65.消せない想い⑦
空が白む直前の、最も空気が冷え込む早朝に、アシエルはひとり城の外を散歩していた。仮眠はもう十分に取った。夜が明ける前に彼がするべきことは、あとひとつだけだ。
「魔王はもういいのか、アシエル少尉」
イーリス兵の陣地へと足を向けた瞬間、背後から声を掛けられた。
やっぱり来た、と苦笑しながら、アシエルは振り返る。
見張りをつけるとユリアは言っていた。見えない範囲から標的を見張るならば、目のセンチネル以上の適任はいない。そして、集められたイーリス兵の中で、透視ができるほど力が強く、女王の信が厚いだろうセンチネルはひとりしかいない。
「おかげさまで。ゼークラフト中尉も大変だな。仮眠くらい取らないのか」
「残念ながら代わりがいない」
「目のセンチネルはいつだって人気者だもんな」
茶化して言えば、ゼークラフト中尉は疲れたように肩をすくめた。
「そう思うなら出歩くなって。勇者と魔王、ふたりまとめて見張っておけって言われているんだ」
「だろうな。俺とあいつが手を組んだら、この数相手でもそこそこいい勝負になるんじゃねえ?」
「冗談にならないからやめろ」
大げさに耳を塞いで見せたゼークラフト中尉は、ちろりとアシエルに視線を向けると、「それで?」と呟いた。
「俺に用事があるんじゃないのか、アシエル少尉」
「さすが、勘がいいな」
「あれだけきょろきょろしながら歩いていたら、さすがに分かるよ」
にかりとアシエルは笑った。話が早くて助かる。
「俺さ、死にたくないし、死なせたくないわけよ」
あえてぼかして伝えたが、ゼークラフト中尉には正しく伝わったらしい。困ったように眉尻を下げている。
「少尉は別として、向こうは始末されるだろうな」
「うん。でも、俺がいないとあいつは死ぬし、あいつがいないと俺は死ぬ。同じことなんだ」
「センチネルにガイドが必要なのはまだ分かるけど、ガイドはセンチネルがいなくたって死にはしないだろう? なんでアシエル少尉まで死ぬって話になるんだ?」
「今の俺は、歩く死体なわけよ。イカサマで生きてるようなものだ。魔力を分けてもらわないと死ぬ。多分、あいつくらい魔力が溢れてるやつじゃなきゃ、賄えない」
半分嘘で、半分本当だ。これまでそうしてきたように、魔物の血から魔力を集めることだってできるだろう。けれど、そうまでして不自然な生を生き続けるなど御免だった。相手がディズジェーロであるから、アシエルは命を与えられることを受け入れられる。たとえ己が神の教えに反する存在だとしても、ああまで望まれるならば生きていてもいいのではないかと思えるのだ。
「……難儀な体になったもんだな」
ゼークラフト中尉は沈んだ声でそう言った。アシエル自身は魔力を持たないと白状したようなものだったが、気付いているのかいないのか、ゼークラフト中尉は深く追及することはしなかった。
正面から視線を合わせると、言葉を促すようにゼークラフト中尉は微笑んだ。緊張で乾いた口を無理やり動かして、アシエルは言い慣れない言葉を口にする。
「頼みがあるんだ」
ゼークラフト中尉は無言で頷き、続きを促した。
「難しいことじゃない。ひとつだけ、口裏合わせをしてほしいんだ。ゼークラフト中尉は目がいいから、お前だけはきっとごまかせない」
以前であれば、他人を頼ろうとは思わなかった。テンペスタに潜入する直前、ゼークラフト中尉からアシエルの命のための口裏合わせを持ち掛けられたときには、即座に断った覚えがある。けれど、再会に涙を浮かべてくれるほどアシエルのことを案じてくれた友人ならば、頼ってもいいだろうかと考えてしまった。ディズジェーロとともに生きるために、足掻いてみたいと思ってしまったから。
「もしもバレたら、お前の首も飛ぶかもしれない。それでもどうか頼めないか。ゼークラフト」
アシエルを友だと言ってくれた十年来の同期は、アシエルが懇願するように言い切った瞬間、待っていたと言わんばかりに笑み崩れた。
「任せとけ」
にやりと笑ったゼークラフト中尉は、アシエルに向かって拳を突き出した。応えるように拳を合わせて、緊張に強張っていた顔をごまかすようにアシエルは笑う。
「ありがとう。恩に着る」
「いいよ。それで? 悪巧みの内容は?」
ゼークラフト中尉の耳元に口を寄せ、アシエルは早口に頼みの内容を伝える。片眉を上げたゼークラフト中尉は、笑みを深めて力強く頷いた。
* * *
部屋に戻ると、ディズジェーロの姿は寝台から消えていた。代わりにどこからか、ざりざりと何かを削るような音が聞こえてくる。音を辿って洗面所に顔を出したところで、アシエルはぽかんと口を開けた。
「……おかえり」
手元から顔も上げぬまま、ディズジェーロはぼそりと呟く。
「ただいま。いや、それはいいんだけど、何?」
「何、とは? 邪魔なものを切っているだけだ」
「ああうん、さっぱりしたな」
ディズジェーロの腰まで伸びていた艶やかな髪は以前の長さまで切りそろえられ、刃物のような爪も短く切り落とされていた。ざりざりという鳥肌が立ちそうな音は、やすりで爪を整えていた音らしい。使用人のひとりもいない割には身なりが整っていると以前から思ってはいたが、慣れた様子からして、どうやらこれまでも自分ですべてやっていたようだ。
髪や爪も驚いたが、それ以上に変化が著しいのは、ディズジェーロの瞳だ。
「目、どうしたんだ?」
虹彩が赤色に変化していた。白目の部分も、血走ってはいるものの、人間らしい白色に戻っている。
「……どうでもいいだろう」
「よくはねえだろ。姿変えの魔術でも使ったのか?」
その割には角と尾はそのままだ。首を傾げていると、「違う」と言いながらディズジェーロはやすりを置いた。
「変えた」
「変えられるのか。でも端の方の白目、黒くなってるぞ」
指摘すれば、舌打ちとともに黒色が引いていく。完全に思い通りにできるわけではないようだが、本気で自分の意思で変えられるらしい。ばつの悪そうなディズジェーロの様子には、さながら舌をしまい忘れた犬猫のような愛嬌があった。吹き出すようにアシエルは笑う。
「気合いがいるならそのままにしときゃいいのに」
「私の勝手だ」
くつくつと笑いながら、アシエルはディズジェーロの真正面に立ち、記憶の中の通りの赤色を懐かしく見上げた。
「きれいだな。ディーの目、きれいだ」
ディズジェーロが満足そうに目を細めた。そう言われたくてわざわざ試行錯誤していたのかと思うと、たまらない気持ちになる。
引き寄せられるように近づいてきた唇を、アシエルは目を閉じて受け入れた。滑らかに整えられたディズジェーロの指がアシエルの髪を辿り、首の後ろを掴む。触れた唇の間から忍び込んだ舌が、戯れのようにゆるゆるとアシエルの舌を絡み取っていった。
もっと深い接触が欲しくて追いかけるが、ディズジェーロの舌は諫めるようにするりと逃げてしまう。穏やかな幸福感だけを与えて離れていった唇は、ほんのわずかに赤みを増していた。ぞくりと背筋を走る感覚に、アシエルは呻くように嘆きを零す。
「……あー、やりてえ……」
「じきに朝日が昇る」
そういうディズジェーロの目の奥にだって、燻る熱が見えていた。アシエルもきっと同じ顔をしているのだろう。これ以上触れていると、本気でその気になりかねない。名残惜しい気持ちを押し込んで、アシエルは身を離した。
「分かってるよ。全部無事に終わってからだな。……準備はいいか」
返事の代わりに差し出された拳に、己の拳を軽くぶつける。
勇者と呼ばれたアシエルと、魔王と呼ばれたディズジェーロの、最後の一日が始まった。




