63.消せない想い⑤
黄昏時の冬空は赤と紫を混ぜ込んだ不気味な色に染まり、地面を赤く照らしていた。雪に足を取られながらも、アシエルはただひとり、前だけを向いて走る。全身を魔術で強化して、怒号も断末魔も銃声も、すべてを無視して戦場を駆け抜けた。立ち塞がる魔物を見もせずに切り捨てながら、己にできる最速で、前へ前へと走っていく。
誰の助けも必要ない。たとえ目では見えなくとも、アシエルの探し人がどこにいるのかは、出会った時から変わらない独特な気配が教えてくれる。
艶やかな黒髪が見えた。精々が肩までの長さしかなかったはずなのに、今や背を覆うほどに長い。随分と仰々しく伸びたものだと苦笑する。くるりと巻いたふたつの角も、竜のそれを思い起こさせる長い尾も、なるほど異形と言われればそうかもしれない。
だが、そんなことはどうでもいいのだ。
目視出来る距離に入った瞬間、アシエルは加速した。剣を振りかぶり、斬りかかる。背後からであろうとディズジェーロならば止めると分かっていたから、手加減はしなかった。
耳を刺すような、甲高い音が響く。それ自体が凶器になりそうな長い爪が見え、アシエルの剣を受け止める黒い剣が見えた。振り向いた異形の、背筋が寒くなるような無表情へ向かって、アシエルはにかりと笑いかける。
「三回目、だな。ディーと戦うの」
異形と化して、膂力も増したのだろうか。全身の体重をかけて斬りかかったというのに、ディズジェーロが片腕一本で振るった剣は、容赦なくアシエルを跳ね飛ばした。
「最初は俺、お前のことを知らなかった」
大振りな斬撃を身を屈めてかわしながら、攻防の合間に語りかける。ディズジェーロは答えない。聞こえているのかどうかも怪しい。意思疎通ができないというのは事実なのだろう。
「お前は俺のこと、もっと前から知ってたんだっけ」
ディズジェーロが指を振る。アシエルの腹を目掛けて降り注ぐ氷の槍を避けた先には、大口を開けた獣型の魔物が待ち構えていた。
「邪魔だな。ふたりでやろうぜ?」
剣の一振りで、アシエルは獣を切り捨てた。死体を蹴り付け、反動をそのまま利用して、ディズジェーロとの斬り合いに雪崩れ込む。ちょうど今の黄昏空と同じ色に染まったディズジェーロの瞳には、憎悪だけが浮かんでいた。
恐怖と興奮が、ぞくぞくとアシエルの背筋を這い上がる。
「二回目は、ついこの間のような気がするよ」
頬を切られ、肩を切られ、首を狙う斬撃をすんでのところで受け止める。
「戦いたくなかったけど、お前がすげえ目で見て来るから、本当は少し興奮してた。軽蔑するか?」
ディズジェーロを見据えて光の魔術を練り上げたアシエルは、それを無造作に放った。目くらましにしかならないが、一瞬でも時間ができればそれでいいのだ。
「今はお前、俺のこと忘れてるかな」
魔術に紛れて、アシエルは走る。
「死ぬ前も死んでる間も生き返ってからも、俺はずっとお前のことを考えてたのに。ひでえやつ!」
渾身の力を込めて、アシエルはディズジェーロの剣の根本へと全力で打ち込んだ。狙い通りに黒剣がディズジェーロの手から離れたことを確認したアシエルは、そのままディズジェーロとの距離を詰める。
ディズジェーロが手が突き出す。鋭い爪は、肌どころか肉さえ容易く割くだろう。分かっていて、アシエルはその場で剣を手放した。
ディズジェーロの爪が肉を割き、腕がアシエルの腹を貫通していく。痛みと衝撃に、目の前が掠れた。
常人ならば致命傷になるだろう。だが、アシエルはもう常人ではない。腹に穴を開けられても死なず、口に血が溢れることもない。今だけは、おぞましい体に感謝した。
「つかまえた」
不敵に笑ったアシエルは、両腕を強くディズジェーロの体に回し、羽交い締めにした。威力だけを高めた氷の壁を周囲に築く。魔術を使いすぎたのか、どろりと腹の傷が広がる感覚があった。
けれど、構わない。氷の壁も己の体も、今この瞬間だけもてばいいのだ。
誰にも邪魔はさせない。
アシエルは深く意識を集中させた。
暗く荒れた濁流の中を、深く深く潜っていく。暗く粘度を増した海は、まるで血のようだった。苦しいだろうに、苦しいことにすら本人は気づけないのだ。周囲には悲鳴じみた轟音が聞こえるようにも思えるけれど、恐ろしいほど静かなようにも思えた。
暴走どころではない。生きているのが不思議なほど、ひどい状態だった。
どこかに壊れた盾があるはずだ。心の核さえ壊れていなければ、どれだけ周りが手遅れだと言おうが、助けられるはずなのだ。それだけを信じて、アシエルは悲鳴と轟音の大きくなる方へと向かっていく。
視界の端に、ガラスの破片のようなきらめきが見えた。手を伸ばすけれど、掴めない。
深く沈んだ先で、アシエルは足場となる場所を見つけた。野ざらしで濁流に傷つけられ、削られているその空間は、本来であればきっと、盾で固く守られていなければならないはずの、心の中央だった。
「ぁ……あ……」
見つけた瞬間、引きつるような声がアシエルの喉から漏れた。
さらさら。さらさら。
美しいガラス玉のような核は、アシエルが見ている間にもどんどんと流れに削られては、海の中へと消えていく。先ほど掴み損ねたきらめきは、壊れたディズジェーロの心のかけらだったのだとようやく気づいた。
無残な破片と化したディズジェーロの心を、アシエルは震える手で拾い上げ、現実から目を逸らすように胸に抱え込んだ。
「嘘だ」
抱え上げた端から崩れて消えていく。ディズジェーロが砕けて消えていく。認めたくなくて、アシエルはかけらを抱え込んだまま、その場で蹲まった。
「嘘だ……嘘だ、嘘だ! 嫌だ、ディー!」
震える声で縋りながら、アシエルは泣きじゃくる。どうしたらいいのか分からなくて、ただ嫌だと言い続けた。
間に合わないと言われた。無理だと言われた。アシエルはそれを信じたくなかった。やってみなければ分からないと答えた。
けれど今、アシエルは壊れた心を前に、何もできない。
溶けかけたかけらが、するりと頬を撫でていく。その感触が、死ぬ間際にディズジェーロに頬を撫でられた感触と重なって、余計に涙が出た。
せめて最後に、心のかけらでもいいから、雪のように淡い感覚でもいいから、ディズジェーロを感じたい。粉々になった心の核を抱きかかえたまま、アシエルは祈るように目を伏せた。
声が聞こえた。夢か現か分からない。真っ暗闇の何も見えない空間で、いつも真っ直ぐに伸びていた背を小さく丸めて、喉を震わせているディズジェーロの姿が見えた。
おそるおそる足を踏み出す。自分が何を見ているのか、アシエルには理解できなかった。荒れきった海も、壊れた盾も、粉々に割れた心の核も、すべて幻だったかのように周囲から消えていた。
けれど、アシエルに背を向けて蹲るその姿は、きっと本物だ。
「……シエル、あしえる、アシエル……」
アシエルの名を呼ぶ割には、こちらを見ているわけではない。よく見れば、ディズジェーロは腕の中に何かを抱えていた。ああ、と途端に合点がいく。きっとこれは、アシエルが死んだ瞬間の記憶なのだ。
「ディー……?」
背中に向かって声をかけても、ディズジェーロは振り向かない。物言わぬ死体を抱きしめるばかりで、アシエルの声には耳を傾けてくれない。記憶だとすれば当然だけれど、面白くはなかった。
頬を濡らしていた涙を拭い、アシエルは歩き出す。
「妬けるねえ」
しゃがみ込み、するりとディズジェーロの背から腕を回しながら、アシエルは囁いた。
「抱きしめるなら死体じゃなくて、俺にしろよ」
抱きしめているのに、抱きしめている感覚がない。それがひどく残念だった。
「心臓の音はしないけど、死体と違って体温はあるぞ。だから」
記憶でもいい。幻でも、夢でもいい。
振り向いてほしかった。
伝えたいことがたくさんあったのに、何も伝えられないまま死んでしまったことが、心残りでならなかった。
「苦しい時、ずっとお前の声が聞こえたよ。ずっと側にいてくれただろう。俺の体を治してくれた。痛みを取って、ずっと話しかけてくれた。なのにお前、俺が起きたらいなくなってるんだもんな。ひどいやつだ……ディー」
感覚のない体で、それでも強くディズジェーロを抱きしめる。顔が見たいと思った。振り向いてくれないのなら、せめて死の間際見られなかったディズジェーロの表情くらい、見せて欲しかった。
ゆっくりと身を乗り出して、髪に隠れたディズジェーロの表情をのぞき込む。その表情を見た瞬間、アシエルは息を呑んだ。
「アシエル……目を、あけてくれ……どうか」
泣きそうな顔をしていたとは思っていた。けれど、こんな顔をしていたとは思わなかった。
ディズジェーロの表情は悲痛で、弱々しく、駄々をこねる幼子のように歪んでいた。普段の冷静さのかけらもない。きっと周りなど一切見えていなかったのではないだろうか。とても将として前に立つ者の表情ではない。
それでも、無様に歪み、弱さを隠せていないその顔を、アシエルは愛おしいと思った。
「ディー……ディズジェーロ」
ディズジェーロの両頬を手で固定して、無理やりアシエルと目を合わさせる。こちらを見てはいないと分かっていたけれど、それでも伝えたかった。
「お前が好きだよ、ディズジェーロ」
ディズジェーロの視線がわずかに揺れた。記憶にある通りの赤い瞳をじっと覗き込みながら、アシエルは心に湧き上がる言葉をそのまま渡す。
「死んでごめん。弱くてごめん。約束したのに、お前を置いて行って悪かった。俺、お前ともっと話をしたいよ。ディーに殺されたいと思った。一緒に死ぬのも悪くないと思った。けど、できることなら、やっぱり一緒に生きてみたいんだ」
ディズジェーロの唇がわななく。
焦点を結んだ両目が、アシエルを見た。
その瞬間、周囲の暗闇が、濁流に変わった。アシエルが抱えていたはずのかけらどうしが寄り集まり、美しい球体を取り戻していく。濁流から守るようにその球体を抱え込み、アシエルは語りかけた。
「だからさ、起きてくれよ、ディー」
ぱきぱきと音を立てて、周囲に膜が出来上がっていく。それを認めた途端に、アシエルの顔はくしゃりと歪んだ。
――手遅れではなかった。
球体をひと撫でして、そっと手を離す。心の核があって、核を守る盾が戻ったならば、もう大丈夫だ。どれだけ荒れていようと、あとはアシエルが調律すればいいだけなのだから。
膜から優しく押し出され、急速に意識が浮上していく。
次に目を開けたとき、アシエルは氷の上に横たわっていた。周囲を見渡してみれば、魔物たちが動きを止め、一体、また一体と遠くへ逃げていく様子が目に入る。
ぽたりと、生暖かい雫がアシエルの頬を叩いた。次いで、優しいあたたかな光が、腹の傷を通じて体に流れ込んできた。見る見るうちに傷が塞がり、体に力が満ちていく。ビーカーの中で昏睡していた間も、何度もこうして魔力を注がれていたのだろう。覚えのある安らぎと、命を継ぎ足される感覚に、アシエルは深く息をついた。
その間にも、ぽたりぽたりとあたたかい雫は降ってきていた。アシエルは、自らに覆いかぶさる男の顔を、じっと眺めて微笑んだ。
泣く顔は初めて見た。
手を伸ばして、ディズジェーロの頬を伝う涙を拭う。
「あ、しえる」
「うん。……おはよう、ディー」
折り重なった異形の体を、強く抱きしめ引き寄せる。
「ようやく会えたな」
引きつる息を耳元に感じる。アシエルの存在を確かめるように、震える手が背をかき抱いた。
* * *
やめろと言ってもアシエルに魔力を注ぎ続けたディズジェーロは、ついには意識を失い、その場に倒れ伏した。生きていること自体が不思議な精神状態であったことに加えて、ディズジェーロの体自体もぼろぼろだったのだから、無理もない。意識を失ったディズジェーロの体を、アシエルは荷物を担ぐようにして肩の上に抱え上げた。
周囲には魔物の姿ひとつ見当たらない。日が沈んだ後の雪原には、静かな暗さが満ちていた。短時間で済ませたつもりだったが、思いの外時間が経っていたらしい。
「どこに向かうつもりだ、アシエル」
足を踏み出すと同時に、透き通った声がアシエルを制止した。振り向けば、金色の髪を揺らしたユリアが兵士たちを引きつれ、厳しい顔を向けていた。へらりと笑って、アシエルはユリアに答える。
「城に行きます。落ち着ける場所で調律したいですから」
「結界は。ほかの魔物はどうなる」
「魔物はもういませんよね? 明日の朝には戻ります。それまでどうか、時間をください。お願いします、ユリア様。どうか」
ディズジェーロを抱き上げたまま、アシエルは深く頭を下げた。ユリアは情け深いが、情で判断を誤る人間ではない。それでも、魔物を操ることができるディズジェーロが理性を取り戻したとなれば、生かす利点の方が彼女にとっては大きいはずだ。
ややあって、ユリアは周囲の兵に攻撃態勢を解くように指示を出した。
「……見張りはつけさせてもらう」
「はい。ご恩情に感謝いたします」
もう一度深く頭を下げて、アシエルはユリアに背を向けた。




