55.血だまりに降る細雪③
剣を挟んで向かい合う。自軍の前で親しげに名を呼ぶことはできないけれど、会いたかった相手にようやく会えた。それだけでアシエルには十分だった。
空中で体勢を立て直すなり、アシエルはディズジェーロの腹を狙って剣を振り抜いた。手加減はいらないとディズジェーロが言ったのだ。ならばアシエルにできるのは、その言葉を信じることだけだ。
切りかかってはあしらわれ、試すように振り下ろされる剣をいなしては、鋭く切り返す。時折背後の味方に向けて放たれる魔術を力任せに撃ち落としては、やり返すようにテンペスタ兵を狙って魔術を放った。
手は抜かない。これは化け物どうしの戦いで、手を出せば周りを囲む死体の山のひとつになるだけなのだと、周囲に示し続けなければならない。戦場で会ってしまった以上、どちらも死なずに今日を終えるためには、それ以外に選択肢がないのだから。
剣戟の合間に、アシエルは周囲の様子を伺った。
実験生物の数が増えている。あるいは人の数が減ったせいで、相対的に増えたように見えるだけかもしれないが、いずれにせよ、歩く死体を放置すればそれだけ多くイーリス兵が死んでいく。削る必要があった。
「余所見をしている余裕があるのか」
「さあな」
ディズジェーロの言葉を受けて、アシエルは無理矢理に口角を上げた。
アシエルは勇者としてここにいる。ならば、求められる役目に見合った振る舞いをしなければならない。
「光は好きか、テンペスタ」
いつか聞いた言い回しを真似ながら、数えきれないほど使った光の魔術を起動する。見慣れた光の弾丸は、幾重にも枝分かれし、ディズジェーロごと周囲の歩く死体を貫くように向かっていった。
魔術の技巧において、アシエルはディズジェーロに敵わない。魔力任せのアシエルの魔術など、結界で防ぐなり、乗っ取って砕くなり、容易にできるはずだった。
普段通りのディズジェーロならば。
「……くっ!」
光に目が眩んだように顔を顰めたディズジェーロは、不自然にふらりとその場でよろめいた。かわしきれなかった光の一筋が、ディズジェーロの肩を抉っていく。
なんで避けないんだと、アシエルは叫びそうになった。動揺は剣へ如実に表れる。捌ききれなかったディズジェーロの剣先が、アシエルの頬を深く切り裂いていった。
舌打ちをして距離を取る。
その時、ぽつりと何かが落ちる音がした。頬を叩く雨の感触に、アシエルは目を眇める。一滴、二滴と天から落ちた大粒の雫は、瞬く間に勢いを増していった。凍りつくような冷たい雨は、辺り一帯の視界を遮るほどに激しく勢いを増していく。戦闘が始まった直後にディズジェーロが呼んだ雨雲とは違う、自然の重い雷雲が、空全体に広がっていた。
叩きつけるような勢いで降り始めた雨のせいで、足元どころか敵兵の姿すらかすむ有様だ。降りやむ様子がないことを見て取ったのか、司令官が苦々しげに指示を出す。
『総員撤退! 嵐に紛れて退却せよ!』
「了解しました」
肩から血を流すディズジェーロをじっと見る。ディズジェーロもまた、頬から血を滴らせるアシエルを静かに見つめていた。
駆け寄って謝りたい。あれから何があったのかと問い詰めたい。けれどそんなこと、できるはずもない。
生きてまた会えただけでも上々なのだと己に言い聞かせながら、アシエルはくるりと踵を返す。雨音と混乱の声を聞きながら、振り返らずに戦場を駆け抜けた。
帰還した陣地は、朝とは比べようのないほどに緊張感に満ちていた。兵士たちの顔は一様に青白く強張り、泡が破裂する一歩手前のように空気がひりついている。屋根のある場所は負傷者で溢れかえり、身を休める者たちの間からは軽口のひとつも聞こえない。
イーリス軍の状況の悪さも、この撤退があくまで一時しのぎでしかないことも、誰に告げられずとも皆が理解していた。それだけ、テンペスタが使う不死の生物の軍勢はイーリスにとって脅威だった。
体を洗い、傷口の手当てを受け、食事を受け取る。アシエルがそれらの日課を終えたときには、すっかり夜も深まっていた。雪交じりの雨はいつしか完全な雪に変わっており、降り積もる雪が、不気味なほどの静けさでテスの町を覆っていく。
ふらふらと行く当てもなく陣地を歩いていたアシエルは、壊れた神殿の前でなんとなしに足を止めた。以前、秋の神事で見た美しい神殿は、今や血と煤で汚れてしまい、かつての荘厳な佇まいは見る影もない。それでも雪化粧のおかげか、暗闇にぼんやりと浮かぶ姿には、侵しがたい神聖さが感じられた。
――神はどんな状況でも、常に我々を見守ってくださっているのですから。
かつてアシエルを案じてくれた、ロッシ司祭の言葉を思い出す。あの時は居心地悪く思ったものだったけれど、今となっては神に祈ることで折れそうな心を繋いでいるのだから、司祭の言葉も馬鹿にできないものだ。たったひとつ前の季節のはずなのに、随分と時間が経ったように感じた。
(ディーと初めて戦ったのも、テスの町だったな)
懐かさに目を細める。どうせ眠る気にもなれないし、散歩でもしようかと思い、アシエルは森へと足を向けた。こんな吹雪の夜に好き好んで森の奥へと出歩く者はいない。誰に見咎められることもないだろう。
記憶を頼りに森の奥へと進んでいく。武骨な岩場を通り過ぎると、見覚えのある斜面にたどり着いた。暴走寸前で蹲っていたディズジェーロを、いつか見つけた場所だ。
ひょいと手を掛け、アシエルは一段低い崖下へと身を滑り込ませた。出っ張った岩場がちょうど屋根代わりになるためか、座り込んで岩に背を付けても、思ったほどは寒くない。
白い息をぼんやりと眺めながら、世界から隠れるように背を丸めて座り込む。静かに両手を組み合わせたアシエルは、そっと目を閉じた。自分自身の心臓の音に耳を傾けながら、どうしようもない現実を思って祈りを捧げる。
寒さで鼻先が痛んでくるころ、かすかな衣擦れの音がした。足音もなく崖下に飛び降りてきた誰かは、アシエルの隣に座り込む。
「お前も神に祈るのか、アシエル」
「そりゃあな」
「何を祈る」
「平和を。戦なんてない、魔物も気候も結界も何も心配しなくていい世界。ディーと普通に飯食って普通に話せる、そんな世界がどうか戻ってきますようにってな」
ゆるりと目を開け、視線を向ける。笑おうと思ったけれど、うまく笑えなかった。
「肩、大丈夫か」
「問題ない」
ディズジェーロの手が頬に伸びてくる。指先に灯された柔らかな緑の光が、アシエルの頬を包み込んだ。痛みが引いていく。
「ありがとう」
頬に触れるディズジェーロの冷たい手に、アシエルは自らの手を重ねた。感触を確かめるように頬を押し付けながら、掠れる声で言葉を紡ぐ。
「生きててよかった、ディー」
「そちらこそ」
「そりゃ、生きてるよ。俺を逃がしたのはディーだろうが……」
息が震える。言いたいことはたくさんあった。話したいと思っていたこともたくさんあったはずだった。それなのに、喉に熱いものがつかえて、言葉がうまく出てこない。代わりに出てきたのは、いつもいつも会うたびに口にしていた、挨拶代わりの問いかけだけだった。
「調律してねえの? ひどいことになってるぞ」
「ガイドを受け付けない。前以上に」
「そっか」
なんとなく、そうではないかと思っていた。アシエルも同じだからだ。
戦場に出てからというもの、調子を崩した自軍のセンチネルに調律を頼まれても、なぜか以前のようには調律できなかった。精神を繋ぐと、これまで感じたことのないような不快感を覚えるのだ。
アントーニ大佐が言っていた契約という言葉が、唐突に腑に落ちた。ディズジェーロとアシエルは、なるほど契約したのだろう。ディズジェーロの力を深く調律できるようになった代わりに、アシエルは多分、誰でもそれなりに調律できた以前までの力を失ったのだ。
頬に触れていたディズジェーロの手が、そっとアシエルの首筋を撫でて離れていく。
「お前以外に精神を触られるだけで、吐き気がする」
「……そうかよ」
ほのかな優越感と、暗い満足感が、アシエルの心の底でぞろりと蠢いた。調律できなくなるということは、センチネルにとっては命にかかわることだ。間違っても望ましいことではないのに、それを喜んでしまう己の浅ましさが嫌になる。
ディズジェーロは、命をアシエルに明け渡しているに等しい。合意もなくそれほど重い繋がりをもってしまったことに罪悪感を覚えると同時に、その事実はひどくアシエルを満たしてくれた。
「ん」
軍用グローブを抜き取って、むき出しになった両手をディズジェーロに差し出す。ごく自然に重ねられたディズジェーロの両手を握り込み、アシエルは目を閉じた。
精神を繋いだ途端に、どうしようもない違和感に気が付いた。湧き上がった怒りをかみ殺しつつ、アシエルは荒れたディズジェーロの力を整えていく。精神の海の荒れを宥めて、濁りを取り除き、制御を外れかけた感覚を、記憶にある元の状態まで戻してやる。
隣から、深く息が吐き出される音が聞こえてきた。ディズジェーロの感じている苦痛を軽減できたことに、アシエルはほっと胸を撫でおろす。
けれど――。
精神の繋がりは解かぬまま、アシエルは瞼をゆっくりと持ち上げ、固い声で問いかけた。
「何をされた、ディー」
「何も」
「何もされてねえわけねえだろうが。繋がれば分かるんだよ。言え。あのクソ皇帝に何を混ぜられた? ディーからガイドの気配がする。それだけじゃない。ディーの力、前と違う。元々独特な力だったけど、今はもう独特どころじゃない。根本的に違う」
「……違う?」
「人間のものじゃない。魔物に近いけど、魔物よりずっと強い。歩く死体のものとも違う。感じたことのない力だ。教えてくれよ、何をされたんだ……!」
ディズジェーロは逃げるように目を逸らした。包帯で覆われているせいで、あの美しい赤色が、片方しか見えないことが気に入らない。
「目を隠してるのと関係あるのか? 傷なら治癒魔術で治せるはずだもんな」
ディズジェーロの顔を覆う包帯に手を掛ける。アシエルが包帯を解こうとしても、ディズジェーロは抵抗しなかった。
露わになったディズジェーロの右目を見て、アシエルはぎりぎりと歯を噛み締める。
「何だよ、これ……!」
ディズジェーロの右目は、人のものではなくなっていた。白目であった部分がそのまま髪と同じ真っ黒な色に侵食され、美しかった赤い瞳は、魔法陣でも刻み付けられたかのように怪しい魔力を帯びて、紫に近い色へと変わっている。
「耐久性を高めるためだと言っていた。先祖返りを進めて、魔族に近づけるのだと。打たれた薬はいちいち覚えていないし、混ぜられた魔獣も、何か分からない。どれが成功でどれが失敗かも分からない」
震える指で、アシエルはディズジェーロの頬を撫でた。自嘲するようにディズジェーロは頬を引きつらせる。
「……気味が悪いだろう」
その声音が気に入らなくて、アシエルは間髪入れずに言い返した。
「きれいだよ。赤もきれいだったけど、紫が混ざってるのも、ディーによく似合ってる。その目、見えてるのか?」
「視力に変化はない。魔力も増したし、制御もしやすくなった。利点しかない。それに、似たようなことは、昔からされてきた。ただ、今回は見目に出たというだけだ。……だから、そんな顔をする必要はない。アシエル」
ディズジェーロがアシエルの頬に手を伸ばす。知らず流れていたらしい涙を拭って、ディズジェーロはアシエルの頭を引き寄せた。ディズジェーロの肩に額を押し当てながら、懺悔するようにアシエルは目を閉じる。
「ごめん。俺のせいだ。俺がいたから、しくじったから、俺を庇って逃がしたから……お前、あの野郎に好き勝手に弄られた」
「お前はお前のしたいことをした。私は私のしたいことをした。それだけだ。お前の責任ではない」
優しい声を聞けば聞くほど、怒りと罪悪感で、余計に胸が痛くなった。ディズジェーロの背に手を回しながら、ぽつりとアシエルは問いかける。
「ディーは、逃げようって思わないのか」




