56.血だまりに降る細雪④
「逃げる?」
「そこまでして、テンペスタを守る理由があるのか。そりゃ、育った国に愛着はあるだろうけど、あのクソ野郎にこのまま命も体もくれてやる気か? お前にこんなことをする皇帝のそばで、テンペスタに居続ける理由は本当にあるのか?」
ディズジェーロは目を伏せて、興味もなさそうに「特には」と言った。
「じゃあ逃げろよ! お前だけがこんなことされなきゃいけないの、おかしいだろ。ディーは強い。どこにだって行ける。ディー以上のセンチネルなんていないんだから、お前が本気で逃げれば、きっと誰も見つけられない」
「逃げてどうする。お前は女王に忠誠を捧げているのだろう。イーリスを大切に思っている。たとえ近いうちイーリスが負けると分かっていても、戦場に残る。違うか」
ぐっと言葉に詰まる。薄々肌で感じてはいても、テンペスタの側にいるディズジェーロの口から、イーリスが負けるとは聞きたくなかった。力なく首を横に振ったアシエルは、縋るようにディズジェーロを睨みつける。
「俺のことはいいんだよ。俺はお前の話をしてるんだ、ディズジェーロ」
「私も私の話をしている。お前はイーリスにいる。最後まで、イーリスを離れる気もない。ならば私には、テンペスタを出る意味がない。苦痛の有無など、私にとってはどうでもいいことだ」
ディズジェーロと目を合わせた瞬間、ぞっと鳥肌が立った。うつろな瞳は、薬を打たれてガラスビーカーの中に浮かんでいたときのディズジェーロと、まったく同じだ。本気で、自分がどうなろうとどうでもいいと思っているのだ。
「やりたいこととか、ないのか。行きたい場所は。食べたいものは?」
気付けばディズジェーロの肩を掴み、アシエルは問いかけていた。ディズジェーロは怪訝そうに眉を寄せる。答えが返ってくるより前に、被せるようにアシエルはまくしたてた。
「俺はあるぞ。たくさんある。ディーにやりたいことがないなら、この戦争が終わったら、俺に付き合えよ」
面食らった様子で、ディズジェーロはぱちぱちとまばたきをする。先ほどまで浮かんでいた人形染みた表情が薄れたことに、ひそかにアシエルは安堵した。
「何に付き合えと?」
「行きたい場所がある」
ディズジェーロの部屋に軟禁されて、暇だったときにアシエルが考えていたことだ。
「ディーと星を見たの、楽しかった。俺、あの時お前にどっか面白い場所教えろって言っただろ。覚えてるか?」
「当然だ」
「ディーは最初、どこも思いつかなかった。俺も、お前に見せられるような場所を知らねえなって思った。イーリスの下町は知ってるけど、自分の国の観光名所も行ったことがないし、外国なんて行ったこともない。テンペスタは潜入に行ったけど、結局お前の部屋にいたしな。ディーは、イーリスとテンペスタ以外に行ったことがあるか」
「偵察任務なら」
「任務以外は?」
「ない」
「じゃあ俺と似たようなもんじゃねえか」
にかりと歯を見せて笑う。うまく笑えていることを祈りながら、アシエルは努めて明るく語ってみせる。
「イーリスの隣の……なんだったかな。テンペスタと逆側にある国には、海があるらしいぞ」
「マーレ。観光で名高い国だ」
「それだ。魚料理がうまいらしい。空より深い青い海に、さらさらの砂浜だ。海を見てみたい。あとはあれだ、大陸の端の、自由の国?」
「自由と音楽の国エルフセリア。吟遊詩人と踊り子の聖地。物語が集まる場所」
「うん。そこも行きたい。楽しそうだ」
記憶を探りながら、アシエルは軽い調子で言葉を紡ぎ続ける。
「それから、大陸の外にも国があるっておとぎ話、あるだろ?」
「魔族の国か? 結界の外に出て帰ってきた者はいない。実在するかどうかは疑わしい」
「実際にあるかどうかはともかくとして、ロマンがあるじゃねえか」
「知らない。……結局、お前はどこに行きたいんだ、アシエル」
困惑を浮かべるディズジェーロに、よく聞いてくれたと言わんばかりにアシエルは大きく頷いて見せた。
「どこっつうか、旅をしてみたいんだよ。ぶらぶら気ままに行きたいところに行って、食いたいものを食う。短くても長くてもいいんだ。休暇をとってもいいし、いっそ退役して、適当に流れの傭兵なり狩りなりして路銀を稼いだっていい。戦争が終わればきっと時間もできるだろ? ひとりで行くのは気が引けるけど、ディーが一緒なら楽しいかと思って」
じっとアシエルを見つめたディズジェーロは、次いでゆっくりと視線を落とした。
岩場の外では、しんしんと雪が降り積もっている。雪が落ちる静かな音に交じえるようにして、ディズジェーロは消えそうなほど小さな声で呟いた。
「お前とふたりで世界を巡る、か。楽しいだろうな。……だが、夢物語だ」
「いいだろ、別に。色んな国を回って、そんで、旅の最後はテンペスタでまた星を見て、イーリスでマリーさんのシチューを食べるんだ。な、いいだろ?」
語りながら、声が震えた。
ああそうだ、夢物語だ。アシエルだって分かっている。現実はそこまで甘くない。それでも叶ってくれたらどれだけいいかと願わずにはいられない。少しでも面白そうだと思ってくれたらいいと思った。ディズジェーロが逃げる気になってくれやしないかと思っただけだ。
ディズジェーロに苦しんでほしくない。死んでほしくないのだ。人形みたいなうつろな目ではなく、あの炎が燃えるような強く美しい目をして生きてほしい。
作った笑みを、とうとう保ち続けることさえできなくなった。ごまかすように目を伏せて、ただただ必死に舌を動かす。
「皇帝の好きになんてさせるなよ。結界なんて知らないよ。αだなんだって、俺には分かんねえよ。テンペスタもイーリスも、馬鹿だよな。何人死ねば……どれだけ殺せば終わるんだろうな。クソ皇帝も、ユリア様も、こんなやり方しなくたっていいのにな。でも、生きてたら、戦争が終わったら、いつかきっとなんとかなる。きっと大丈夫だ」
だから、と支離滅裂になりかけた言葉で言い募ろうとしたとき、頬を両手で挟まれ、ゆるりと角度を変えられた。アシエルの言葉を塞ぐように、優しく唇が重ねられる。冷え切った唇をほんの一瞬触れ合わせた後で、ディズジェーロは己の額をアシエルの額に当てるようにして、淡く微笑んだ。
「……そうだな。付き合おう。お前と旅をするのも悪くない」
「約束だぞ。死ぬなよ。使い捨ての人形になんて、されるなよ」
「ああ、約束しよう」
子どものようなことを言っている自覚はあった。ディズジェーロを睨みつけている視界が滲む。けれど、目尻から涙がこぼれる前に、目元に触れたディズジェーロの唇が、雫をすくい取っていった。
「お前はすぐに泣く」
「うるせえほっとけ。俺はこんなに弱くなかった。夢なんて見たこともなかった。全部お前のせいだ、ディズジェーロ」
「それはすまない」
とてもそうは思っていなさそうな声音で言って、ディズジェーロはふわりと目を細めた。調律で気が緩んだときにだけ見せるその顔が、アシエルは好きだった。
ディズジェーロは、もう一度慈しむようにアシエルの目元に唇を落とす。
「緑の恵みの色。お前の瞳は美しい」
「は?」
額に。鼻の頭に。頬に。羽が触れるような頼りない感触が落とされていく。
「感情がそのまま浮かぶ、お前の表情が好ましい。泣き顔も、怒った顔も、笑った顔も、感じる顔も、すべて見たい」
「何」
背を抱かれて引き寄せられ、耳の付け根と首筋を、強く吸い上げられる。
「お前と肌を合わせることが心地良い。他人を助けてばかりいるから傷がつく。アシエルらしい体を、好ましく思う」
「待て」
押しのけようと突っ張った手を取られ、忠誠を捧げるように、手の甲に唇を落とされた。
「何度も私を救ってくれた。あたたかい手が慕わしい。アシエル」
「な、なん……何だよ、いきなり」
最後にじっと視線を合わせられ、じわじわと頬が熱くなっていく。隠したところで今さらだろうが、みっともない顔を晒す趣味はない。アシエルはばっと顔を伏せ、呻くような声を出した。
「嫌がらせか? 前にお前に薬打ったの、根に持ってんのかよ……」
「すべて本音だ。お前がくれた言葉を返しただけだ。根になど持たない。アシエルが生きているならそれでいい」
「……っ」
「お前に出会えた幸運に感謝している」
顔を伏せているのをいいことに、額に唇が落ちてくる。贈られた口付けと言葉の柔らかさに、アシエルは嗚咽のような引きつった息を漏らした。
「俺だって、お前が――」
大切だ。知り会えて嬉しい。救われた。
伝えたいことは確かにあるのに、アシエルが知る言葉のどれも、しっくりとはこない気がした。だから代わりに、ディズジェーロの首にそろりと腕を回して、名を呼んだ。
「ディー」
「なんだ」
繋がっている精神から何かが伝わってくれやしないかと願って、名前の一音一音を丁寧に紡いだ。
「ディズジェーロ」
「どうした、アシエル?」
静かだった。雪の夜に、崖下の岩間に隠れるように並んで、ふたりで語り合える今が、奇跡のように思えた。出会えた幸運に感謝するというなら、それはアシエルの方だ。
「ディズジェーロ」
名を最後まで呼ぶ前に、唇を塞がれた。左右で色の変わった瞳が、燻るような熱を灯している。気付いた瞬間、かっと頭が熱くなった。
舌を捻り込んで粘膜を合わせて、息を荒げながら忙しなく体を探り合う。互いに脱ぎもしていない。下半身だけを寛げて、気付いたときには何かに追い立てられるように体を繋げていた。
冬の夜は凍りつきそうなほど寒いのに、向けられる視線は焼けそうなほど熱かった。
「アシエル、アシエル……、アシエル」
「ディ、ズ……ジェーロ」
胸元を支える手に自分の手を重ねて、ねだるように振り向けば、ディズジェーロはアシエルの体を支え、唇を塞いでくれた。同じ熱量の興奮を抱えて、同じだけ息を弾ませたディズジェーロと視線を絡ませながら、与えられる熱に歓喜する。
性急に体を繋げたことに、きっと大きな意味はない。戦闘の興奮が収まっていなかっただけかもしれないし、たしかに互いが生きていることを確かめたかっただけかもしれない。
こんなことをしている場合ではない。こんなことをする場所でもない。何をしているのかと自嘲しながらも、熱に浮かされたようにアシエルは引きつった声を漏らした。
「……お前、に……殺されたい、な……ディー」
「断る」
何度もディズジェーロに命を救われた。どちらか死ななくてはならなくなったとしたら、アシエルの命をディズジェーロにあげたい。センチネルとガイドに分かたれる前の存在がαであり、ディズジェーロがαにならなければならないのだとしたら、余計な混ぜ物の代わりに、アシエルをディズジェーロに混ぜてほしかった。
馬鹿になった頭でそう言えば、不機嫌を隠そうともせずにディズジェーロは顔を歪める。
「死んでもごめんだ」
「なんで」
「旅をするのだろう。お前がいないなら行かない」
声を上げる代わりに、アシエルは目尻をくしゃりと歪めて笑った。
「かみさま、どうか――」
祈りを口にする前に、言葉を遮られる。自分以外の名を出すことすら許せないとでもいうように、ディズジェーロはらしくもない乱暴さで唇を重ね、アシエルにそれ以上の言葉を紡がせてはくれなかった。
ディズジェーロの腕の中で目を見開いたアシエルは、体の中に入り込んだものを強く締め付けながら背を反らせる。痛いほどに強く抱きしめられ、追い上げられた先で、アシエルは擬似的な死を与えられた。幸福というものがあるのなら、きっとこの一瞬のことを言うのだろうと、そう思った。
身繕いを済ませた後、何を語り合うでもなくアシエルはディズジェーロと隣り合って座っていた。白く雪に覆われた岩山と、弱まり始めた雪の勢いを眺めながら、互いの体温だけを感じていた。
けれど、あまり長く抜け出しているわけにもいかない。最後に一度だけ、繋いだ手を強く握り、そっと離す。
「……戻るよ。会えて良かった。死ぬなよ、ディー。お前、今日戦ったとき、調子が悪そうだったから」
「無用な気遣いだ。お前は自分のことだけを考えろ。皇帝はすぐ近くまで足を伸ばしている。気をつけろ、アシエル」
頷いて、同時に背を向ける。振り返らないまま、降り積もった新雪に足跡を刻んで、アシエルは暗い陣地へと戻っていった。




