第一話:凍える命と、星降る丘
重い鉄鍋を地面に下ろすと、ターレンの視界に降るような星空が飛び込んできた。夏の夜の熱い空気で肺を満たしながら、彼女はゆっくりと息を整える。
「ふぅ……。ありがとうね、カイ。リオを連れてきてくれて」
ターレンが髪をかき上げながら振り返ると、背中からリオをそっと地面に下ろしたカイが、白い歯を見せて笑った。
「気にすんなって。こんな坂、俺にとっちゃ準備運動みたいなもんだ。な、リオ?」
「……ごめんね、カイ兄ちゃん。僕がもっと、自分でお山に登れるくらい元気だったらよかったんだけど」
リオが申し訳なさそうに俯き、細い声でこぼした。
カイは「馬鹿野郎、お前は特等席で景色を楽しんでりゃいいんだよ」と、わざと明るい声でその頭を小突いた。
ターレンは、そんな二人のやり取りを、微かな痛みを伴う愛おしさで見守る。
トウヤも少し遅れて、拾い集めた薪を抱えて登ってきた。
もともとは、両親が健在だった頃に家族四人で始めた、夏の夜のスープ作りだった。
お気に入りの具材を持ち寄り、星が一番綺麗に見えるこの丘で、夜通し火を囲んで過ごす――両親を亡くしてからは幼馴染のカイとトウヤが加わり、すでに四人で何度も重ねてきた、大切な恒例行事だ。
けれど今年は、リオの容態がいつになく悪かった。
ターレンは今回ばかりは留守番をさせようとしたのだが、リオが「どうしても行く」と泣いてきかなかったのだ。
家に一人で置いておくのも心配だし、たまには外の空気を吸わせてやりたいというターレンの甘さもあったが、こうしてカイたちが当たり前のように手を貸してくれることが、何よりありがたかった。
石で組んだささやかな囲いに薪をくべ、小さな焚き火を起こす。
爆ぜる火の粉が、集まった若者たちの若すぎる輪郭を代わる代わる赤く浮かび上がらせた。
「……なあ。俺、やっぱり騎士になるよ」
草むらに身を投げ出したカイが、天を突くように腕を伸ばした。
指先が、今にも一番星を掴みそうだ。
かつては木剣を振り回しながら無邪気に叫んでいた夢だったが、今夜の彼の声には、いつになくいっそ重々しいほどの響きがあった。
「王都の騎士団に入ってさ。柄が擦り切れるまで本物の剣を振って、いつかあの隊旗を背負うんだ。……笑うなよ?」
その隣で、トウヤが膝の上で使い古した魔導書の頁を閉じ、静かに鼻を鳴らした。
いつも冷静な彼の切れ長の目が、炎を映して熱を帯びている。
「笑わないさ。……なら、俺も決めた。宮廷魔道士だ。老師の許しが出れば、この秋にも王都へ向かう。上手くいけば、お前の背中を追いかけることになるかもな」
「一緒に行こうよ」
毛布の繭に包まれて座っていたターレンの弟、リオが、消え入りそうな、けれど確かな熱を帯びた声で応じた。
病の色が差した頬は月光に透け、瞳だけが夜の底で消えずに灯っている。
「僕は王都の図書館で、一生をかけて虫たちの言葉を調べたい。……二人とも、王都に行ってもまたこうして集まってくれるよね?」
「当たり前だろ」
カイが快活に笑う。
「でも、姉さんのご飯が食べられなくなるのは嫌だなあ」
口を尖らせてリオがぼやくように続けると、ターレンは手元の鉄鍋を木の匙でかき混ぜながら応じた。
「食べさせてあげるわよ、どこにいたって」
ターレンはそう言って笑ってみせた。
石で組んだささやかな囲いの中で、薪の火がパチパチと音を立て、ドロドロに煮えたぎるシチューの香りを湯気とともに押し上げている。
数年前、流行り病で両親を相次いで亡くして以来、ターレンの日常はこの鉄鍋の重みと、幼い弟の細い身体を支えることだけで満たされてきた。
生きるためにパンを焼き、日銭を稼ぎ、リオの明日の命を繋ぐ。
それだけで精一杯だったターレンには、彼らのようにいつかを語る余裕などなかった。
「姉さんは? ……まだ、やりたいこと、見つからない?」
リオの純粋な問いに、鍋をかき混ぜるターレンの手が止まった。
夢。何度も聞かされてきたカイの、トウヤの、底抜けに無垢なリオの。
三人の視線は、王都という煌びやかな壁の向こう側へと一直線に伸びていた。
迷いのない、若さゆえの残酷なほどの直進。
「……わからないわ。私には、この鍋があれば十分よ」
匙が鍋の底を削るような、虚ろな音が響く。
この村から出られない理由を、病床の弟に語るわけにはいかなかった。
「姉さんの作るご飯が食べたい。僕は、それだけで十分だけどね」
リオが、白樺の枝が揺れるような仕草で力なく笑った。
ターレンは答えず、ただ煮え立つ鍋を見つめ続けた。
顔に当たる熱い湯気が、いつの間にか目の奥に溜まっていた熱を誘い出し、視界をわずかに歪ませた。
今夜、この子がこうして起きて、笑っている。
その危うい事実だけが、今のターレンにとって世界に繋ぎ止められている唯一の光だった。
◇◇◇
楽しい時間は瞬く間に過ぎ、夜風が冷たさを帯び始める頃には、毛布にくるまったリオの呼吸が浅くなっていた。
やはり、夜の山登りは彼の身体には障ったのだろう。
「……リオの身体が冷える前に、先に連れて帰ってくれ。残ったスープの片付けと、鍋洗いは俺たちがやっておくから」
カイの言葉に甘え、ターレンは使い終えた重い鉄鍋を彼らに託した。
「火の始末は俺が確実にやっておく。先に行け」
トウヤも短く言って、焚き火の熾火に土をかぶせ始める。
帰り道、夜風は丘の上よりも一段と冷え冷えとしていた。
行きにカイが背負ってくれた、リオの細い身体。
今度はターレンがそれをしっかりと両腕で背負い、静まり返った坂道を下りていく。
背中でハアハアと荒い息を繰り返すリオの熱が、衣服越しに伝わってきた。
「……ねえ、姉さん」
耳元で、リオが蚊の鳴くような声で囁いた。
「なあに、リオ。少し喋りすぎたね。もうすぐ家だから、目を閉じてて」
「ううん、聞いて。……僕ね、ずっと考えてたんだ。姉さんと一緒に、お部屋の隅でお薬を試したときのこと」
背負った小さな身体が、愛おしそうにターレンの首に細い腕を回してきた。
「僕たちのために、小さな命を奪ってごめんねって……いつも二人で、神様に謝りながら、蟻や甲虫を煎じたよね。本当は、そんなことしたくなかったのに。僕のために、姉さんに何度も辛い思いをさせちゃった」
ターレンは胸の奥を突かれたような痛みを覚えた。
治療のため、生きるためとはいえ、虫一匹を殺すことすら恐ろしく、二人で涙を流しながら鍋を火にかけた日々の記憶が蘇る。
あの子を救いたい一心で、母から教わった《かつて村人が虫様の死骸を煎じていた製法》を、身近な虫で代用できないかと試行錯誤した切実な時間だった。
「僕、あの子たちの命を無駄にしたくなくて、ずっと観察してたんだ。でもね、どれだけ心を痛めて丁寧に煎じてもらっても、普通の虫じゃ、僕のこの熱には全く届かなかった。……やっぱり、村の伝承は本当なんだね。神聖なあの『虫様』の死骸じゃなきゃ、この病気は治らないんだ」
リオの声には、膨大な観察と、奪ってしまった命への罪悪感を背負った少年としての、静かな確信が満ちていた。
それはうわ言や子供の夢想などではなく、十三歳の少年の純粋で、どこか悲痛な結論だった。
「だからね、姉さん。もし……もしも、あの洞窟にある虫様の死骸が手に入るようなことがあったら、僕に分けてほしいんだ」
その一言に、ターレンの足がぴたりと止まった。
「……何を言っているの、リオ。虫様は、村の聖域にいらっしゃる神聖な生き物よ。村長の許しもなく、私たちのような者が勝手に触れていいものじゃないわ。そんな不敬なこと、絶対に駄目」
たしなめる自分の声が、驚くほど震えている。
それは、いくら病気のためとはいえ、聖域を汚して神聖なものを盗み出すという、何百年も村を縛ってきた掟を破ることへの、剥き出しの恐怖だった。
「知ってるよ。村長も、いつもそう言ってる」
リオはターレンの肩に頭を預けた。
「でも、死骸なら、もう誰の命も奪わなくていいんだ。誰も殺さずに済む。それに、姉さんのあの煎じる技術があれば、あの虫様の死骸から、僕のこの燃えるような胸の痛みを消すお薬を作れるかもしれないのに……」
最後の言葉は、熱に浮かされたように消えていった。
かつて、まだ今の村長になる前。病気の村人が虫様の死骸を薬として使うことが許されていた時代、母から受け継いだあの煎じ薬の製法が、ターレンの記憶の底にはっきりと眠っている。
死骸さえ手に入れば、誰も殺さずに、自分があの子の薬を作ることができる――その可能性が、呪いのように頭をもたげた。
だが、今の村長になってから、死骸は決して村人の手には渡されなくなった。
洞窟の中で稀に見つかるというその神聖な骸は、一般の人間が拝むことすら叶わない。
ターレンは弟をもう一度背中で背負い直し、歩みを速めた。
家々の窓から漏れる灯りが、二人の影を長く不格好に引き延ばす。
ただの熱が言わせた、子供の夢想だ。そう言い聞かせながら、暗い我が家の扉を押し開けた。
しかし、背中でハアハアと荒い息を繰り返すリオの熱は、家に入り、彼を寝床に横たえた後も、ターレンの胸の片隅に小さなしこりとなって残り続けた。
それは消えない火種のように、じりじりと彼女の内側を焦がしていた。
◇◇◇
夢を語り合った満月の夜から一ヶ月、リオの病状は好転せぬまま、季節だけが確実に巡っていた。
そんなある日の午後、広場の一角。ターレンはいつものように、古びた木箱を台にしたささやかな露店に立っていた。
今日は運良く、焼き立てのパンはすべて売り切れていた。
残っているのは、昨日焼きすぎてしまった、少し硬くなった数個のパンだけだ。
ふと耳を澄ませたとき、広場の中央で男たちが興奮した声を上げているのが聞こえてきた。
「おい、聞いたか! 聖域で、虫様の死骸が見つかったそうだ!」
その一言に、心臓がドクリと大きく跳ね上がる。
「ああ、聞いた。年に一度の祭りを前に、なんて吉兆だ。村長がすでに回収して、屋敷に保管しているらしいな」
男たちは口々に「これで今年の収穫も安泰だ」と笑い合い、祭りの準備へと戻っていく。けれど、ターレンはその場に釘付けになったように動けなくなっていた 。
いま、現実に村長の手元に、あの『薬』の原料が出現したのだ。
呆然と立ち尽くす彼女の背中に、不意に野太い声がかけられた。
「ターレン。パンはあるかい」
振り返ると、獣の脂の匂いを纏った猟師の妻、ミラが立っていた。
「あ……ミラさん。すみません、今日は焼き立てが全部出ちゃって、昨日の残りしかなくて……」
「いいさ。交換だ、これを持っていきな」
ミラは無造作に、売り物にならないほど硬くなったパンをすべて掴み取ると、代わりに布に包まれたずっしりと重い塊を台の上に置いた。
強引に手渡された肉の塊は、まだ生々しい重量感を持って掌に沈んだ。
「リオはどうだい」
ミラの深く刻まれた眉間の皺が、案じるように動く。
「……変わりません。……ありがとうございます。いつも、こんなに良くしてもらって」
「……しっかり食べさせるんだよ」
ミラは短く鼻を鳴らし、それ以上何も言わずに去っていった。
昨日のパンと引き換えにするにはあまりに立派な肉の重みに、ターレンは目頭が熱くなるのを覚えた。ミラがなぜ毎日わざわざ売れ残りを買いに来てくれるのか、その本当の理由は分からなくても、向けられた慈しみだけは真っ直ぐに彼女の胸に届いていた。
だが、その直後に脳裏をよぎったのは、家で苦しむリオの、胸を掻きむしるような咳の音だった。あの子の命の灯火は、確実に短くなっている。
肉の包みを握りしめる指先に、じわりと嫌な汗がにじんだ。
掟を破る恐怖が足元から這い上がってくる。村長に直訴するなど、正気の沙汰ではない。
けれど、ミラの優しさにただ縋っているだけではあの子は救えない。
あの虫様の死骸なら――リオが言った通り、もう誰も、何の命も傷つけずに弟を救うことができる 。その奇跡がすぐそこにあるのなら、もはや手を伸ばさない言い訳にはならなかった。
夕暮れの広場には、収穫と虫様への感謝を捧げる宴のための提灯が、次々と吊るされていくのが見える。
街並みを赤々と不気味に染め上げるその光は、まるでターレンの胸の中に燃え盛る焦燥そのもののようだった。
今夜、宴の夜。村長が広場に出てくる、唯一の機会。
喉が、からからに干からびるような緊張が襲う。
それでも、ターレンは露店の片付けもそこそこに、すでに一歩、村長の座す中央へと踏み出していた。
戸惑いも言い訳も置き去りにするように、身体が勝手に動き出していた。




