52.知りたがりの皇帝⑨
「ディズジェーロは君に何も教えてくれなかったのかい。かわいそうに」
呆然と立ちつくすアシエルの背に、先ほどまでと一切変わらぬ優しげな声音で、グレゴリオが語り掛けてくる。
「今日――いや、もう昨日かな? 明け方に、テンペスタはイーリスに宣戦布告をしたよ。君の国は、私の国と正式に敵対関係になったということだ」
「……どうして」
アシエルが言えたのは、それだけだった。
声も上げずに泣く子どもが映る。赤子を抱えた母親が、背から撃たれて崩れ落ちる。神殿が燃えている。ただ日々を穏やかに過ごしていただけの人々が、命を刈り取られていく。
開戦間近だとは聞いていた。だからこそ女王がアシエルを送り込んだことも分かっていた。それでも、本当に戦が起こるなんて、どこかで信じていなかった。
止められなかった。間に合わなかった。なすべき仕事を放棄して、その間、己は何をしていただろう。このまま耳を塞がれ忘れてしまいたいと、あと少しだけこの時間を楽しんでいたいと、ディズジェーロの厚意に甘えて、思ってはならないことを思っていやしなかったか。
膝をつきたくなるような悔恨の念が、全身に重くのしかかる。
「必要だからだよ」
幼子に言い聞かせるように、グレゴリオは呟いた。
「結界はもう限界だ。強力な魔物だけを遠ざけるなんて歪な仕組み、手入れもせずに機能し続けるはずがない。けれどイーリスが邪魔をする限り、結界の根幹に手が出せない。……私には、私の国と民を守る義務がある。どれだけ言っても分かってくれないから、こうするしかないんだよ」
強く奥歯を噛んで、アシエルはグレゴリオを睨みつける。
「それも『必要な犠牲』だって?」
「その通り」
「イーリスを制圧して、それでどうするんだよ。結界が歪だからって壊すのか? 壊した瞬間、抑えきれなくなった魔物に殺されるだけだ」
「そのためのαで、そのための不死化施術だ。結界の術式を張り直すまでの間、一定時間でいいから確実に魔獣を制御するために開発したのだから。君のおかげで、ディズジェーロの調整も間に合いそうだ」
ディズジェーロ。
懺悔するように、アシエルは心の中で呼びかけた。散々借りを作っておきながら、結局ひとつとして返すことができなかった。アシエル自身の命を軽く見ることを怒ってくれたのに、その想いを自分は最悪の形で裏切ろうとしている。
(それでも)
袖に隠した短剣を強く握って、アシエルは全身に身体強化の魔術を巡らせた。開戦を止めることはできなかったけれど、ディズジェーロに降りかかるであろう凶行を止めることは、まだできる。
「テンペスタは神の教えを破るのか」
「なぜ守る必要がある? 君たちの言うところの『神』は非合理だ。神が万能であるなら、神が生み出したものだって絶対不変であるはずだ。ならばぜ結界が劣化する? なぜ結界への干渉を禁じる? 神の教えとやらが不完全であることの証左だろう。イーリスは間違っている」
淡々と言い募るグレゴリオには、言い知れぬ迫力があった。
グレゴリオの主張の正否など、アシエルには分からない。それでも、聞こえの良い目的を盾に他者の命を弄び、争いを起こすことが正しいとは、どう考えても思えなかった。
「間違ってるのはあんたと、この国だ」
視線が交差する。瞬きの間に短剣を引き抜いたアシエルは、グレゴリオの首を狙って、全力で剣を振る。
しかし刃は皇帝の首に届かない。アシエルの行動を予測していたかのように、間に割り込んできたアントーニ大佐の剣に弾かれた。
グレゴリオの前にはアントーニ大佐。アシエルの背後からは、残りの三人の護衛が切りかかってくる。挑発するように唇の端を上げながら、アシエルは練り上げた氷の魔術を部屋全体に開放した。
室内の温度が急激に下がり、床から天井に至るまで凍り付く。突如として床に発生し、足を捕らえた氷柱に、背後の敵が怯んだ一瞬を、アシエルは逃さない。
「遅ぇよ」
振り向きざまに、アシエルは一番近くの騎士の喉を掻き切った。哀れな護衛の体が血を吹き上げるより前に、鋭い氷柱に向かって横の敵を蹴り倒す。最後のひとりの剣をかわしながら、後頭部を掴んで全力で床へと叩きつければ、瞬く間に三人分の命が掻き消える。
しかし、息をつく間もない。背後から迫った気配に、アシエルは首を横へ倒した。刹那の差で頬と髪を切り裂いていったのは、突き出されたアントーニ大佐の剣だ。
「邪魔だ!」
怒声とともに、アシエルはアントーニ大佐へ切りかかる。
「君がね」
剣と剣とがぶつかり合う。打ち合うたびに、避けきれなかった斬撃がアシエルの肌を裂いていった。普段使っているわけでもない短剣では、間合いの分、どうしてもアシエルが押し負ける。舌打ちして、アシエルは大きく飛びのいた。
アントーニ大佐の手が光る。放たれる炎の魔術の気配に顔をしかめたアシエルは、懺悔とともに足元に落ちていた護衛の死体を片手で引き上げ、盾代わりに魔術を受けた。そのまま死体をアントーニ大佐に向かって投げつけると同時に、落ちていた長剣を拝借する。
標的はアントーニ大佐の奥にいた。
手ごわい相手と真っ向から戦う必要はない。皇帝さえ殺せれば、それでいいのだから。
体勢を崩したアントーニ大佐を蹴りつけて、アシエルは一直線に奥へと向かう。グレゴリオが目を見開くが、もう遅い。
「死ね!」
殺意を込めて言葉を吐きながら、剣を振る。肉を断つ感触が手に伝わる。剣を振り抜くと同時に、グレゴリオの首と体を繋ぐ骨と肉とが、音を立てて引き切れていった。
「貴様ぁ!」
「……うっ、ぐ!」
一歩遅れて、激昂の叫びとともに背を切り付けられた。
切り落とした皇帝の首がごとりと重い音を立てて地面に転がるときには、アシエルの体はアントーニ大佐の手で地面へと引き倒されていた。
ぜえぜえと荒い息を吐きながら、アシエルは口角を上げる。
ここで死のうが構わない。テンペスタ皇帝を殺すことさえできれば、アシエルの目的は果たされる。すぐには戦は止まらないだろうが、頭がすげ変われば混乱は避けられないはずだ。役目は果たせた。ディズジェーロに施される拷問じみた実験も、これできっと止まる――。
ぱち。ぱち。ぱち。
ほっと力を抜こうとしたその時、気の抜けた拍手の音が響いてきた。何の音かと視線を向けて、次の瞬間、アシエルは硬直した。
暗がりに倒れたはずの皇帝の体が、動いていた。
首のない死体が、両腕を胸の前に掲げて、わざとらしく手を叩いている。
そこでようやく、アシエルは違和感に気が付いた。
血が流れていない。
確かに首を切り落としたというのに、護衛たちと違い、グレゴリオの体からは、血の一滴さえ滲んでいなかった。
「お見事!」
血生臭い場所には不似合いな、朗らかな声が辺りに響く。
「でも、残念」
手を叩くのをやめた首無しの体が、転がっていた首を拾いあげ、見せつけるように手のひらの上に乗せる。悪夢だとしても悪趣味に過ぎるほど、不気味な光景だった。
「私はこれでは死なないんだ。せっかく開発した技術を、自分に使わない理由はないだろう?」
グレゴリオの首が、けたけたと笑う。
鳥肌を立てながらも、アシエルは反射的に光の魔術を組んでいた。けれど、殺傷力の高い光の魔術は、グレゴリオが指を振ると同時に、魔法陣ごと霧散していく。
ディズジェーロに魔術を消された時と同じ感覚。魔力の移動を阻害されているのだ。
「光は嫌いなんだ。やめてくれるかい」
「くそが……!」
アシエルは血を吐くように毒づいた。
あと少しだった。あと一秒早ければ、それで全部終わるはずだった。
よいしょ、と気の抜ける掛け声とともに、グレゴリオは自らの首を胴体に乗せた。今しがた剣で切ったのが嘘のように、傷跡ひとつ残らず、首と体が繋がっていく。
「やっぱり、サプライズは成功したときが一番楽しいね。三人も殺されてしまうとは思わなかったけど……命掛けの相手を出し抜いてやったときの快感は、研究とは別方面でクセになる。勝ち誇った顔が絶望に染まる瞬間は、結構好きなんだ」
人の良さそうな表情で、グレゴリオは目元だけを酷薄に歪ませる。
「国を守れると思ったかい? これでディズジェーロを助けられると期待した? 命をかけて敵を殺そうとする勇者。なんとも泣ける英雄譚じゃないか。実際は無駄に命を捨てに来ただけだったけどね。……争いを厭う者ほど、物騒な手段に出るのはなんでなんだろうねえ。芸がないな」
アシエルを見下ろしながら、独り言のようにグレゴリオは喋り続ける。
「しかし、やっぱり親子というものは似るんだね」
「な、に」
「ファヴィオラも私を殺そうとした。君の父親は、君たちを逃がすために死んだんだよ。『賢者の石』を持ち出されたことは痛かったけれど、君がディズジェーロのガイドとして適していたことを考えれば、あのときファヴィオラを殺し損ねてよかったんだろうね」
話している間にも、いつの間に応援を呼んだのか、あるいはあらかじめ待機させていたのか、扉から続々と兵士たちが駆けつけてくる。
「さて、駄賃がわりの話はもう十分だろう」
身を屈めたグレゴリオは、アシエルの顎を掴むと、にこりと微笑みかけてきた。
「ディズジェーロをαとして使うために、君には協力してもらいたいんだ、アシエルくん。ただ、君はそのまま生かすと面倒そうだから、少しいらない部分をはぎ取らせてもらうよ。脳さえあれば、調律能力は残るからね」
その言葉を聞いた途端、アシエルの全身に怖気が走った。
緑色の溶液の中で、無数の管に繋がれていたいくつもの脳を思い出す。あれもかつては人間だったのだろうか。自分も、ああなってしまうのか。
「放せ……!」
「ああ、暴れないでほしい。困ったな」
駄々っ子を見るような目でアシエルを見たグレゴリオは、顔色ひとつ変えずに「先に四肢を取ってしまおうか」と言い放った。
「怯えることはない。痛くはしないよ。脳に影響が残ると困るからね」
首筋にちくりとした痛みを感じ、薬品を打ち込まれる。痺れとともに、次第に薄くなっていく体の感覚に、アシエルはざっと青ざめた。
がたがたと歯の根が震えていた。元々五体満足で帰れるとは思っていない。死ぬつもりで来た。だというのに、いざ拷問じみた真似をされるとなると恐怖を感じるなど、とんだ臆病者ではないか。
剣を抜く音が響く。肩に触れる刃の感触に、アシエルは息を引きつらせた。恐怖に耐えきれず、目を閉じる。
次の瞬間、ごとりと重い音が聞こえてきた。
「え」
目を開くと、真横に人の首が転がっていた。周囲に竜巻のような風が吹き荒れ、ぼとり、ぼとりと出来の悪い玩具のように、周囲の兵士の首が次々と落ちていく。
悪夢のような光景だった。わけもわからずアシエルは身を竦める。
「広域魔術だ!」
険しい顔をしたアントーニ大佐が、警告するように声を張る。
「全員伏せろ! すぐに陛下を――ぐぅっ!」
言い切ることもできぬまま、轟音とともにアントーニ大佐がアシエルの上から吹き飛ばされていく。アントーニ大佐の行方を確認するより先に、肩が抜けそうなほどの強い力で腕を掴まれ、アシエルは背後へと投げ飛ばされていた。
見覚えのある背中が、アシエルを庇うように、皇帝の前に立っていた。ふらつき、肩で息をしながら、威嚇するように前傾姿勢を取っている。
つい先刻、意識を奪って置いてきたばかりの男だ。立つことさえ辛いはずなのに。
「ディー……?」
ディズジェーロは振り向かない。
白い光がアシエルの全身を包み込む。光り輝く魔法陣が、床に倒れたアシエルの体ごと飲み込むように展開されていた。
――転移術式。
短距離で、印をつけたところにしか転移できないアシエルとは違って、自在に行き先を指定できる、膨大な魔力が込められた本物の転移術式だ。
ディズジェーロはアシエルだけを逃がす気だ。護衛を殺し、皇帝を殺そうとしたアシエルを逃がせばディズジェーロ自身がどうなるか、分からないはずもないのに。
「ディズジェーロ! 止めろ!」
手を伸ばしても届かない。抗うことも止めることもできないまま、なすすべもなくアシエルは光に飲み込まれていった。
光の消えた暗い室内に、おどけた声が落ちる。
「なるほど、なるほど? 困った子だね、ディズジェーロ。でもね、私に従う以外の選択肢を、賢いお前は取らないだろう?」
膝をついたディズジェーロを見下ろして、グレゴリオは笑う。
「イーリスの女王に尻尾を振る犬を、手に入れたいかい?」
ぴくりとディズジェーロが肩を揺らした。
「――できるよ。大切なアシエルくんを、みすみす戦死させたくはないだろう? 閉じ込めても逃げ出す犬なら、主人を消してしまえばいいのさ。イーリスを制圧しよう。戦場で捕虜にしたっていい。お前の力があれば、すぐに済む」
血臭漂う部屋の中央で、グレゴリオは冷たく微笑んだ。
「神を妄信する愚か者たちの目を、覚まさせてやろう。かわいい私のα」




