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59.消せない想い①

 夢を見ていた。

 痛くて苦しくて、息ができない。叫びたいのに声が出ない。全身から血が抜け、肌が腐り落ちていく。怖くてたまらないのに、自分の体を動かすことすら叶わない。

 どれだけ時間が経っても覚めない悪夢の中で、それでもアシエルが狂わずにいられたのは、常に傍らに気配を感じていたからだ。

 

「アシエル」

 

 体の中に埋め込まれた異物が、アシエルに穏やかな眠りを許してはくれない。ろくに何かを考えることもできずに意識がぷつりと途切れては、柔らかく名を呼ばれ、苦しい夢の続きを見る。

 痛い。苦しい。怖い。じゅくじゅくと腐りかけた肉を、ナイフで抉られ続けているかのようだ。けれど、苦痛が大きくなるたびに、温かい力が体を包み、アシエルの痛みを和らげてくれた。


「アシエル。雪の中でも咲く花を見た。あれはお前の言う面白いものに入るのか」

 

 暗闇の中で、終わりのない苦しみからアシエルの気を逸らしてくれたのは、つらつらと語られる他愛のない話だった。口数が多い方でもないくせに、見聞きしてきたことをひとつひとつ丁寧に教えてくれる、その声だけが救いだった。

 夢と現の合間で、声に呼ばれるように、必死の思いで指先を伸ばす。そうすると時折、ディズジェーロの声以外にも、聞き覚えのある声が聞こえてくることがあった。


「ディズジェーロ。こんなことは今すぐにやめるべきです」

 

 涼やかな女性の声は、悲痛な響きに満ちていた。心からディズジェーロを案じているのだと、聞くだけで分かる。

 

「こんな、こと」

「アシエルはもう死んでいます。死者を弄ぶべきではありません。あなたがアシエルを大切に思うのなら、なおのこと。どうかもう、眠らせて差し上げて。命を愚弄し、争いを起こす。あなたは、わたくしたちが止めようとした皇帝と同じことをしているのですよ」

「アシエルは生きている。出て行け。……大丈夫。大丈夫だ、死なせない」

 

 泣きそうな声に答えてやりたくても、アシエルには声を出すことすらできなかった。

 

「いい加減やりすぎだ、ベイグラント准将! 様子見していただけの国をなぜ襲う? このままではたとえ君のガイドが目を覚ましたとしても、彼の帰る世界はなくなるぞ。何が目的なんだ」


 はきはきとした男の声は、怒りと失望に満ちていた。その実、その言葉には隠しきれない情が滲んでいる。

 

「……へいわ。争いのない世界」

「世迷言を! いいか、グレゴリオ様は三十年かけて結界の代替となる術式を作り上げた。イーリスの地をあと一部奪って、君が魔物を抑えれば、それですべて済むんだ。敵でないものまで敵に回すな。頼むから、もうやめろ。今の君は見ていられない」

「もうにどと、おなじ失敗はしない」


 もういいんだと言ってやりたかった。このままではアシエルよりも先にディズジェーロが壊れてしまう。けれど、どれだけ助けてやりたいと願っても、アシエルには自由に瞼を開けることさえままならなかった。


「世界を力で支配するつもりかい? それもいいと思うよ。私はお前の意志を尊重しよう」


 優しげに発せられる男の声からは、愉悦だけが感じ取れた。聞くだけで恐怖と怒りが湧き上がってくる。


「神の有無は別として、結界を張ったのはきっと神を騙る人間だよ。確信がある。私が結界を張る立場でも、誰も触れるなと絶対に言う。馬鹿に触られて苦労が水の泡だなんて、悲しいからね。まあ、その意味では、不用意に結界を触って崩壊を早めてしまったことは反省しているよ。後悔はしていないがね」

「きえろ」

「おお怖い。お前が壊れ切るのと、世界が壊れ切るのと、どちらが早いか見ものだねえ。……これは、お前の執着と性質を見誤った私のミスだ。できることなら結末まで見守りたいものだが、はてさてどうなるかな」


 ぐるる、と獣のような唸り声が聞こえてくる。悲鳴のようなその声が、ひどく痛ましかった。


 この夢は、永遠に続くのかと思っていた。とても苦しくて怖いけれど、暗闇の中でもアシエルはひとりではなかったから、それでも良いかと思った。

 けれど違った。

 アシエルが体を動かせるようになるにつれて、代償のようにディズジェーロは言葉を失い始めた。どんどんと転げ落ちるようにディズジェーロはディズジェーロでなくなっていく。

 あんなにも近くにいてくれたのに、時折ふらりと姿を消しては、ついにはアシエルのことを忘れてしまったかのように、帰ってこなくなった。

 もう体は痛まない。代わりに、アシエルはひとりになった。置いていかれてしまったのだ。寂しくて寒くて恐ろしいのに、それでも目覚められないことが、悲しくてならなかった。

 遠くでまた、音が聞こえる。

 人が叫ぶ声。何かを叩きつける音。複数人の足音。いつもと何かが違う。

 がしゃんと大きな音を立ててガラスが砕け散る。孤独な悪夢を見続けるアシエルを無理矢理叩き起こしたのは、目覚ましにしても激しすぎる破壊音だった。


 体が前に倒れ込み、気づいた時には床にうずくまるようにして、アシエルは激しく咳き込んでいた。

 

「アシエル少尉!」

「う……っぐ、げほっ」

「聞こえるか。意識はあるか」

 

 誰かがアシエルの肩を支え、背中に大きな布を被せてくれた。手足も瞼も、体中が重くて仕方がない。目を開けてみたのはいいものの、焦点すらろくに合わなかった。必死で目を凝らしながら、アシエルは自分を支えている男の顔を見る。

 

「ゼークラフト中尉……?」

 

 アシエルがしゃがれた声を発すると、ほっと息をつく声が複数聞こえてきた。顔を上げて周りを見れば、知っている顔がいくつもアシエルを囲んでいる。

 

「ゲオール大佐……エヴァンジェリン様も……?」

 

 誰も彼も、様子がおかしかった。ゼークラフト中尉とゲオール大佐は山籠りでもしたのかと聞きたくなるほど薄汚れた風体をしているし、エヴァンジェリンもまた、ひどく疲れた顔をしていた。品の良いドレスではなく、貴族女性には似合わぬ簡易軍服をまとっていることにも違和感がある。

 

「ここ、どこだ? 俺、なんでこんなところにいるんだ?」

 

 さっぱり状況が把握できなくて、アシエルはきょろきょろと辺りを見渡した。ガラスビーカーが並ぶ部屋にいることからして、どうやらテンペスタの塔の一室にいるらしい。けれど自分は、今の今まで戦場にいたはずだ。


「すまんが、話は後だ」

 

 記憶を精査する前に、アシエルはゲオール大佐に腕を掴まれ、引き起こされる。

 

「立てるか、アシエル少尉。敵が戻ってくる前に、急ぎこの場を離れる必要がある」

「敵? いえ、よく分かりませんけど……行けます」

 

 何が何やら分からないながらも、ぎこちなくアシエルは体を起こす。立つことは立てたが、まるで長い間眠っていたかのように、体がうまく動かなかった。首を傾げながら歩き出そうとしたところで、腕にたおやかな手が添えられる。視線を向ければ、思い詰めた顔をしたエヴァンジェリンがアシエルをじっと見つめていた。

 

「あなたにまた会えて嬉しいですよ、アシエル。たとえこんな形であったとしても、もう一度あなたとお話できたこと、本当に嬉しく思います。その気持ちだけは、嘘ではありません」

「エヴァンジェリン様……?」

  

 いやに深刻な響きを帯びた言葉だった。たしかに戦時中ではあるが、それにしても大袈裟な言い方のように感じる。まるで死人が墓から出てきたかのような反応だ。困惑するアシエルに、エヴァンジェリンはそっとローブと簡易靴を手渡した。

 

「着てください。そのままではまずいでしょう」

「え?」

 

 エヴァンジェリンは手のひらを向け、アシエルの体を指し示す。見下ろせば、己は一糸纏わぬ裸体を晒していた。淑女の前でどんな格好をしているのか。

 

「失礼しました!」

 

 慌ててローブを受け取り、頭から被る。手短に服装を整えながら、アシエルは言いようのない違和感に顔を引きつらせた。体が自分のものではないかのようだった。記憶にある傷が一切残っていない。記憶が混乱していて、なぜここにいるのか、何をしていたのかさえ分からない。

 しかし、ゆっくり考える時間もないらしい。ゲオール大佐の指示のもと、一同は急ぎ足で実験室を後にする。

 塔の通路を案内するのはエヴァンジェリン。そして左右を囲むセンチネルのふたりが、周囲を警戒しながら道を進んでいく。

 塔の内部は、アシエルの記憶にあるものとはかなり様相が変わっていた。まず、人がいない。廊下の隅には埃が溜まっているし、ところどころに魔獣の死骸と思わしきものが打ち捨てられている。廃墟のような荒れた雰囲気は、とてもテンペスタが誇る研究機関とは思えない有り様だった。

 

「なんか……おかしくないですか。人がいませんけど」


 アシエルが困惑しながら口を開くと、前を歩くエヴァンジェリンが、「皆、逃げ出しました」と端的に教えてくれる。

 

「今や塔は魔獣の巣窟となりました。残った一部の使用人や研究員も、地下を拠点にしています」

「魔獣? 逃げ出すって、何で……」

 

 疑問を零しかけた瞬間、脳裏に声がよみがえる。

――あと少しだ。イーリスとテンペスタは停戦した。

「だって、停戦したって……?」

 自分で口にしておいて、何を言っているのかと混乱する。アシエルの記憶が途切れる直前まで、イーリスとテンペスタは争っていた。停戦の気配すらなかったはずだ。

 エヴァンジェリンが訝しげな顔をしながら振り返る。

 

「なぜあなたがそれを知っているのですか、アシエル?」

「なぜって、ディズジェーロが、――っ!」

 

 答えようとした瞬間、エヴァンジェリンの向こう側から、狼型の魔獣が突進してくる様子が見えた。咄嗟にエヴァンジェリンの手を引いて、アシエルはいつものように光の魔術を発動した。しかし、魔術を撃った瞬間、がくりと視界がぶれる。霞んだ視界の端で、ゼークラフト中尉が狼にとどめをさしている様子が見えた。

 

「あ、れ……?」

 

 視界がちかちかと明滅する。アシエルの手足は痙攣するようにぶるぶると震え、引きつっていた。体が自分の思い通りに動かない。からくり人形でも動かしているかのような得体の知れない状態に、ぞっと血の気が引いていく。

 

「大丈夫ですか、アシエル」

 

 ふらついた体をエヴァンジェリンに支えられ、気遣わしげに顔をのぞきこまれる。宥めるように背を撫でられているうちに、体の違和感は数秒と経たずになくなった。額の冷や汗を拭いながら、アシエルはゆっくりと体を離す。

 

「すみません。少し、気分が悪くて。行けます」

「……無理もありません。庇ってくださったことには礼を言いますが、どうか無理をなさらないで。今のあなたは戦える状態ではありません」

「魔獣の相手は俺たちがするからさ。無理するな、アシエル少尉」

  

 ゼークラフト中尉まで、念を押すように肩を叩いてくる。この腫れ物扱いはいったい何なのだと首を傾げる間もなく、「急ぐぞ」とゲオール大佐が焦ったように声を発した。

 

「血の匂いで他の魔獣が集まってきている。早いところ、地下に入った方がいい」

「ここからですと、一度外に出てから地下に向かう方がよろしいでしょう。ユリア様たちは城の下へ移動されているはずですから。こちらです」

  

 きびきびと言葉を交わしながら、エヴァンジェリンの案内に従ってゲオール大佐が脱出ルートを決めていく。

 この二人はいつ知り合ったのか。ユリア様までテンペスタにいるのか。疑問符を浮かべることしかできないアシエルを見て、ゼークラフト中尉は「後で全部説明するよ」と困ったように微笑んだ。

 

「今は脱出することだけを考えてくれ。ここは危険地帯だ。しんどいだろうけど、頑張れよ」

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