61.消せない想い③
血は流れない。むき出しになった骨の色が、瞼の裏に白く焼きついた。
がたがたと震えながら、アシエルはじっと己の手を見つめた。桃色の肉が蠢いたかと思えば、瞬く間に肉と皮とが再生し、何事もなかったかのように、傷ひとつない手がよみがえっていく。
「ぅ、ぐ……ぇっ」
気持ち悪くて、おぞましくて、立っていられなかった。崩れ落ちるように膝をつき、口元を押さえてうずくまる。息の仕方が分からない。吐き気が止まらない。ひゅうひゅうと息が上がり、視界が白く狭まっていく。
「……おい! 大丈夫か、アシエル少尉」
隣にしゃがみ込んだ誰かが、背中をさすってくれた。まだ体が出来上がっていなかった頃、訓練で絞られすぎて吐くことも多かった。自分が同期の背をさすってやることもあれば、こうしてさすってもらうときもあったことを、こんな時に限って思い出す。
「息吸って、吐いて。ゆっくりな」
言われるがままに深呼吸を繰り返す。ようやく呼吸の仕方を思い出すころには、掠れた視界はいつも通りに戻っていた。
のろのろと顔を上げると、隣にしゃがみ込んだゼークラフト中尉が、アシエルの肩を支えるようにして、心配そうにこちらを見守っていた。
そういえばぜークラフト中尉は、ユリアと話しているときにも地下にはいなかった。見張りで外に出ていたのだろうと、今さら気づく。
「落ち着いたか? ひどい顔だぞ」
「……ゼークラフト中尉には言われたくねえなあ。髭はひでえし、臭いもひどい」
「仕方がないだろう。髭なんて剃る暇もなかったし、こんな季節に水浴びしたら凍え死ぬ」
苦笑しながらそう言って、ゼークラフト中尉はアシエルの背を軽く叩いた。
「眠れないのか? でも、少しでも休んだ方がいい。俺たち、アシエル少尉を情だけで助けたわけじゃないんだ。明日から一緒に働いてもらわなくちゃいけないからな」
わざとらしいくらいいつも通りの表情が、今はかえって腹立たしい。
「……見てただろ。何も言わないのか」
呻くようにアシエルが言っても、ゼークラフト中尉は困ったように眉尻を下げるだけだった。無性に腹が立ち、耐えきれずにアシエルは声を荒げる。
「こんなの、おかしいだろ。俺は死んだ。あの日、背中から間抜けに撃たれて腹に大穴開けられて、死んだんだよ!」
起きた当初は混乱していた記憶も、時間が経つごとに鮮明になっていった。あの日感じた痛みも悔しさも、最期に聞いたディズジェーロの声も、すべて思い出した。
アシエルは死んだ。生きているはずがないのだ。
「俺は何をされた? 何にされた? 何で生きてる? 俺は本当にアシエルか? クソ皇帝が作った何かじゃねえのか? 石ころみてえな光一粒でぼろぼろになる。こんなの、ただの歩く死体じゃねえか! 俺は、死んでたはずだ……!」
「――知っているよ。見ていたから」
ゼークラフト中尉は静かに呟いた。取り乱したアシエルの肩を両手で押さえて、言い聞かせるようにゼークラフト中尉は語りかける。
「落ち着けよ。お前はアシエルだ。見た目も話し方も考え方も、俺が知っているままのアシエル少尉だ。付き合いの長い俺が言うんだから、信じろよ」
十年前からの同期なんだぞ、と真面目な顔で言って、ゼークラフト中尉はまっすぐにアシエルを見つめた。
「たしかにあの日、お前は死んだけど、今は生きている。何をされたのかは分からないけど、誰がやったのかは教えてやれるよ。来い」
岩場にアシエルを座らせて、その隣にどさりと腰を下ろしながら、ゼークラフト中尉は悲しげな声音で語り出した。
「見るのが俺の仕事だよ。あの日、お前がイーリス兵に偽装した兵士に撃たれるところも、お前が死ぬ瞬間も、全部見ていた。アシエル少尉だけじゃない。仲間たちが魚の化け物に殺されるときも、死んだお前を抱えて、魔王が辺り一帯、兵士ごと氷土に変えるときも、見ていたよ。俺は何もできなかった。影から見ているだけだった」
「別にゼークラフト中尉が責任感じるようなことじゃないだろう。お前はお前の仕事をしただけだ」
咄嗟に口を挟んだが、ゼークラフト中尉は力なく首を横に振っただけだった。
「アシエル少尉をテンペスタに連れて行ったのは魔王だよ。魔王はずっと、お前に治癒魔術をかけていた。戦場の真ん中だってことも忘れていたんじゃないかな。がたがた震えて、別人みたいに取り乱してさ。お前を死なせないって、お前が望んだ世界を捧げるから目を開けてほしいって、そんなことをずっと言っていたよ」
「……馬鹿野郎」
たしかにアシエルは平和な世界を願ったけれど、そんなつもりで言ったのではない。ディズジェーロを縛るつもりなんて、かけらもなかったのに。
くしゃりと歪んだアシエルの顔を、ゼークラフト中尉はまじまじと見つめる。
「なんとなく察してはいたけど、お前、本当に魔王と仲がよかったんだな」
「……察してたって、なんで」
「なんでも何も」
ゼークラフト中尉は苦笑しながら肩をすくめる。
「連絡係だって言ったろう。俺、アシエル少尉がテンペスタに潜入してる間も、見てたんだって。アシエル少尉が音信不通になる前に最後に会った相手も、そのあとしばらくして、甲斐甲斐しく背負ってやっていた相手も、同じ男だった。さすがに分かるよ」
「俺、顔変えてたのに」
「顔を変えるなら歩き方や振る舞いまで変えなくちゃ意味がないよ。それに、イーリスでふたりで話しているところも見かけたことがあったしな。本気で隠したかったなら、どこもかしこも詰めが甘いよ」
センチネルを舐めるなよ、とゼークラフト中尉は快活に笑う。まっすぐな視線から逃げるように目を逸らして、アシエルは「気づいてたなら、なんで」と掠れた声で問いかけた。
「なんでって、何が?」
「情報の横流しとか、すると思わねえの。敵と通じてたんだぞ」
「アシエル少尉が? まさか! そんな器用なことができる性格なら部隊で浮くこともなかっただろうし、勇者だなんだって損な役割を押し付けられることもなかっただろうよ。適当なフリして馬鹿真面目なことしかできないお人好しに、間者なんて絶対無理だって」
「……そんなこと思ってたのかよ、ひどいやつ」
あんまりな言いようにアシエルは唇を尖らせる。けらけらと笑いながら、ゼークラフト中尉はアシエルの肩に勢いよく腕を回してきた。
「お前はきっと『余計なことをするな、自分の仕事をしろ』って怒るだろうけどさ、俺にとって少尉――アシエルは、大事な同期で友だちだ。売るような真似をしたいわけがないよ。……お前が死ぬところを見ていることしかできなかった俺の気持ちが分かるか? 歩く死体でもなんでもいいよ。関係ない。俺はお前とまた会えて嬉しいんだ」
苦しいほどの力を込めて、ゼークラフト中尉はアシエルを抱きしめた。
「生きててよかった、アシエル」
涙声でゼークラフト中尉は言う。
貴族と平民の身分の差も気にしない、気のいい男であることは知っていた。訓練兵時代からの知り合いで、組んで行動したことだって何度もある。ゼークラフト中尉の言葉に嘘がないと分かるからこそ、アシエルは呆然とする。
「友だち……?」
「そこ⁉ 今さらか! ひどいのはどっちだ、薄情者!」
「あ、いや、そういうつもりじゃなくて……、そうか。友だちか。……そうだな」
気分が悪ければ背をさすってくれて、ひとりでは抱え切れない動揺に耳を傾けてくれる。逆の立場でも、きっとアシエルだって同じことをした。
ディズジェーロ以外に、己に友人などいないと思っていた。けれど、もしかすれば、無意識のうちに周囲に壁を作っていたのはアシエルの方だったのかもしれない。
「……なんかちょっと、落ち着いたわ。ありがとう。ゼークラフト」
「うん。寝る気になったらとっとと寝ろよ。明日からやることはたくさんあるんだから」
「ん」
ひらひらと手を振って、見張りに戻るゼークラフト中尉を見送る。ちらりと視線を上げれば、いつかディズジェーロと一緒に見たものに近い、澄んだ冬の星空が広がっていた。
ディズジェーロは、死の間際までアシエルを抱えていてくれた。ゼークラフト中尉の言葉通りならば、死んだ後もアシエルを離さずにいてくれたらしい。加えて、アシエルが夢だと思っているものが夢でなかったとすれば、ディズジェーロは泣きそうな声でアシエルに語り続けながら、ずっと傍らにいてくれたのだ。朝も昼も夜もずっと。
「勝手に生き返らせたくせに、なんでお前がそばにいないんだよ、ディー……」
壊れていくディズジェーロを夢で見た。センチネルの力の暴走どころではない。元々備わっていなかった力を植え付けられて、思い詰めて、動き続けたディズジェーロは、心身ともにとっくに限界だったはずだ。
戦力としてであれ、駒としてであれ、アシエルには助けに来てくれる仲間がいた。気づいていなかったけれど、崩れそうなときに背を叩き、話を聞いてくれる友人もいた。
けれど、ディズジェーロのそばには誰がいたというのだろう。
身も心も壊れていくディズジェーロを、誰ひとりとして止められなかった。アシエルもまた、ディズジェーロを止めることどころか、調律することも、声をかけることさえできなかった。
ディズジェーロの気配が傍らから消えたとき、アシエルはディズジェーロに置いて行かれたと思った。けれど、最初に置いて行ったのは、きっとアシエルの方だ。死に別れる瞬間、ディズジェーロがどんな顔をしていたのかさえ見られないまま、目を閉じてしまったのだから。
きらめく星を睨みつける。
どれだけ美しい光景でも、約束をした相手が隣にいなければ何の意味もない。一度命を落としたアシエルを引きずり戻した者がディズジェーロだというのなら、人間でなくなってしまったらしいディズジェーロを引きずり戻すのは、アシエルの役目だ。
どれだけおぞましい体でも、まだアシエルは生きている。できることをやるしかない。まずは明日、ユリア女王たちが何をしようとしているのか話を聞き直すことから始めよう。
強く拳を握ったアシエルは、出てきた時とは真逆のしっかりとした足取りで、地下へと戻って行った。




