閑話 αの観察記録
研究員ブルーノの一日は、研究サンプルの観察記録をつけるところから始まる。
狼、鳥、犬、ヒト。どれも彼が担当する大切なサンプルたちだ。
一通りのチェックを終えて机に戻ろうとしたとき、ブルーノは中央実験槽の前で蹲る影を見つけた。
艶やかな黒髪と、羊によく似た黒い角が特徴的な美しい異形は、サンプル名αと呼ばれる古株の個体だ。最近になって白目は黒く染まり、虹彩は毒々しい紫色に変化した。服に隠れて見えないが、未熟であった尾も体の変化に伴って発達しているはずだ。
自由を許されているαは、時折ふらりと姿を消すけれど、基本的には日がな一日ああして実験槽の前で過ごしている。十日ほど姿を見かけなかったが、戻ってきていたらしい。栄養状態は悪く、やつれた顔には隈も濃い。十日前と比べると体の損傷がやや激しいように見える。近くで観察したいところではあるが、そうもいかないのが悔しいところだ。
αは気性が荒いのだ。正確には、身体的な変化が進むと同時に気性が荒くなった。それまでは従順であったのに、ある時を境に凶暴を通り越して残虐性を持つようになってしまった。近づきすぎると危険があるため、こうして一定の距離から観察する以外に記録のつけようがない。
ぼんやりと実験槽を眺めていたαが、ふと身じろぎした。のろのろと立ち上がったかと思うと、ぺたりと両手をビーカーについて、じっと中身を見つめている。
中に入っているのは、ヒトの雄だ。αが持ち込んだガイドなので、記録上はβと記載している。
βには特殊な処置を施してある。本来であれば心臓が動いている個体に使う不死化施術を、手法を変えてβの死体に適用したのだ。損傷した器の再生には予想以上に時間がかかっているが、日々の記録を見る限り、緩やかながらも状態は改善に向かっている。最近はあのように覚醒頻度も上がってきた。
「あしえる」
薄らと目を開けたβを見つめて、αは蜜を垂らすような甘い声で呟いた。聞こえているはずもないのに、ぴくりとβの手が動く。βが時折半覚醒するようになってからというもの、αが声を掛けると毎回のように起こる反応だ。
βの手が溶液の中でふわりと漂い、ビーカーの表面に触れる。その手を求めるように、αがガラスに触れる手を動かした。蹲まっていたときには気付かなかったが、手にも変化が出てきたらしい。野生動物のように鋭い爪と、湾曲した指先が目についた。観察ノートに追記しておく。
「あしえる。マーレの海は、とおくなかった。あおい花がさいていた」
舌足らずにαは語る。目を開いているとはいえ、βには意識があるわけではないというのに、飽きずに延々と何かを語りかけている。くすくすと子どものように笑っては、βの焦点の合わぬ視線が偶然αを掠めるたび、幸せそうに笑みを深めていた。
「あしえる、……アシエル」
昏睡状態に戻ったのか、βが再び目を閉じた。不意に、αの表情に理性が宿る。
「あと少しだ。イーリスとテンペスタは停戦した。うるさい外の国々も、じきに黙らざるを得なくなる。逆らう者がいなくなれば、争いは消えるだろう」
ブルーノはノートに追記する。今日もαの精神状態はひどく不安定。
普段のαは、βのビーカーに張り付きながら、幼児退行でもしているかのようにとりとめのないことばかりを口にしている。時折ああして正気を取り戻すが、あくまで短い間だけだ。
「せんそう、が、おわれば……」
再び表情を緩ませて、αはぶつぶつと呟き始めた。βの覚醒頻度と反比例するように、αが正気に戻る頻度は急激に減っている。皇帝の管理するサンプルに口出しはできないが、いっそ檻に入れてしまった方がいいのではないかと思うくらいだ。
上機嫌に笑っているときはいいが、あの状態のαは豹変するから危険なのだ。――今のように。
一斉に唸り声をあげ始めた周囲のサンプルたちを見て、ブルーノはため息をついた。
「おかえり、魔王陛下」
朗らかに声を掛けながら、皇帝であったはずの人――の生首と、それを抱える護衛騎士が近づいてくる。首だけになってしまった皇帝を初めて見たときには、サンプルを見慣れているブルーノでさえさすがに驚いた。とはいえ、最悪でも頭さえ残っていれば研究員としても皇帝としても問題はないのだろうと、自分を納得させている。
「西の制圧に出ていたと思ったが、今回は時間がかかったね」
皇帝が口を開いた瞬間、護衛騎士は背後に吹き飛び、皇帝の首はぐしゃりと上下に潰れた。じゅくじゅくと音を立てて再生しながら、何事もなかったかのように皇帝は喋り続ける。
「魔獣を統率して使うから、各国が警戒するんだよ。外に避けておきなさい。これ以上は、いらぬ恨みを買うだけだよ、魔王様」
「不愉快な化け物が、口を開くな」
ぞっとするような冷たい声で、αが答えた。皇帝の生首を拾い上げた騎士は、疲れたようにαに相対する。
「その見目でよくぞ言えたものだ。鏡を見せてやりたいね。第一、グレゴリオ様が化け物なら、君の愛しいガイドだって今や化け物だろうが」
ガラスビーカーの中で、苦しげにβが身じろぎする。傷がまた開いたのか、腹から血が立ち上っていた。βの体の再生が遅い理由はここにある。傷が閉じては、皮膚が腐り落ちるようにして傷口が開くせいで、遅々として再生が進まないのだ。
今の今まで敵意を向けていた騎士と生首に背を向けて、αはβに治癒の魔術をかけ始めた。
「魔力をたくさん注いでおやり」
唄うように皇帝は言う。
「彼が厭うた、歩く死体に作り替えてやるといい。信心深いイーリスの民にとっては受け入れがたかろう。おぞましいと言った化け物にされたと知ったら、彼はどんな顔をするのかな」
言葉はそれ以上続かなかった。どこからともなく現れた氷柱が、生首の口に何本も刺さり、言葉を封じたからだ。床に落ちた生首は、ブルーノの足元までごろごろと転がってきた。
氷柱は鋭いが美しい。まるで氷でできた花のようだ。そういえば先ほど花がどうこうとαがβに語りかけていた。しかし、人の首を花瓶にするのは趣味が悪すぎる。
生首を拾い上げた騎士が場を離れると、再び研究室は静かになった。眠り続けるβの傷を塞ぎながら、αは縋るように名を呼び続ける。
「あしえる」
αの精神状態は極めて悪い。狂気に侵食された精神は、やがてαが繰り返し呟いていた唯一の言葉の意味さえ、忘れさせていく。
「……あしえる? あしえるって、なんだっけ……」
ブルーノは、いつものように記録した。彼の仕事は変わらない。戦争が起こる前も、起きてからも変わらない。たとえ世界が魔物に覆われようとも、変わらないのだ。




