57.血だまりに降る細雪⑤
次の日の朝は、砲音から始まった。日も昇らぬうちから砲撃に叩き起こされ、陣地の兵が一気に殺気立つ。夜の間に降り積もった雪は地面を白く覆い、今なお新たな雪がしんしんと空から落ち続けていた。
体に染みついた動きで準備を済ませ、兵士たちは声を発することなく戦場に駆けて行く。すでに戦闘状態にあった先行部隊に加わった先で、魔術を紡ぎ、剣を振るいながら、誰もが困惑に顔をしかめていた。
「……魔物?」
怒号に紛れて、誰かが呟く声がした。
夜明けを告げた砲弾は、イーリスとテンペスタの両方から放たれたものだった。標的は、どこからともなくなだれ込んできた魔物の大群。戦場に溢れかえった魔物は、テンペスタもイーリスも関係なく、人と見るや飢えた獣のように襲いかかってくる。
戦場は完全な混戦状態に陥っていた。
倒れていく味方を気遣う余裕もない。治癒の使えぬアシエルにできることは、一体でも多く敵を屠ることだけだ。死体に足を取られかけ、舌打ちしながら魔術で燃やす。それが人ではなかったことを祈るばかりだが、確認している時間はない。注意を他所に向けたが最後、死ぬことになるからだ。
「結界、もう壊れてるんじゃないすかね」
ごく近くで魔術を組んでいるゲオール大佐に向かって、アシエルは思わずぼやく。
「馬鹿を言うな」
「だってなんか、空から光るものが落ちてきてますよ」
「雪だ」
「色がついてますけど」
「血と硝煙で染まったのだろう」
「そりゃ、嫌な雪で!」
叫ぶように言いながら、またひとつ魔術を放つ。魔獣の群れは減る気配がない。アシエルの息はすでに上がっていた。軽口を叩いているのは、そうでもしなければ座り込んでしまいそうだからだ。
「結界のせいじゃないってんなら、この地は呪われてます」
「否定はできんな」
以前はスタンピードが起こり、戦争では最先端となり、今回は魔物の大群に襲われた。テスの町には、つくづく不幸がついて回るらしい。魔物の流入がせめてこの町周辺だけであることを祈りながら、アシエルはまたひとつ、光の弾丸を宙に撃つ。
「アシエル少尉、来客だ」
不意に、ゲオール大佐が強張った声で告げる。問い返す前に、戦場全体を震わせるような甲高い音が、空から響いてきた。
暗い影が戦場を覆う。ただでさえ暗い戦場に、ぞっとするほど暗い影が落ちていた。
「泳ぐ場所、間違ってるんじゃねえの」
すくみそうになる体を叱咤しつつ、精一杯の虚勢でアシエルは笑う。
空を覆うようにして、二体の巨大な魚が浮かんでいた。見たことも聞いたこともない姿をした恐ろしい化け物は、魔物には違いないだろうが、何の魔物であるのかすら分からない。優雅に空を泳ぐその魚の体は、無数の目に覆われていた。ぎょろりと戦場を見下ろした魚は、あくびをするように口を大きく開ける。
次の瞬間、爆竹を鳴らすかのような、耳障りな破裂音が響き渡った。
無数のうろこが空魚の体中から射出される。天から振り撒かれたそれらは、人と魔物を一撃で砕いては殺していった。悲鳴すら上げることなく、ほんの数秒前まで人であったものがばたばたと倒れていく。
絶句しながら、アシエルは唇を引きつらせた。隣ではゲオール大佐が眉を寄せている。
「あんなの何度も打たれたら全滅しますよ。大佐」
「指揮官より各員に告ぐ! 魔術部隊は後方へ下がれ。結界魔術を使えるものを中心に弾幕を防ぎつつ、上空の未知の魔物を討つぞ!」
手早く指示を出しながら、ゲオール大佐はじっとアシエルを見た。言葉にされるよりも先に、何を求められているかを察する。ペンダントを強く握り込んだアシエルは、短く祈りを捧げて頷いた。
「一体は何とかします。もう一体は――」
「こちらで対処する。行け」
「了解」
限界まで自身の体を強化して、アシエルは走った。敵兵と魔物に囲まれた場所で周囲を警戒しながら戦うよりは、空魚だけに集中したい。
おあつらえ向きに、たった今しがたの空魚の攻撃で穴が空いた場所があった。死体の転がる穴の中央に滑り込み、真下から敵を見上げながら、アシエルは巨大な魔法陣をいくつも空中に描いていく。
「その気色悪い目、全部潰してやる!」
震える体を鼓舞するように、アシエルは言い放った。
腕を一振りすると同時に、並んだ魔法陣から光の弾丸が射出されていく。幾千に割れた光の弾丸は、アシエルの狙い通りに空魚に向かい、体表の目を焼いていった。苦しげな声を響かせながら、空魚は体をよじらせる。
けれど、致命傷には程遠い。
(落とさないと話にならねえな)
歯噛みしながら、アシエルは空魚を睨む。相手が竜や鳥であれば翼を切れば地に落とせるが、あの巨大魚が空に浮いている仕組みが分からない。そうこうしているうちに、ぐるりと戦場を旋回した空魚が、かぱりと口を開けた。
「――ヒレを撃て。光は分散させずに収束させろ。威力が落ちる」
「は?」
唐突に聞こえてきた声に振り返ろうとしたときには、すでにその姿は上空にあった。転移術式で空魚の真上に躍り出たディズジェーロが、身の丈よりも大きな炎を剣に纏わせながら、勢いよく降下する様子が目に映る。
(無茶苦茶しやがる)
アシエルが空を見上げていたのは、一秒にも満たぬ間のことだ。
巨大魚の声が空気を震わせる。呆けている場合ではないと思い出し、慌ててアシエルは魔法陣を書き換えた。空を泳ぐ巨大魚に目を凝らすと、たしかに体の両脇に、透けるヒレがうっすらと見える。
「ちゃんと落とせよ!」
ディズジェーロに向けて怒鳴りつつ、空魚が方向転換する隙を狙って、アシエルは光の大砲を撃ち出した。
大きなヒレに穴が空いた途端に、巨大魚はもがき出し、空中で大きく体勢を崩す。ディズジェーロはその一瞬を逃さない。魚の頭を殴りつけるように、炎を纏った剣を空魚へと叩きつけた。うなりを上げながら、空魚の巨体が落ちてくる。
あとはアシエルの仕事だ。地に落ちてくる空魚の真下に潜り込み、首を狙って剣を構える。腕に受ける衝撃を耐えながら、アシエルは巨大魚の首を決死の思いで落とし切った。
肩で息をしながら、血だまりに剣を立てて体を支える。もう一体の空魚はどうなっているのかと振り向いたところで、アシエルは、空魚の死体の上に立つディズジェーロの様子がおかしいことに気がついた。
(あいつ、目が――)
包帯で隠されていない左の白目までもが、黒に侵食され始めている。それどころが、昨夜調律したばかりだというのに、気配が激しく乱れていた。剣を取り落としたディズジェーロが、頭を押さえて呻いている。それは、ガラスビーカーの中に押し込められながら、何らかの負荷を与えられていたときの様子と良く似ていた。
反射的に駆け寄ろうとして、アシエルは周囲の違和感に気付いて足を止める。
おかしいのはディズジェーロだけではない。空魚が落ちた場所の周りに立つテンペスタ兵が、魔銃を構えていた。その銃口がイーリスのアシエルを向いているならば理解できる。けれど、彼らの銃口は明らかにディズジェーロを狙っていた。
気付いた瞬間、頭が真っ白になった。
「……させるかよ!」
顔を歪めたアシエルは、咄嗟に魔術を展開していた。巨大な魔物の相手をしたせいで、ただでさえ限界直前だった体力は底をついている。剣を振る体力はもう残っていない。
なぜ自軍同士で銃を向けているのか理解できない。この期に至って派閥争いでもしているのか。あるいは私怨か。理解はできなくても、自衛できるのかさえ怪しい状態のディズジェーロに銃口を向けている時点で、許せなかった。
「ディズジェーロ!」
魔術を放つと同時に、アシエルは今にも崩れ落ちそうなディズジェーロに駆け寄ろうとした。自軍の前で名を呼ぶまいと戒めていたことも忘れて、ディズジェーロの名を叫ぶ。アシエルの呼びかけに、ディズジェーロは視線を上げた。
視線が交差する。
アシエルが足を踏み出した瞬間、がくり、と視界が上にぶれて、急激に下へと落ちて行った。
「え?」
何が起こったか分からなかった。ただ、背中がひどく熱かった。背中だけではなく、腿も、肩も、膝も。
顎が上がっていた。背を蹴りつけられたかのように、腹が前に出たからだ。
空気が頬を撫でた。受けた衝撃が強すぎて、膝が立っていられないのだ。
「アシエル?」
ディズジェーロが目を見開いて、こちらを見ていた。
乾いた重い音が何発も、何発も何発も何発も何発も背後から聞こえてくる。そのたびアシエルの体は出来の悪い玩具のようにくの字に折れた。がくがくと視界が上下に揺れた。
「ぁ……っ、が」
痛いと感じたときには、悲鳴を上げることさえできなくなっていた。
瞳がぐるりと上を向く。必死の思いで振り向けば、そこには味方のはずのイーリス兵が、何人も立っていた。テンペスタ製の魔銃をアシエルに向け、いくつもの魔法陣を展開しながら、こちらを狙っていた。
魔法陣から放たれた氷が、無慈悲にアシエルの心臓を貫いていく。
どうして。何が。なんで。
何も分からなかった。分かったのは、地面に叩きつけられる寸前で、誰かの腕の中に抱き留められたということだけだった。
「アシエル」
名を呼ばれてはっとする。どうやら意識を失っていたらしい。掠れた視界の中に、ディズジェーロの顔と、緑の治癒の光が見えた。声を出そうにも、息ができない。息をしようと思うのに、喉の奥から湧き上がるおびただしい量の血が邪魔をする。
ひどく静かだった。周りに立っている者は、誰もいなくなっていた。ディズジェーロが見たこともないような必死な顔をして、何かを叫んでいる。
「アシエル? アシエル、アシエル! 大丈夫。大丈夫だ、治すから、すぐに……すぐ……っ」
足の感覚がなかった。動かすことさえ億劫な視線を無理やり動かし、自分の体を見る。目にした光景に、唇が引きつった。
アシエルは笑おうとした。笑うしかなかったからだ。
腹に真っ黒な穴が空いていた。腕にも肩にも、無数の穴が空いていた。挙句の果てには胸に氷が刺さっている。今生きているのが奇跡だとしか思えない。ディズジェーロが治癒をかけてくれているから、死んでいないだけかもしれない。
「大丈夫、大丈夫大丈夫大丈夫、アシエル。お前は死なない。大丈夫」
もういいよ。
そう言おうとしたけれど、口から出たものは血だけだった。これだけ念入りにやられたものは、いくらなんでも治せない。ディズジェーロがどれだけ優れた魔術師だったとしても、無理なものは無理だ。
自軍だからと油断した。大物を倒して気が緩んでいた。ディズジェーロを助けられたと思って気を抜いた。アシエルのミスだ。自業自得だ。
だからそんな泣きそうな顔をしてまで、意味のないことをし続けなくてもいいのだと言ってやりたかった。
寒い。暗い。怖い。痛い。
痛いのかどうかさえもう分からなくなってきた。
吐いた血を払いながら、ディズジェーロの手がアシエルの頬に触れる。昨夜もこうやって、頬に触られたばかりだと思い出す。
口を開く。声が出ない。昨夜が最後だと知っていたなら、伝えていたのに。そう思ったら、涙が出た。
情と呼ぶには重すぎる。友情だけでは何かが余る。同情だけでは説明できない。恋というほど激しくはなく、愛になるには足りていない。
けれど、ひとつの言葉では表しきれないというのなら、いくつも言葉を変えて、伝えられるだけ伝えればよかった。感謝と感情のすべてをひっくるめて、支離滅裂でもいいから、しっくりとこなくてもいいから、アシエルが持ちうる限りの言葉で伝えていれば良かった。
たとえその気持ちを何と呼ぶべきか分からなくとも、それでも好きだと言えば良かった。
「アシエル……?」
最後の力を振り絞って、ほんのわずかに顔を上げる。そうしてアシエルは、己を抱き込むディズジェーロの唇に、ほんの一瞬だけ、唇をかする程度に触れさせた。
アシエルの血で、ディズジェーロの唇が赤く染まる。
汚すつもりはなかったのに、悪いことをした。かすかに口角を上げたアシエルは、耳元で何かを叫ぶディズジェーロの声に耳を傾けながら、深く息を吐き出した。視界が黒く掠れていて、ディズジェーロの瞳が見えないことだけが残念だった。止まることのない血とともに、最後の吐息が抜けていく。
痛みはもう感じない。
眠気に抗わず、アシエルは目を閉じた。
意識が闇に沈んでいく直前に聞こえたのは、悲痛な叫び声と、世界が揺れる音だった。




