53.血だまりに降る細雪①
みぞれ交じりの風が頬を叩く。冬の真っただ中ではあるものの、幸か不幸か行軍を妨げるほどの積雪の日は、いまだ戦場の最前線には訪れていない。
白い息を吐きながら、アシエルはひとり崖下を見下ろしていた。地平線の向こう側には、今日も変わらずテンペスタ兵がひしめいている。センチネルではないアシエルでは、この距離から敵兵の顔をはっきり見ることはできないけれど、それでも探し人が中に紛れていやしないかと、眺めずにはいられない。
「……ディー」
アシエルがテンペスタ皇帝の前から逃がされたあの日から、すでに二月が経っていた。秋の終わりが、完全なる冬へと移り変わる程度には長い時間だ。
あの日、転移魔術でテンペスタの郊外に送られたアシエルは、ゼークラフト中尉と合流し、即座にイーリスに帰還した。任務に失敗し、おめおめと生きて帰ったアシエルを、女王は一言たりとも責めなかった。記憶よりもやつれた顔をしたユリアは、皇帝の目的が分かっただけでも上々だとアシエルを労うことさえしてくれた。
だから、今こうして最前線に立っているのは、誰に強制されたわけでもなく、アシエル自身の意志だ。開戦を防げなかったことへのせめてもの償いでもあり、ディズジェーロと接触できる可能性がある唯一の場所だからでもある。
テンペスタの宣戦布告以来、数えきれないほどのイーリス兵が死に、土地は焼かれ、国境線は押し込められた。結界を支えるイーリスの神殿は、すでに半分近くが敵の手に落ちたと聞く。
イーリス軍には、ひとつの噂が流れていた。曰く――テンペスタ軍には冷酷な『魔王』がいる、と。
伏兵を許さぬ千里眼を持ち、馬鹿げた威力の魔術を使う赤目の男を見た者は、戦場から決して生きては帰れない。
ひとりのイーリス軍人としては喜ぶべきではないのだろうが、アシエルはディズジェーロが生きていると知って、ほっとした。皇帝グレゴリオにとって、ディズジェーロは替えの利かない大切な駒であり、強大な戦力だ。命を奪う以外なら何でもするだろう皇帝の下で、ディズジェーロの心までもが無事である保証はない。けれど、少なくともまだ生きている。
会いたい。ひと目無事を確かめられれば、それ以上は望まない。そのために――。
(今日も生き残る)
胸中で強く誓った瞬間、耳元に着けた通信の魔道具が、緊迫した声を運んできた。
『歩兵部隊の越境を確認。迎撃を開始せよ』
「了解しました」
淡々と言葉を返し、アシエルは前方に向かって腕を伸ばす。
「広域攻性術式を起動」
機械的に呟いたアシエルは、空中に巨大な魔法陣を描いていく。
あらかじめ司令官から与えられている命令はひとつだけ。人間兵器として、ひとりでも多くの敵を殺すこと。
光の魔術を起動する。すでに焼土と化して久しい国境線に向けて放たれた光の矢は、無数の雨となって敵陣に降り注ぐ。
崖から飛び降りたアシエルは、前進する友軍の前に立って駆け出した。悲鳴と怒号を聞きながら、敵を蹴散らし、味方を守る魔術の砲台となる。
敵兵の血を浴びるたび、胸に下げたペンダントがじわりと熱を増していく。これまでになく魔力を使っているというのに、どれだけ大きな魔術を打とうと、魔力が切れる気配はない。人間の命こそが最も効率の良い魔力源だとは、よく言ったものだ。
「死神め! 人の命を雑草のように刈り取って楽しいか!」
「俺はイーリスを守りたいだけだ!」
怨嗟の声に怒鳴り返して、アシエルはまた剣を振る。命の価値が紙より軽い、この地獄のような場所では、意味もない言葉の応酬だけが正気を保つ唯一の方法だった。
アシエルがディズジェーロに会いたいと思うように、アシエルが切り捨てた彼らひとりひとりにも、きっともう一度会いたい友人がいて、家族や恋人がいて、背を預ける上司や部下や同期がいたはずだ。
魔獣を殺す任務とはわけが違う。この場の誰にも、罪も恨みも何もない。恐怖に引きつる顔を見て、命乞いをする声を聞くたび、どうしようもない淀みが胸の内に溜まっていく。命を奪うたびに、耐えがたい罪悪感で胸が潰れそうになった。同時に、生き延びたことによる高揚を感じては、何人分かも分からぬ返り血で濡れた体で、そんなことを思う自分に嫌気が差す。
それでもアシエルは生きたかった。
死にたくないと思いながらも、死ねば楽になれると投げやりに任務をこなしていた頃のアシエルとは、決定的に何かが変わってしまった。
変えられてしまった。
(お前のせいだ、ディズジェーロ)
縋るように胸中で名前を呼ぶ。
会って何ができるわけでもない。殺し合うことになるだけかもしれない。それでも、もう一度でいいから顔を見たい。
真上にあったはずの太陽が山際に姿を消すと、一日の戦いは終わる。けれど、今日の戦闘が終わっても、国の戦争は終わらない。食べて、寝て、明日が来れば、また別の地獄が始まるだけだ。
身体補助の魔術を解き、重さを増した体を引きずるように歩きながら、アシエルは戦場に背を向けた。
テスの町の拠点で水を浴び、食料と着替えを受け取った後、アシエルはひとり町のはずれへと歩いていった。食欲はなかったが、端の焦げた材木に腰掛けながら、支給された簡易食を無理やり咀嚼する。
(いつまでこんなことが続くんだろう)
無味乾燥な味のレーションをやっとの思いで飲み込み、項垂れる。その時、どすりと重々しい音を立てて、隣に誰かが座ってきた。
「お疲れだな、勇者殿」
ちらりと視線を上げて、次いで慌ててアシエルは姿勢を正す。
「ゲオール大佐。こちらにいらっしゃっていたんですか。そうとは知らず挨拶もせず、失礼しました」
敬礼を向けながら、アシエルは懐かしい思いでゲオール大佐の顔を眺めた。開戦以降、センチネルの人員を活かすため、特殊部隊は解体され、通常部隊へと再編された。かつての同僚たちも、今は国中に散っている。ゲオール大佐と顔を合わせること自体、二月ぶりだった。
「崩せ。お前がしおらしい態度だと体が痒くてたまらん」
「はあ」
「痩せたな、アシエル少尉。食事はきちんととっているのか。眠れているか?」
「何ですか、いきなり。酒場にいる世話焼きの親父みたいですよ」
笑みになりきらなかった空気の音が、アシエルの口から溢れていく。けれど、ゲオール大佐は片眉を上げるだけで、厳めしい顔を崩さなかった。
「真面目な話だ。俺の部隊にいながら、アシエル少尉が他国での不適切な単独任務に回されることを防げなかった。今もまた、最前線で兵器のように使われていやしないかと、ずっと気がかりだった」
「あれはユリア陛下のご命令でした。大佐が気にされることじゃありません。最前線にだって、自分で志願したんです。そりゃ、人間兵器なのは否定しませんけど……覚悟の上です。大丈夫ですよ」
じっとアシエルを見つめたゲオール大佐は、「人間は人間だ。心がある。兵器ではない」と生真面目に言い切った。
「人を殺せば心が病むし、恐怖と緊張に身を浸し続ければ摩耗する。食べて、寝て、笑うことさえできなくなったら、それは精神が疲弊している証拠だ。大丈夫とは言わん。俺はガイドではないが、それくらい分かる」
ゲオール大佐の教え諭すような声音は、訓練兵時代、アシエルが間違った回答をしたときの叱り方そのものだ。笑みを浮かべてごまかそうとしたけれど、アシエルの唇の端は不恰好に引きつるばかりで、望み通りに動いてはくれなかった。顔が笑顔の作り方を忘れてしまったかのように強張って、手が勝手に震え出す。
「あれ……?」
「ほら見ろ、言わんことはない」
労うように、軽く背中を叩かれる。そんなやり取りすら随分と久しぶりのように思えて、愕然とした。
「……俺、そんなにひどい顔をしてますか」
「戦時中でなかったならば宿舎に叩きこむところだ。身の丈に合わない真面目なことをしようとするからそうなる」
「ひでー……」
ゲオール大佐の歯に衣着せぬ言い方が懐かしくて、知らず強張っていた体の力が抜けていく。
「少尉は戦争に参加した経験はないのだったな。これほど心を蝕む任務はないぞ」
「そういうもんですか」
「そういうものだ。アシエル少尉には、心の拠り所はあるか? 己がどんな人間であったかを忘れてしまわないよう繋ぎ止めてくれるものや、日々の慰めになるものを失くすなよ。物や聖書でもいいし、恋や思い出だっていい」
自分を正気に繋ぎ止めてくれるもの。生きたいと願わせてくれるもの。
即座に思い浮かんだのは、ディズジェーロのことだった。
「友人がいます」
ぽつりとアシエルは答えた。
傍らで過ごした時間は決して長くはなかったけれど、間違いなく日々の慰めになる記憶をアシエルに与えてくれた、大切な存在だ。
「もう一度会いたい友人が、テンペスタにいます」
「隣国の者と交流があったとは知らなかった。どんな知り合いだ?」
「それは……」
答えようと唇を開いてから、何も言葉にできないことに気がついた。
自分たちは、どんな知り合いと言えばいいのだろう。
「……相手も軍人か」
アシエルの表情から何かを察したのだろうゲオール大佐は、苦しげに目を伏せた。無言でアシエルは頷く。
「神も酷なことをなさる。アシエル少尉たちが戦場で武器を向け合わなくとも良いことを、心から祈ろう」
「ありがとう、ございます」
言葉少なに近況を交換した後で、ゲオール大佐は「近いうち、大規模な作戦が始まる」と神妙な顔で告げた。
「ゲオール大佐がいらっしゃったのも、その関係ですか」
アシエルが問うと、ゲオール大佐は重々しく頷いた。
「テンペスタはよほどこの町の神殿が欲しいようでな、戦力を集結させ始めている。だが、易々とくれてやるわけにもいかん」
「ここを抜けると、王都まで近いですもんね」
「そういうことだ。アシエル少尉とまた同じ部隊で戦えることを心強く思う。……今夜くらいは、よく休め」
立ち上がりざま、撫でるというには力強すぎる手つきでぐりぐりとアシエルの頭をかきまわして、ゲオール大佐は背を向けた。さっきといい今といい、まるきり少年兵だった時代に戻ってしまったかのような扱いだ。
ぎこちなく笑った後で、天を仰ぐ。見上げた空は曇天で、星のひとつも見えやしない。冷たさを増した風に追い立てられるように、アシエルは兵舎へと足を向けた。
* * *
「総員傾注!」
司令官の号令を受け、一同が背筋を伸ばす。
「戦友諸君、戦いが始まる。この戦いは、祖国イーリスを守り、我らが幼き日よりともに過ごしてきた教えを守るための、節目となる戦いである。テンペスタは知っている。イーリスを砕かぬ限り、神の教えは途切れず、彼らの理念は疎まれ続けると。我々がテンペスタを止めることができれば、古き日より世界を導いてきた神の教えは守られる」
先日のゲオール大佐の言葉通り、テスの町にはこれまでになく多くのイーリス兵が集まっていた。真っ先にテンペスタからの侵攻を受け、住人のほぼすべてが外へと逃げざるを得ない状況にはなったものの、いまだテスの町はテンペスタの手には落ちていない。勝っても負けても、戦況は大きく変わるだろうと、誰もが予感していた。
「剣を取れ! 魔術を振るえ! イーリスはテンペスタの暴虐を許しはしない。侵略者たちの命と血を以って、この馬鹿げた戦を終わらせるのだ!」
呼びかけに答えるように、周囲から怒号のような咆哮が上がる。
得体の知れない実験動物に、テンペスタの見たこともない新兵器。若き女王がどれほど手腕を振るっても、二国間の技術差は覆えらない。それでも、皆が戦う覚悟を決めていた。
テンペスタは結界を手に入れたい。綻びに対処して、大陸を魔物と気候変動の脅威から守りたい。
イーリスは神の教えを守りたい。触れれば何が起こるか分からない結界に、不用意に人の手を加えてこれ以上事態を悪化させることを防ぎたい。
正しいのはこちらで、間違っているはそちらだと、両方が声高に主張する。
アシエルには、テンペスタとイーリスのどちらの主張が正しいのかなど分からない。どちらも正しいようにも聞こえるし、どちらも自分勝手なようにも思えるからだ。
いずれにせよ、それはアシエルが決めることではない。
ユリア女王には恩があるし、親しんだ文化を一方的に砕かれ、生まれ育った地を壊されることには耐えられない。アシエルが戦場に立つ理由は、それだけで十分だった。
腰に下げた剣を強く握り込む。
「神よ、お救いください」
自分が何から救ってほしいのかすら分からないまま、短く祈りを捧げ、アシエルは戦場に向かって足を踏み出した。




