58.血だまりに降る細雪⑥
見渡す限り一面が、氷に包まれていた。人も魔物も樹木も大地も例外なく、深く氷に閉ざされている。イーリスもテンペスタも、逃げ出すことが叶ったのは、一部の魔術師だけだろう。主を先導しながら、アントーニ大佐は悪夢のような氷原の上を粛々と歩いていく。
「大丈夫。大丈夫大丈夫大丈夫。アシエル。アシエル……」
狂ったように呟く声は、氷の世界の中心から聞こえてきた。
「今助けるから。大丈夫。心配ない。お前は死なない。すぐ治る」
絶対零度の世界を作り出した男は、大切そうに腕に何かを抱えて、氷の上に座り込んでいた。みじめに背を丸めながら、下半身のちぎれかけた死体へと一心に治癒をかけ続けている。胸と腹に穴の開いた人間など、誰がどう見たって死んでいると分かるのに。
「あーあ。死んじゃったねえ」
吹雪が吹き付ける空間に立ち、グレゴリオは飄々と声を発した。ディズジェーロは顔すら上げなかった。
「アシエル、目を開けてくれ。眠るな。後でいくらでも眠ればいい。だから」
ディズジェーロは血だまりに座っていた。物言わぬ死体の指を伝い落ちる血が、刻一刻と血だまりを広げ、氷と雪を汚していく。
「アシエルくんにまた会いたいかい、ディズジェーロ」
グレゴリオが問いかけるや否や、絶え間なくディズジェーロの口から零れ出ていた声が、ぴたりと止まった。項垂れていたディズジェーロが、ゆっくりと頭を上げる。
――無様な。
変わり果てた同期の姿を見て、耐えるようにアントーニ大佐はきつく拳を握った。ディズジェーロの両目は不気味に色を変え、口元は血で汚れていた。髪をかき分けるように突き出しているのは角だろうか。異形そのものの姿をしておきながら、人形のようなうつろな表情を張り付けたディズジェーロは、物も言わずにこちらを見つめていた。
ディズジェーロが魔族の先祖返りだとは噂で聞いていた。希少なセンチネルの実験体として扱われ、幼いころから体質を弄られているのも知っていた。それでも、誰より優秀な同期が、こうも変わり果ててしまうとは思わなかった。
目的のためには手段を選ばぬ破天荒な主を敬愛してはいるが、時折恐ろしくも思う。
「それ、直してあげようか」
「死者蘇生まで実現されたのですか、陛下」
主君の言葉に驚き、思わず口を挟む。グレゴリオはちらりとアントーニ大佐を見つつ、「まさか」と首を横に振った。
「死んだ人間は生き返らないよ。だけど生きている限りは、死の定義を狭めてやることはできる」
「死んでいるようにしか見えませんが」
「体はね。それだけ熱心に魔力を注いでいれば、頭はまだ生きてるだろう。体も欲しいというのなら、魔力核の代わりに『賢者の石』を使って施術すれば、再生するんじゃないかな? まあ私はどちらでもいいよ。死体でも、そうじゃなくてもね。選択権はお前にあげよう、ディズジェーロ」
ディズジェーロがまばたきをする。その表情は幼子のように無防備で、迷子のように寄る辺ない。
「お前の大切なガイドを直してあげよう。お前が私に従えば――」
「イーリス兵」
掠れた声で、ディズジェーロはグレゴリオの言葉を遮った。向けられた視線の強さに、グレゴリオとアントーニ大佐はそろって口を噤む。
「顔に見覚えがあった。イーリス兵に偽装した近衛。貴様の指示ではないのか」
「……よく見ているね。生きていれば障害にしかならないアシエルくんを、本気でお前に任せておくわけがないだろう」
グレゴリオが答えると同時に、反応すらできずに主君の首が飛んでいた。切られた首が氷の上に落ち、転がっていく。
異様な空気に呑まれて、アントーニ大佐は立ち尽くすことしかできなかった。
家こそ貴族派のはずだが、基本的にディズジェーロは上の命令に忠実で、従順な人間だ。すべての物事に関心が薄く、逆らうことなど考えもしないように、洗脳に近い教育を受けてきたはずなのだ。
だというのに、これはなんだ。
「貴様が」
ディズジェーロは死体を抱いたまま、ゆらりと立ち上がった。いつの間にか抜いていた剣で、ディズジェーロはグレゴリオの腕を二本切り飛ばす。
「……貴様が」
グレゴリオの両足が切り離される。目の前で為された凶行に、ようやく己の職務を思い出したアントーニ大佐は、慌てて剣を鞘から抜き出した。けれど、間に合わない。
「貴様が!」
血を吐くように怒鳴ったディズジェーロは、ただひたすらにグレゴリオの体を刻み続ける。
「私が間違っていた、アシエル! 好きにさせておくべきではなかった。こんなゴミのせいで、お前は!」
刻み、燃やし、いたぶる。はじめはたしかに怒りであったはずなのに、次第にディズジェーロの顔に浮かぶものは、冷たい笑みに変わっていった。
目を見開き、けたけたと笑いながら、ディズジェーロはグレゴリオの体を刻み続けた。肉体が肉片になり、果てには液体となっても、彼は止まらない。夢中になって肉塊で遊んでいる様子は、頭がどうかしてしまったとしか思えなかった。
切り飛ばされて遠くに落ちた主君の生首を見れば、こんな状況だというのに、何やら考え込んでいる様子である。ディズジェーロがこちらに注意を払っていないことを確認した上で、アントーニ大佐は主君の首をさっと拾い上げた。
「……これでよろしかったのですか」
「良いはずだったんだけどね。結界に穴が空いてしまったことを思うと、時間もないし。暴走はうまく誘導できたみたいだし、αの準備は整った。ただ、思ったより残虐性が高いな」
けたけた。けたけた。
血だまりの中で死体を抱えて、ディズジェーロは狂ったように笑い続ける。いつでも感情を律する孤高の男であったはずなのに、なんという有様だろう。
見ていられなかった。主君の首をマントの中に隠しながら、アントーニ大佐は「おい」とかつての同期に呼びかける。
「いつまでとち狂っている気だ、ベイグラント准将! 本気で彼を失いたいのか!」
怒鳴りつければ、ぴたりと笑い声は止まった。
ガラス玉のような冷たい瞳がアントーニ大佐を見据える。背筋がひやりと凍った。
――殺される。
本気でそう思った。けれど、興味もなさそうに視線を逸らしたディズジェーロは、愛おしげに死体の頬を撫で、転移魔術を起動する。
「アシエル、大丈夫だ。治すから。お前は死なない。死なせない。神になんて祈らなくていい。争わなくていい。傷つかなくていい。アシエル。アシエル、アシエル……」
狂気を滲ませる言葉とともに、光が強度を増していく。
「アシエル。お前が望む通りの世界をお前に捧げよう」
神に祈る信徒のように真摯な誓いを残して、異形の男は姿を消した。
命を閉じ込めた氷ごと、大地が白く覆われていく。
氷上に残された血だまりを、雪は静かに隠していった。




