夜の山道を走り回れている。人を一人轢いた程度では、男の心に罪悪感など生まれることもなかった。


 車のギアを入れ直し、男はふとバックミラーに目をやった。その瞬間、今まで不満そうにしていた男の顔に、瞬く間に恐怖の色が現れた。


「あっ……」


 そこにいたのは、先ほど男が轢いたはずの少女だった。団子のようにまとめた髪も、赤い中華風の服にも見覚えがある。


 間違いない。今しがた、男が跳ね飛ばしたはずの少女である。


 あれだけのスピードで跳ねられたにも関わらず、少女の身体には傷一つなかった。いや、実際には動くこともできないくらいに重傷を負っていたのかもしれないが、少女は苦しむような素振りを一切見せなかったのだ。


「な、なんだ、おま……」


 言葉を全て言い終わる前に、男の首筋に何かが刺さった。冷たく鋭い金属質の棒が神経節に刺し込まれ、男の五感が一瞬にして失われてゆく。


 峨眉刺がびし。指輪に金属棒を取り付けたような、古代中国で使われていた暗器の一つ。無論、そんなことは男には分からない。分かるのは、全身の感覚を一瞬にして奪われたという事実のみ。


「あ……あが……」


 何かを叫ぼうにも、口が震えて声にならなかった。浜辺に打ち上げられた魚のように、パクパクと口を動かして震えるだけだ。


 突然、男の乗っていた車のドアが開かれた。開けられたのは助手席の扉で、その向こうには見知らぬ青年の姿があった。


「う……あぁ……」


 苦し紛れに、男は目だけで青年に助けを求めた。が、すぐに後悔することになる。


 扉を開けた青年が、するりと滑り込むようにして車の中に入ってきたのだ。その顔に、酷く歪で邪悪な笑みを浮かべながら、男の顔をまじまじと見る。獲物を品定めする獣のような目で、男の頭から足の先までを舐め回すようにして眺めた。


「なるほど。どうやらあなたが、天倉癒月さんを殺した轢き逃げ犯というわけですね」


 天倉癒月。その名前に男は聞き覚えがなかったが、自分が以前に轢き逃げしたであろう少女のことを言っているのは察しがついた。


「残念ですが、天倉医院は焼け落ちてしまいましたからね。もう少し闇が醸成されるのを待とうと思ったのですが……まことに勿体ないことをしたものです」


 わざとらしく首を横に振りながら、青年は大きく溜息をつく。


 この青年は、いったい何者なのだろう。見たところ、警察の関係者ではないようだ。いや、それ以前に、こんな時間に山の中の県道を歩いている方が不思議である。それも、不審者のような妖しげな身なりではなく、小奇麗なスーツなどに身をつつんでいるのだから。


「まあ、手ぶらで帰るのも癪ですからね。今日は、あなたの闇を頂いて満足するとしましょうか……」


 青年の顔が、再びにやりと歪んだ。その瞬間、男は全身を虫が這いずり回るような悪寒を覚え、擦れた声で悲鳴を上げた。五感など当に奪われていたにも関わらず、背中に冷たい物が走るのがはっきりと分かった。


 月が雲に覆われ、辺りを包む闇が一層に深さを増す。それに呼応するかのようにして、青年の身体から何かが溢れた。


 それは、一言で言えば闇そのものだった。影と言うにはあまりにも暗く、煙というにはあまりにも濃い代物。深淵よりも深く、決して明けることのない夜の闇を思わせる、邪悪で貪欲な負の化身。


 粘性の高い液体のように、青年の背後から湧きだした闇が男を包む。触手のように枝分かれした闇が、蛇かミミズのように蠢いて絡みついてくる。


「あ……あがぁ……」


 耳、鼻、そして口。顔面の至るところから、闇は男の中に侵入した。その度に、男は自分の身体から何かが吸い出されてゆくような感覚に陥った。


 恨み、妬み、嫉み、そして我欲。あらゆる負の感情が、次々に吸い出されてゆく。初めは痛みや苦しみを伴ったが、すぐにそれは快楽へと変わった。


 ずるずると、何かを引きずり出すようにして、闇が男の身体から離れていった。それは青年の背中に納まると、小さくしぼんで見えなくなってゆく。


「ネエ、紫苑しおん……」


 先ほどから、後部座席で事の成り行きを眺めていた少女が口を開いた。どこか妙な訛りのある、少し不自然な日本語だった。


「食事、終ワッタノ?」


「ええ、終わりましたよ。でも、この男の闇は、大して美味しくはありませんでしたね。あるのは我欲の塊ばかりで、少々大味な感じは否めません」


「ソウ……。デモ、私ニハ関係ナイカナ……」


 待ちくたびれたと言わんばかりの表情で、少女が後部座席から首を伸ばす。横から男の顔を覗き込むと、男は既に正気を失って笑っていた。


「あ……あはは……。あははは……」


 悲しみも、苦しみも、そして痛みもない。全ての負の感情を吸い出された男に残されたのは、麻薬の見せる幻覚にも似た多幸感。


 既に男には感情らしい感情も残されていなかったが、少女にとってはどうでも良いことだった。


 目の前の男は餌でしかない。壊れていようといまいと、これから自分が男の魂を喰らうことに変わりはないのだから。


「サッキノハ、カナリ痛カッタヨ。ダカラ……今日ハ、イッパイ食ベサセテモラウカラネ」


 そう言って、少女は男の首筋に噛みついた。鋭い牙を突き立てて、男の身体に流れている気を吸い出して行く。


 青年が人の魂の負の部分を喰らうのだとすれば、少女が喰らうのは魂そのものだった。正も負も、陰も陽も関係ない。少女にとっては、この世に生きる者全ての魂が餌なのだ。


 少女が男の中身を吸い出すに連れて、男の身体は徐々に萎んでいった。顔には深い皺が刻まれ、肌が変色して目玉が抜け落ちる。頭髪が一瞬にして白髪になり、皮膚は乾燥し、最後は萎んだ風船のようになってミイラと化した。


「食事は終わりましたか、マオ?」


 車の外から先ほどの青年、紫苑が尋ねた。その声に、マオと呼ばれた少女は無言のままミイラから口を離す。


「しかし……今度は食べ残しの処理にも気を使って下さいよ。契約者へのアフターサービスも大切ですが、証拠を残すようでは困ります。警察に食べ残しを見つけられれば、こちらも動きにくくなりますからね」


「没問題。今度ハ、チャント山ノ中ニ埋メルカラ……」


 中国語を交えながら、マオは紫苑に言葉を返す。紫苑はそれ以上は何も言わず、県道から眼下に広がる火乃澤町の街並みを見つめていた。


「ここは良い町です。陰の気が程良く流れ込み、闇を育てるのに苦労しない……」


 夜風に吹かれながら、紫苑は山の冷たい空気を思い切り肺に取り込んだ。冷気と同時に流れ込んで来る陰の気が、彼の身体に心地よい刺激となって浸み渡る。


 彼にとって、闇は最高のディナーである。病みを闇として醸成した人間の魂、純粋な想いが転じて生まれた負の感情こそが、彼にとっての嗜好の食べ物。人間の魂の闇の部分だけを喰らうことによって、彼の身体の飢えと渇きは満たされる。


「今回は失敗でしたが……しばらくは、様子を見ることにしましょう。どうやら、僕の敵になりそうな者も動いているみたいですしね。その分、育てがいのある闇に出会えると良いのですが……」


 風が吹き、木々の梢を乱暴に揺らした。なびく髪を押さえながら、紫苑は後ろに振り返る。


「ねえ。そう思いませんか、マオ?」


 車の中から返事はなかった。代わりに聞こえて来たのは、夜の山に響く鈴の音。



――――チリン、チリン……。



 髑髏の鈴を鳴らしながら、紫苑の足元に一匹の黒猫が現れる。その猫を胸に抱きかかえると、紫苑は再び夜の火乃澤町を見下ろしながら、その顔にうっすらとした笑みを浮かべていた。

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