66.消せない想い⑧
日が昇ると同時に、テンペスタ城に集まっていたイーリスの軍勢は、テンペスタとイーリスの国境沿いの町、テスへと移動した。半日かけて辿り着いたその地は、周囲よりも一段と深い氷に閉ざされており、不気味なくらい命の気配を感じさせない。平兵士エドガーもまた、疲れ切った顔をした兵たちに混じり、テスの地を踏んでいた。
隣国テンペスタとの戦、魔獣の討伐、魔王が率いる魔物たちとの戦い。足を運んだ戦場を数えるだけでも眩暈がするというのに、ついには昨日、ユリア女王自らが戦場に姿を現した。直接声を掛けられた時には、とうとう今日こそ自分は死ぬらしいと覚悟を決めたものだが、どういうわけか、その日の夕暮れ時の戦を境に魔物たちは一斉に攻撃をやめ、荒野の果てへと消えていった。どうやら、一時は戦死したと噂されていた勇者が、異形の魔王を生け捕りにしたらしい。
残る急務は、イーリス各地に残る魔物の対処と、魔王によって傷つけられたという結界の強化だけだ。各地に散った同僚たちも、時を同じくして似たような任務にあたっていると、風の噂で聞いている。
テスの神殿を囲む森の中央で、兵士たちに囲まれる中、女王が前へと足を踏み出した。続くように、金色の髪の勇者が、厳しい顔をしながら前に出る。彼の手には、物々しい鎖が握られていた。鎖の先には、後ろ手に手枷を嵌められた美しい異形の魔王が、雁字搦めに繋がれている。
世界の敵。結界を破り、魔物を大陸に呼び込み、魔を従えて大陸中を荒らしまわった、人類の敵だ。テンペスタがイーリスを侵略する理由となった結界の綻びさえ、ともすればこの魔王によるものなのではないかと噂されている。
自分たちが経験した苦しみは、すべて目の前の化け物によって引き起こされた。そう思うと、どれだけ憎んでも憎み足りない。エドガーは強く魔王を睨みつけた。
「アシエル」
女王の凛とした声が、勇者の名を呼ぶ。はっとして、エドガーは勇者に視線を戻した。
「氷を溶かせ。このままでは神殿へ進めない」
「はい、陛下」
恭しく答えた勇者は、魔王から手を離さぬまま、空中に赤く煌めく魔法陣を生み出した。戦場で見かける光の魔術とは違う輝きに、思わず目を引かれる。不思議なことに、魔法陣は勇者が手を放した後もひとりでに成長しているように見えた。隙間を埋めるように光が広がり、勇者が描いた言葉を細くするように、緻密な文言が書き込まれているように見える。神秘的な光景だった。
勇者がぴくりと片眉を上げて魔王を見る。面白くなさそうな顔をしているように見えなくもなかったけれど、自分で生み出した魔法陣に対してそんな顔をする理由もないので、エドガーの見間違いだろう。
「広域魔術を起動」
勇者の金色の髪を赤く照らしながら放射状に広がった炎は、地面を舐めるように進みながら、木々を燃やすことなく氷だけを溶かしていく。雪解けの季節を先取りしたかのように強制的に溶かされた氷は、ともすれば地面に染みこむよりも早く峡谷へと流れ込んでいった。
満足そうに頷いた女王は、護衛たちに囲まれながら、軍隊の先頭に立って森を進んでいく。
「各地の状況は?」
「準備はすでに整っていると、朝のうちに連絡が届いております」
「よろしい。手筈通りに、まずはテスの町で術を起動する。合わせて各地での術式の起動を確認後、結界の生成まで持ちこたえましょう」
「承知いたしました。作戦実行時間は三時間程度と見込まれます」
「指揮は任せる。どうか我らに、神のご加護がありますように」
女王と言葉を交わした指揮官が、きびきびと指示を出し始める。壊れた神殿の前で足を止めた女王は、項垂れて顔を上げない魔王へと、憐れむような視線を向けて口を開いた。
「……始めようか。魔王、そなたに言うべき言葉はない。真に責められるべき存在には報いを受けさせよう。同じことを繰り返さないことを、イーリスの女王として誓おう。けれど、それだけだ。そなたに良心があるならば、魔物を従える者として命じるがいい。この地から魔物を追い出せ」
女王が告げる言葉の意味は、エドガーには分からない。けれど、結界を修復するために必要な何かを、魔王に命じたことだけは理解した。
魔王がゆっくりと顔を上げる。ヒトに近かった瞳が黒く侵食され、一目で異形のものと分かる黒と紫に染まった。うつろな目を空に向けた魔王は、声を出さずに静かに唇を動かした。声にはならない声は、人間の耳には届かずとも、魔物の耳には聞こえるのだろう。あたりに立ち尽くしていた魔物たちが一体、また一体と天を仰ぎ、悲鳴のような声を上げては、姿を消していく。
この異形は、本当に魔物を操ることができるのだ。見惚れるように、エドガーはその神秘的な光景を見つめていた。
視線を空に向けながら、歌うように魔王は声なき声を届け続ける。呼応するように、魔物たちの悲しげな声が空に響いた。
この現象が起きている場所は、きっとテスの地だけではないのだろう。遠くから、幾重にもこだまする声が、さざなみのように聞こえてきた。
やがて、辺り一体から魔物の気配が消えたころ、ユリア女王が手を上げる。
「よし。結界術式を起動せ、よ――⁉」
神殿の前に立ち並んだ魔術師たちにユリア女王が命じようとした瞬間、地面が揺れた。そう錯覚するほどの強い衝撃が、エドガーたちを襲った。立っていられないほどの風圧に、悲鳴を上げながら皆が吹き飛んでいく。
地面に転がったエドガーは、空を悠々と泳ぐ巨大な魚を、絶望とともに見上げた。
「下がってください、ユリア様!」
緊迫感に満ちた勇者の声が聞こえる。苦しげに顔を歪めた魔王の手枷を強く戒めながら、苦々しく舌打ちをして、勇者は叫んだ。
「野良の魔物だ! 魔王の制御を受けない! 戦のときに現れた化け物が、テスの町に残っていたんだ。全員備えろ!」
その言葉に、エドガーは数か月前の悪夢のような光景を思い出す。
魔物の侵攻が始まった日、テスの町の最前線は、二体の空飛ぶ魚の魔物に襲われた。幸か不幸か、その日エドガーの部隊は補給路の守りに回されており、直接魔物と戦ったわけではなかったが、空を泳ぐ巨大は遠くからでも恐ろしく見えたことをよく覚えている。うろこを飛ばすその巨大な化け物は、戦場を丸ごと氷漬けにして、いくつもの部隊を全滅させたと話に聞いた。勇者が生死不明に陥るほどの負傷を負ったのも、たしかあの化け物のせいではなかったか。
昨日の戦闘で誰もが疲れ切っている今、この人数でそんな化け物に勝てるわけがない。ざっと血の気が引いていく。
「う、うあああ!」
魔術部隊が一斉に攻性魔術を打ち始める。エドガーたち弓兵部隊も、焼け石に水とは知りつつ、必死に弓矢を空に放った。
混乱する兵たちを嘲笑うように、空魚は低い高度を泳ぎ出す。
誰もが恐慌状態に陥っていた。だから誰も気付かなかった。致死性の高いうろこの攻撃を、一度たりとも空魚が使っていないことも、兵士を弾き飛ばしこそすれ、殺意を持った攻撃を行っていないことにも。
「ユリア様!」
勇者が悲鳴のような声を上げる。加速した空魚が向かう先には、峡谷の端を通って避難しようとしていたユリア女王の姿があった。
鋭い牙が無数に生えた口を、空魚が大きく開ける。女王が飲み込まれると誰もが青ざめた瞬間、勇者が女王を庇うように腕を引き、その身を空魚の前に滑り込ませた。
勇者が連行していた魔王ごと、空魚はぱくりと勇者を飲み込んだ。
「な――!」
もぐもぐと無慈悲に口を動かした空魚は、高度を上げながら、やがて飽きたように口の中のものを吐き出した。直後に、耳が痛くなりそうなほどの爆音が、空魚の体内から響いてくる。化け物の腹を突き破って、勇者が出てくることを期待したけれど、いくら目を凝らせど勇者の姿は見えなかった。
苦しむように空を泳いだ空魚は、爆炎と煙の軌跡を空と大地の両方に残しながら、上空へと逃げていく。あの爆発は、勇者が死に際に残したせめてもの抵抗だったのかもしれない。
呆然と膝をつきながら、エドガーは空を見上げていた。傷つき倒れた仲間たちも皆、呆気にとられたように空魚の残した煙の軌跡を見つめていた。
「――アシエル少尉!」
ひとりの兵士の声が、沈黙を破った。慌てた様子で峡谷に駆け寄ったその兵士は、煙に覆われた視界の中で、必死に目を凝らし、勇者を探しているようだった。
ばさりと音がする。見れば、魔王がまとっていた黒いローブの残骸と思わしき布切れが、風に揺られて木に引っかかっていた。険しい顔をしたユリア女王は、膝をついて峡谷をのぞき込む兵士に、静かに問いかける。
「勇者の姿は見えるか」
空魚が残した土煙と爆煙のせいで、何も見えないほど視界は悪い。そんな中で女王がわざわざ問いかけるのだから、きっとあの兵士は目のセンチネルなのだろう。しばらく下を眺めていた兵士は、やがて諦めたように力なく頭を振った。
「雪解けの水で、峡谷に川ができています。服と剣の残骸は見えますが、その他には、何も……」
「そうか。遺体だけでもと思ったが……」
勇者の生存は絶望的だと、エドガーでも分かった。あんなにも巨大な化け物に噛みつかれて、生きていられるわけがない。流れの早い峡谷の川に落ちたとしたら、遺体の回収さえ難しいだろう。
悲しげに視線を伏せた女王は、瞬きの合間に感情を隠すと、凛と指示を出し始める。
「歩兵は怪我人の手当とともに周囲の警戒に当たれ。魔術師たちは結界術式を起動せよ。勇者が身を犠牲にして稼いだ時間を無駄にするな。魔物どもが戻って来る前に、必ずや術式を完成させるのだ!」
ユリア女王の号令を受け、弾かれたように兵士たちは動き出す。魔術師たちが起動させた薄く輝く陣は、ゆっくりと空へと浮かび上がり、蜘蛛の糸のようにきめ細やかな光を遠く遠くへと伸ばし始めた。
時間を追うごとに、再度魔獣たちの数は増えていく。次から次へと顔を出す魔獣を必死で追いかけているうちに、いつしかエドガーは、神殿前の広間まで足を踏み入れてしまっていた。気付いた瞬間、青褪める。
結界が完成するまで近寄るなと言われていたのに。
急いで踵を返そうとして、その直後、エドガーはユリア女王が木々の合間に立っていることに気が付いた。慌てて建物の影に身を隠す。
女王は腕に何かを抱えていた。向かいに立っているのは、テンペスタ兵らしき青年だ。女王が抱える何かへと必死に手を伸ばしながら、「話が違うではないか!」と鬼気迫る表情で怒鳴っている。
「黙らせろ」
「はっ」
女王が一言命じるや否や、隣に付き従う兵が流れるようにテンペスタ兵を押さえつけた。なおも暴れる青年を嗜めるように、「もういいよ、アレッサンドロ」と優しげな男の声が響く。
女王の手の上の、布に包まれた何かから声が聞こえた気がしたのは、エドガーの気のせいだろうか。
「甘いことだね、イーリスの女王。二人揃って命を落とす? おまけに死体も見つからないだって? タイミングがよすぎると思わないのかい」
「これも神のお導きだ」
ユリア女王は冷たい視線を手の内に向けていた。いつも穏やかに微笑んでいる女王とは思えない、怒りと嫌悪に塗れた表情に、エドガーは己の目を疑う。
「神、神、神。よくもまあ、そこまで信じられるものだ。でもそんな空想は、もう終わる。我々が作り上げた結界が成立すれば、過去の結界は神の御業などではないと証明される。馬鹿げた思い込みは、ようやく終わるんだ、若きイーリスの女王よ」
「――これは、神の結界だよ」
聞いているこちらが凍りつきそうになるくらい、冷たい声だった。エドガーの知るユリア女王は、一度たりともそんな声を出したことはない。
「嘘は嘘と知られて初めて嘘になる。そして死人に口はない」
「何?」
「結界は綻びた。そして形を変えて、また与えられる。そなたの作り上げた技術は、人の手にはまだ余る。二度とそなたのような愚か者が現れぬよう、イーリスは神の御許の国として、結界を守り続けるとしよう」
「どうかな。同じことの繰り返しだと思うがね。愚か者はどちらか、叶うことなら結果を確かめたかったものだ」
「……さようなら、死と不幸を振り撒いた元凶よ。生涯を費やした術式の種となれる幸運を、神に感謝するといい」
冷たく言い放った女王は、布に包まれたその物体を、光り輝く術式の中に放り込んだ。音もなくそれは光に焼かれ、はらりと布が地面に落ちる。
女王が振り向く。彼女の顔を見る前に、エドガーは踵を返して逃げていた。己が何を見たのかは分からない。けれど、見てはならぬ何かを見てしまったことだけは、理解できた。
後世に名を刻まれることのなかったひとりの兵士は、ただその時代に居合わせた者のひとりとして、歴史に刻まれるだろう日を目撃したのだった。




