64.消せない想い⑥
テンペスタ城の門をくぐって、人のいない廊下をのろのろと歩く。記憶を頼りにディズジェーロの私室へと向かってみれば、部屋の扉はすっかりと破壊されていた。どうやらディズジェーロは部屋には帰っていなかったらしい。アシエルがビーカーの中にいた間、常に近くに気配を感じていたことを思えば、不思議ではなかった。
埃っぽくはあるものの、幸いにも内部はそこまで荒れていない。寝台脇の机の上には、アシエルがディズジェーロの部屋を出たときのまま、栞の挟まれた本が置かれていた。
意識のないディズジェーロを寝かせつつ、その隣にアシエルはあぐらをかく。ディズジェーロの体には、見える範囲だけでも至るところに傷が残っていた。外傷も痛々しいが、見えない傷の方が今は深刻だ。アシエルにありったけの魔力を注いだせいで、ディズジェーロの魔力は枯渇状態に近い上、やつれた顔を見るだけで、溜まった疲労が一目で分かる。力なく投げ出されたディズジェーロの手を取って、アシエルはゆっくりと調律を始めた。
体力がもたなくなったら都度休憩して、全身汗だくになりながら、アシエルはディズジェーロの力を地道に整えていった。暴走を起こしていたディズジェーロの力は乱れ切っていて、一度や二度の調律では整えきれない。それでも、繋いだ力が透き通るにしたがって、ディズジェーロの呼吸が穏やかに落ち着いていく様子を目にすれば、疲れなど感じなかった。
周囲は静かで、ディズジェーロが立てる寝息だけがかすかに聞こえてくる。調律を終えて隣に寝転がっていると、うっかりとアシエルまで寝入ってしまいそうだ。
眠気覚ましに、アシエルはディズジェーロの顔を眺めた。以前にはなかった角は、髪と同じく艶やかな黒色をしていた。引き寄せられるように手を伸ばす。見た目は羊の角に似ているが、感触は磨き抜かれた石に近かった。
黒く艶々とした鱗に覆われた尾は、竜に似ている。触らなければ分からない程度のでっぱりでしかなかったというのに、今や足の長さと変わらない立派な尾になっているのだから、不思議なものだ。戦闘では役に立つかもしれないが、服を着るときに困るのではないのか。それともある程度は収納が効くのか。
好奇心を抑えきれず指を伸ばした瞬間、弱弱しい力でぐいと袖を引かれた。
「悪い。起こしたか」
声を掛ければ、気だるそうに起き上がったディズジェーロは、無言で首を横に振った。まばたきひとつせずにアシエルを見つめて、ディズジェーロは夢でも見ているかのように口を開く。
「アシエル」
「ん? 調子はどうよ。そこそこには整えたと思う、け、ど……?」
らしくもなくおそるおそると手を伸ばしたかと思えば、ディズジェーロはアシエルに触れることもなく手を握り込んでしまった。
やっと二人で会えたというのに、拍子抜けだ。諦めたような表情と仕草が気に入らない。鼻を鳴らしたアシエルは、ディズジェーロに思い切り抱き着くと、乱暴なくらいに背を叩いた。
「つれねえな。腕、回してくれねえの?」
「……こんな手では、お前に触れられない」
「爪か? まあたしかに鋭いっちゃあ鋭いけど、そんなんで傷つくほどやわじゃない。気になるなら後で切れば良いだろ」
腹を突き破られているので、たしかにその爪が凶器となり得ることは身を以って知っている。けれどそんなもの、気を付ければいいだけだ。
「違う」
アシエルの言葉を否定したディズジェーロは、懺悔するように額をアシエルの肩にそっと触れさせた。
「じゃあなんだ」
「……戦、を」
「うん」
「止めなければならないと思った。もう二度とお前があんな目に遭わないように」
吐き出される言葉を、アシエルは静かに聞いていた。
「皇帝の体を破壊した。再生不可能になるほどに。テンペスタの高位貴族を殺した。イーリスの要人を殺した。逆らう諸国の王を殺した。そのうち、自分が何をしたのか覚えている時間が少なくなった。やるべきことだけが頭にあった。敵対する国を抑えつければ、戦など起こらない。そう思って」
埃に塗れても不思議と艶を失っていない黒髪を、返事の代わりに撫でつける。
「私はきっと楽しんでいた。力で他者を押さえつけて、命を奪い、血を啜ることを。心から。理性もなく暴れて、アシエルのことも忘れて――」
「暴走してたんだ。ディーの意志じゃない。……でも、ちょっと意外だな。こう言ったらなんだけど、ディーもそういうこと、気にするんだな」
血も涙もないとまでは言わないが、ディズジェーロは敵には容赦しない冷酷な人間だ。違和感に首を傾げていると、ぼそりとディズジェーロが呟いた。
「お前は、意味もなく他者の命を奪う者を嫌うだろう」
掠れた声で告げられた言葉に、アシエルは苦笑した。
「ディーには俺が聖人か何かに見えるのか? 国にとって邪魔になるやつらを、降伏の機会もなく殺してきたから、俺は勇者なんて呼ばれてるんだ。罪もないテンペスタの兵士を一番多く殺した。テンペスタの皇帝だって殺そうとした。感謝してくれる人より、俺を恨んでる人数の方がよっぽど多いよ。死んだ後に天国や地獄があるなら、まず間違いなく地獄に落ちる。そんなお綺麗な人間じゃないって、知ってるだろうに」
「お前のそれは、すべて命令の下での行いだ」
「だから何だ。ユリア陛下にとっては意味のあることでも、俺にとってはなんの意味もない虐殺だ。お前が自分の手は汚れてるって思うなら、同じかそれ以上に俺の手だって汚れてる。……それともお前は、俺に触られるの、嫌か?」
「まさか」
「俺だってそうだよ。だから、今さら気にしてんな」
そう言ってディズジェーロに抱き着く力を強めれば、ようやくそろりと腕が回ってきた。壊れ物を扱うようにゆっくりと抱きしめられたかと思えば、やがて箍が外れたように、痛いほどに強くかき抱かれる。
「アシエル。アシエル、アシエル……!」
「痛えっつーの。ゼロか百しかねえのか」
笑い交じりに言った途端、腕の力が緩む代わりに、頬に手を添えられた。ほんのりと冷えた手の感触にアシエルがすり寄ると、ディズジェーロは嗚咽のような声をかすかに漏らす。
「ディー? どうした」
「……許さなくていい」
「何を?」
「私はお前を、お前が忌まわしく思う生き物に変えた。それでももう一度会いたかった。アシエル……」
懺悔そのものの言葉に、アシエルは苦笑した。
死んで蘇った己の体を、おぞましいと思っていた。血も流れず、傷をみるみるうちに再生する体が、気持ち悪くてたまらなかった。それでも、ディズジェーロにそんな顔をされて縋られれば、些細なことのように思えてしまう。
「お前のいない世界には耐えられない」
黒く染まった白目に、本能的な恐怖を呼び起こす紫の瞳。こちらを圧倒するような美しい異形の見た目をしているというのに、今はその顔はくしゃりと歪み、断罪を待つように青ざめていた。許さなくていいという言葉は、嫌わないでくれと必死で縋っているようにしか思えない。
思えば前からそうだった。
思い至った途端に、とうとうアシエルは吹き出した。アシエルよりもよほど頭が良いはずなのに、ディズジェーロは、自分の心をそのまま表す言葉をろくに知らないのだ。
「アシエル?」
「そういうときは一言ごめんって言えばいいんだよ。許すからさ。間抜けに死んだら、引きずり戻して後悔させてやるって、ディーはずっと前から言ってただろ。お前は言った通りのことをやっただけだ」
触れるだけの口付けを、乾いたディズジェーロの唇に落とす。
「好きだよ、ディー」
軽やかな音を立てて唇を離して、何でもないことのように、アシエルは言葉を紡いだ。心の中で伝えはしたけれど、起きた本人に言うのは初めてだ。
「……何が。お前が好きだと言ってくれた目も手も体も、すべて変わってしまった」
「ディーが好きだって言ってるんだよ。目も手も体も、ディーの持ち物だから好きだと思ったんだって、ちゃんと言えば良かったな」
ガラス玉のような澄んだ瞳に困惑だけを浮かべて、ディズジェーロはただアシエルを見返した。
「『好き』……?」
「うん」
「私は……お前を好ましく思う。アシエルのいない世界では生きられない。すべて壊してしまっても構わないと思う程度には、どうでもいい」
「そうか」
物騒な言葉が冗談ではないと知っているからこそ、アシエルはけらけらと笑った。
甘い言葉など求めていない。柔らかな感情など求めていない。アシエルがディズジェーロに対して抱く気持ちも、他に当てはまる言葉がないから好きだと言っているだけで、きっと中身はそんなにきれいなものではないからだ。それでもたしかに通じ合えることが、嬉しかった。
アシエルにつられたように、ディズジェーロが唇の端を持ち上げた。戯れのように、何度も唇を合わせては離して、そのたび笑い合う。ふと、視界の端に本がうつった。最後の最後で読み切ることができなかった、勇者と魔王の話だ。
「ディー、あれ読んでくれよ。あとちょっとで最後だったんだ」
「本気で読み聞かせをさせられる日が来るとは思わなかった」
「いいだろ、別に。自分で読んだら明日までに読み終わらねえよ。……どこまで読んだんだったかな。魔王と勇者が友達で……帰ろうって言ってたんだったかな」
いそいそと寝台の上に本を広げて、のぞき込む。
「『魔を導く者』と、『勇敢なる青年』だ」
眉根を寄せながらも、ディズジェーロは否とはいわなかった。
渋々といった様子で、ディズジェーロは文を読み上げ始める。意味の分からない場所が出てくるたびに口を挟んでは、都度言い換えて話を教えてもらう。軟禁されていた時を思い出して不思議な気分にはなったけれど、悪い気分ではなかった。
――神は光を与えました。真っ白な光は世界中に降り注ぎ、魔が再び入ってこられないよう、大地を包む結界となりました。
「おっ、結界だ」
「これはあくまで物語だ。史実ではない」
――魔を導く者もまた、二度と世界に足を踏み入れることは叶いません。人々は喜びました。勇敢なる青年と神に感謝を捧げました。けれども青年は首を横に振りました。人々の声を振り切って、勇敢なる青年は結界の外へと飛び出します。魔を導く者を最後まで友と呼び続けた青年は、友をひとりにはさせないのだと涙を流しながら、海へと進んでいきました。
「……めでたし、めでたし? なのか?」
アシエルの基準では後味の悪い終わり方だが、ディズジェーロは特に疑問には思わないらしい。当たり前だとばかりに頷いている。
「世界は平和を取り戻したのだから、そうだろう」
「ディーはこれが好きなのか」
「気に入っているというだけだ。勧善懲悪ではない話は珍しかった」
「ふうん」
読み終えた本を丁寧に閉じて、机に戻す。ごろりと寝台に転がり、天井を眺めながら、「でもまあ……」とアシエルは呟いた。
「友情に身を捧げるっているのも、いいんじゃねえの。この勇者も満足だろ」
「罪を犯してなお、隣に友を持てる魔王も幸運だろう」
「ディーはそっち寄りに読むのな」
アシエルが魔王と勇者だと言うたび、魔を導く者と勇敢なる青年だといちいち訂正してきたくせに、ディズジェーロも同じように思っていたのではないか。そう指摘すれば、かすかにディズジェーロは唇を曲げたように見えた。
しかし反論はしないまま、ディズジェーロもアシエルに倣うように寝台に身を横たえる。
束の間、沈黙が落ちた。唇を一度舐めたアシエルは、ディズジェーロが目覚める前から考えていたことを、そっと口に出す。
「なあディー、どこまで魔物を操れる?」
アシエルの声音に、ただの好奇心でないことを感じ取ったのか、ディズジェーロはアシエルの側に体を向け、声を落とした。
「どこまで、とは?」
「大きさ……強さっていうのかな。例えばテスの町で見た、あの空飛ぶ魚はどうだ」
「分からない。そもそも意図的にできるのかどうかすら不明だ」
「苦しいからか?」
じっと視線を向ければ、「苦痛もあるが」と言いにくそうにディズジェーロは答えた。
「自分が自分でなくなるという感覚が強い。いつまた正気を失うか、分からない」
「俺がいる」
アシエルは断言した。まっすぐにディズジェーロの目を見つめながら、言い切った。
「お前のガイドの俺がいる。ディーに制御できない分は俺がするし、ディーをディーじゃないものにはさせない。それならどうだ?」
「……近距離で、数分程度であれば、おそらくは」
「十分だ」
頷いて、アシエルは悪巧みをするような笑顔をディズジェーロに向けた。
「ディズジェーロ。俺と一緒に、大嘘つきになる気はないか」
寝っ転がったまま、手を差し出す。
世界の敵と呼ばれたディズジェーロは、きっと明日、用事が済み次第殺される。魔力も空で、体も精神も傷つき弱った今、ユリア女王がそうしない理由がない。
アシエルは何度もディズジェーロに命を救われた。ディズジェーロに危険が迫っているというのなら、今度こそアシエルが助ける番だろう。
「絵本よりもっといい結末、俺がお前に教えてやるよ」
ぱちぱちとまばたきをしたディズジェーロは、迷う様子もなくアシエルの手に手を重ねた。とろけるように微笑みながら、睦言を囁くようにディズジェーロは答える。
「お前とならば、何にでもなろう。アシエル」
重ねた手を強く握り合い、ふたりは静かに笑みを交わした。




