60.消せない想い②
狭い通路は得体の知れない液体でところどころ汚れ、爪痕や焦げた跡がいくつも残されていた。荒れているのは塔の中だけではないらしく、外に出ても異様な雰囲気はそのままだ。夜の暗さで視界は世辞にも良いとは言えないが、傷ついた建物の合間をうろつく魔物の姿があちこちに伺えた。
地表は雪と氷に閉ざされていて、恐ろしいほど静かだった。アシエルが最後に覚えている記憶よりもかなり冬が深まっているようだが、少なくとも季節が変わるほどの月日は経過していないらしいことに、ほっと胸を撫でおろす。
歩き続けてしばらく経つころ、ゲオール大佐はようやく足を止めた。周囲を軽く見渡して、ゼークラフト中尉と頷き合ったかと思うと、彼らは町から離れた荒野の中心で雪をかき分け始める。
雪の下に、地面と同色の板が見えた。どうやらこの下に地下室があるらしい。
「降りろ」
指示に従い、アシエルは梯子を下っていく。
地下室の中は暗いものの、最低限の人工光が備えられていた。決して広くはないが、詰めれば二十人程度は横になれそうな空間が広がっている。
奥にいたのはイーリスの兵士が数人と、テンペスタの兵士がさらに数人。そして彼らに囲まれるようにして、一組の男女が笑みを浮かべて向き合っていた。表面上はあくまで淡々と、しかし互いを射殺さんばかりの視線を交わしながら口論している。
「何度同じことを言えばいいのかな。元々結界は壊れかけていた。もう崩壊は止まらないよ」
「あなた方が触れたから崩壊が加速したのだ。だから神の教えを破るべきではないと言ってきたのに」
「否定はしないけどね。こうなった以上、代わりのものを張り直さなければ、困るのは君じゃないのかい、若き女王よ。結界の管理を怠ったとして、責められるのは君と君の国だ。イーリスは大陸の中心にあるのだから、同心円状に術式を広げればいいだけだ。簡単だろう?」
「言いたいことはそれだけか? そのような醜い姿になっても死ねない哀れな元皇帝。魔を従える狂った魔王を産み出したそなたの罪は重い」
厳しい口調で相手を糾弾しているのは、ユリア女王だ。美しい金の髪は簡素に括られ、地味な軍服に身を包んではいるが、アシエルが主君の顔を見間違うはずもない。
一方の口論の相手は誰かと目を凝らすが、奇妙なことに、向かい合う騎士は一切口を開いていないのに、言葉だけがどこからか聞こえてきているようだった。
「結界の代替術式を張るのにはどうしたって時間と手間がかかる。その間だけでも魔物を確実に遠ざけておく必要があるだろう。ああしなければ、αは使い物にならないんだよ。狂わせでもしていなければ、自身の苦痛が強すぎて魔物数匹満足に動かすことさえできないのだから」
柔らかい口調と、理屈っぽい話し方には、覚えがあった。テンペスタの皇帝グレゴリオだ。
よくよく見れば無表情で立っている騎士はアントーニ大佐であり、ユリア女王と口論しているのは、アントーニ大佐の手に抱えられたグレゴリオの生首だった。首の切断跡が黒く、ゆっくりと溶け出しているようにも見えるのが、より一層不気味さに拍車をかけている。まったく状況が分からないが、ユリアが見たこともないほど怒っていることだけはたしかだ。
「罪の意識はないらしいな。あなた方が我が国の勇者を代償に生み出したものは、災厄そのものだ。数万の魔物の群れが、今この瞬間も世界を蹂躙しているのだぞ。せめてあの魔王の存在さえなければ――」
「『魔王』?」
不穏な言葉の数々に紛れて聞こえた単語を、思わず復唱する。室内の視線は一気にアシエルに集まった。
「おやおや。子飼いの兵士に何をさせているかと思えば――」
グレゴリオの生首がにんまりと口元に弧を描く。ユリアは、それ以上の言葉を許さないといわんばかりに、周囲の騎士に向けて軽く顎を動かした。手際よく猿ぐつわを押し込まれ、グレゴリオは沈黙する。
振り返ったユリアは、つい数秒前までの口論などなかったとばかりに、美しく微笑んだ。
「おかえり、アシエル。お前が生きていたことを嬉しく思う」
「は、その……ユリア陛下……?」
間違っても敵国の穴ぐらの中にいるべきではない人が、なぜ軍服など着て、こんなところにいるのか。そもそもイーリスとテンペスタの戦争はどうなったのか。なぜこんなにも多くの魔物がテンペスタ城に集まっているのか。先ほどから分からないことばかりだ。
助けを求めるように視線を彷徨わせていると、アシエルの思考を読んだかのように、ユリアは柔らかく微笑んだ。
「私がここにいることがおかしいか」
「いえ、その」
「安全な場所など、もはやこの世界のどこにも存在しない。どこにいても変わりないならば、私はイーリスのため、私の役目をもっとも効率的に果たせる場所にいるというだけだ。……おいで、アシエル。近くに座りなさい。お前が戦場から姿を消してから今までの記憶のすり合わせをしよう」
美しく微笑みながら、ユリアはアシエルを近くへと手招いた。
手ずから渡された水を恐縮しながら受け取って、アシエルは姿勢を正す。
「お前が最後に出た戦場は、テスの最前線。二体の巨大な魚型の魔物が確認された日だ。間違いないか?」
「はい」
向けられた問いに、アシエルは頷く。ディズジェーロと会って言葉を交わした翌日、戦場には魔物が溢れていた。記憶が混濁してはいるものの、見たこともない空魚と交戦したことは覚えている。
「結論から言えば、あの日、結界に穴が空いた。イーリスとテンペスタだけではなく、大陸全土で大量の魔物の流入と、大型の魔物の出現が確認され始めた」
驚きはしなかった。ああやっぱりと思っただけだ。けれど、その後に続いたユリアの言葉に、アシエルは目を剥いた。
「同日、魔物を従える力を持った異形の存在が確認された。彼が人間であった頃の名前はディズジェーロ。戦場での二つ名に由来して、我々はかの存在を魔王と呼称している」
「人間であった頃って……あいつは人間です! そんな言い方……」
思わずアシエルは口を挟んだ。
「そう。お前たちは親しかったのだね。気づかなかった」
ユリアの冷たい声を聞いた瞬間、アシエルは己が口走ってはならないことを口にしたことに気がついた。顔を青くするアシエルに、ユリアは「残念だが、もはやあれは人間ではない」と無感情に告げる。
「魔物の瞳、二本の角、異形の尾と爪。見目からして、人間ではないよ。会話による意思疎通もできない上に、凶悪な魔術を使う。魔物の群れを率いて、己に逆らう国を片端から襲っている存在を、魔王以外の何と呼べばいい? 効率を優先する知性は残っているのか、襲うのはもっぱら国の中枢だけなのが救いではあるけれど、容赦がない。残虐非道を極めていると言っていい。――あれは、世界の敵だ」
「そんな……」
絶句するアシエルに構わず、ユリアは淡々と状況説明を続ける。
「魔王が指揮下に置ける魔物はごく一部。統率された群れは宣戦布告もなしに各国を襲い、統率下にない魔物たちは、国も人も動物も関係なく、大陸中を荒らし回っている。安全な場所がないというのは、そういうことだよ」
夢だと思いたかった。けれど、ユリアがこんな場所にいることも、知り合いが皆疲れた顔をしていることも、これが現実であることをまざまざと突き付けてくる。
「戦争は、どうなったんですか」
「もはや国家間で争っている場合ではない。現在イーリスとテンペスタは停戦状態にある。我が国にとっては幸いなことに、テンペスタ皇帝は消息不明となったからね。交渉は比較的円滑に進んだよ」
消息不明という言葉に、ついついアシエルは皇帝の生首に視線を向ける。目が合った瞬間、グレゴリオはにこりと笑った。
察するに、交渉相手にならないグレゴリオの体だけを処分して、無理やり消息不明状態に持ち込んだということだろうか。たしかに敵ではあるし、好感が持てる相手でもないが、首だけの状態で生かすなど、随分と残酷なことをするものだ。
やるせない気分を追い払うように首を振って、アシエルはユリアに問いかけた。
「一日二日で起きたことでは……ないですよね。あれから何日経ったんですか」
「結界に穴が開き、魔王の存在が確認された日からは、すでに三月近くが経過している」
聞いた瞬間、アシエルは絶望する。そんなにも月日が経ってしまっていたら、間に合わない。救えない。
――間に合わない?
自分が何に対して焦燥を覚え、何に絶望しているのか分からないのに、叫び出したくなるような不安感が背にのしかかっていた。
「お前は意識のない状態でテンペスタの研究施設に囚われていた。日付の感覚が麻痺していても不思議ではない」
労わるように掛けられたユリアの言葉も、ろくに耳に入ってこなかった。
気分を少しでも落ち着けようといつものように己の胸元に手を伸ばすが、そこにあるはずの母の形見は見つからない。道中で、アシエルは魔術をたしかに使ったはずなのに。
何かがおかしい。
ひとつ違和感に気づいてしまえば、際限なく嫌な予感ばかりが膨れていく。息が上がる。気分が悪い。吐きそうだ。けれど、それに付随するべき心臓の音は一切聞こえない。
(どうして)
不意に、脳裏にいくつもの光景が浮かんできた。
巨大な空魚。よろめいたディズジェーロと、複数の銃口。掠れた視界の中で見た、穴だらけの自分の体。血で汚してしまった、ディズジェーロの唇。夢と現の堺で朧げに目にした、異形へと近づいくディズジェーロの姿。
(ああ、そうだ)
おかしいはずだ。なぜなら、アシエルがここに立っていること自体がおかしいのだから。
「――アシエル」
優しく声を掛けられて、アシエルはびくりと肩を揺らした。
全身に冷や汗が滲んでいた。たった今聞いた話と、途切れ途切れの記憶がぐちゃぐちゃになっていて、気分が悪い。
「ひどい顔色をしている。一度に話しすぎてしまったね。少し休むといい」
「……失礼、します」
やっとの思いで一礼しつつ、アシエルはユリアから距離を取った。微笑んだままのグレゴリオも、物言いたげなアントーニ大佐やエヴァンジェリンの表情も、顔をしかめているゲオール大佐の視線も、すべてが煩わしくてならない。
重い体を引きずって、部屋の隅に腰を落ち着ける。周囲の視線から逃げるように膝を抱えて、アシエルは強く目を閉じた。
暗い地下室には、控えめな寝息が響いていた。しばらく目を閉じてはいたものの、とても眠る気にはなれない。そろりと立ち上がったアシエルは、音を立てないように注意しながら、ゆっくりと梯子を上がっていった。
地上に上がった途端に吹きつけてきた風の冷たさに、アシエルはぶるりと身を震わせる。はらはらと舞う雪を避けるように岩場へ身を隠しながら、アシエルはそっと自身の左胸に手を当てた。次いで首に指を当てる。どちらからも、あるべき脈は感じ取れない。
唇を噛みながら、アシエルはひとつの小さな術式を宙に描いた。触れたところで指を弾く程度の威力しかない、小さな光を生み出す術式だ。
道中で魔術を撃ったときと同じように、魔法陣に魔力を注ぐ。その瞬間、がくりとまた体が軋むような感覚があった。けれど、構ってなどいられない。
魔法陣の中心で小さく明滅する光に、アシエルはおそるおそる指を伸ばした。
見たくない。けれど見なくてはいけない。
「……っ!」
震える指が光に触れた瞬間、強い痛みとともに、アシエルの手の肉がどろりと溶け落ちた。




