50.知りたがりの皇帝⑦
翌日、仕事を終えて部屋に帰ってきたディズジェーロの顔色は、世辞にもいいとは言いがたかった。昨日の実験の影響がまだ、抜けきっていないらしい。
「おかえり、ディー」
アシエルの言葉を受けて、戸惑うように目を伏せたディズジェーロは、ほとんど聞こえないような音量で「ただいま」と呟いた。怪訝そうにアシエルを見るだけだった初日との変化に胸が痛むのは、ひとえにこれからアシエルがディズジェーロに対してしようとしていることへの罪悪感からだろう。
苦労の末、ようやく九割方を読み終えた本を、アシエルは丁寧に閉じた。筆記具と並べるようにして、寝台脇の机に置いておく。ディズジェーロが気に入っていると言った結末を知りたかったけれど、あと少しのところで読み切れなかったことを、残念に思う。
料理の香りを嗅ぎながら軽口を叩く。
ディズジェーロが用意してくれた夕食に舌鼓を打ちながら、ぽつりぽつりと話をする。
交代で浴室を使い、すっかりと肌に馴染んだ裾の長いローブを着る。
眠る前のひと時を隣で過ごす。
いつも通りに振る舞えているはずだ。取り繕うことだけは、昔から得意だったから。
(いつも通り、ねえ)
ディズジェーロの部屋に閉じ込められ、ふたりで過ごした日数は、短くもないけれど、長くもない。それでも、一連のやり取りをいつも通りと感じてしまう程度には、密度の高い日々を過ごしたように思う。ひとりで生きてひとりで死ぬと思っていた身には、過ぎた贅沢を与えられたものだ。
「ディー」
寝台の端に腰掛けているディズジェーロに、アシエルはそっと声を掛ける。振り返ったディズジェーロの目を見つめ、頬に触れれば、当たり前のように首の後ろに手が回ってきた。
唇を重ねる。一度目は軽く、二度目は深く。
ディズジェーロの足の上に乗り上げながら、両腕を回す。応えるように抱擁を返されて、わけもなく幸せな気持ちになった。絡めた舌を離して目を開いた瞬間、赤らんだ目元と、熱に浮かされたような瞳がアシエルの視界に飛び込んでくる。
「ディーの目はきれいだな。この色、好きだ」
真っ赤な瞳は、暗い夜でもよく見える。肌に触れるか触れないかの淡い口づけを目元に落とせば、ぴくりと瞼を引きつらせながら、困惑するようにディズジェーロが目を伏せた。
「おまけに、とびきりの美人だ。でも、調律した後はいつもより気が抜けて、ゆるゆるになるんだぜ。知ってるか?」
「……知らない」
「じゃあ、俺の役得だ」
額に口付けながら、ディズジェーロのローブに手をかける。いたたまれないとでも言うように視線をさまよわせたディズジェーロの唇に、アシエルはまたひとつ触れるだけのキスをした。
「なんだ、いきなり」
「なんでもいいだろ。そういう気分なんだよ」
制止されないのをいいことに、アシエルはディズジェーロのローブを頭から引き抜き、次いで自分のローブを脱ぎ捨てた。ディズジェーロの乱れた髪を手ぐしで梳きながら、首筋に唇を落とし、痕が残るまで吸い上げる。
「体も好きだぜ? いつも気持ちいいもんな。相性がいいのか、ディーがうまいだけなのか知らねえけど」
むき出しになった肌に触れながら、アシエルは笑い交じりに囁いた。ディズジェーロが身じろぎする。頬へと伸びてきた手を取ったアシエルは、騎士がそうするように、ディズジェーロの手の甲へと口付けを落とした。
「手も好きだ。ひんやりしてて、気持ちいい」
「……どうかしたのか、アシエル」
困惑が前面に押し出されたディズジェーロの顔を見て、吹き出すようにアシエルは笑い出す
「だから、そういう気分なんだって言っただろ。どれも本心だ。嘘じゃない」
膝を付いてディズジェーロの腿の上に乗りあがり、ゆるりと両腕を背に回す。顎を肩に乗せてわざと体重を掛ければ、「重い」という言葉が聞こえてきた。けれども言葉とは裏腹に、背に回されたディズジェーロの腕は、優しくアシエルを抱き寄せてくれる。
ぴたりと合わさった肌を通じて、ゆっくりと精神を繋いだ。抵抗のかけらもなく入り込めたディズジェーロの心の海は、昨日整えきれなかった乱れこそ残っているが、穏やかで心地良い。ゆっくりと調律しながら、アシエルは睦言のように囁いた。
「ディーの心も、きれいだよ。お前にも見せてやりたいくらい、きれいな海だ」
「ドブのような気配だと言っていなかったか」
「前はな。今は静かなもんだよ。それでも、ディーの気配だけは、整ってても分かるけどな」
乱れがひどいセンチネルの気配ならいざ知れず、普通なら他のセンチネルの気配を遠くから感じることなどないというのに、ディズジェーロだけは別だった。
「……私にも、分かる。アシエルの気配は、特に強く感じられる」
「ふうん。なんでだろうな。俺、なんかしたか? こんなに何回も深く繋いだことなんて、ディー以外にはないから、分かんねえ」
呟けば、ディズジェーロの腕の力が強まった。調律の消耗で息を切らせるアシエルの背を、体温の低いディズジェーロの手がゆっくりと撫でていく。心地よさに目を閉じながら、アシエルはディズジェーロの精神に深く潜り込んでいた意識を浮上させていった。
ゆるく精神を繋いだまま、アシエルもディズジェーロの体へ手を伸ばす。
くすぐったくて、奇妙な幸福感があって、けれど少しもどかしい。ゆるゆると穏やかに互いを高め合う前戯は、何度か体に触れ合った中でも、間違いなくもっとも甘いものだった。
体を繋げるその瞬間も、ふたりは揃って上擦った息を吐いていた。
「気持ちいい、な。ディー」
「ああ、気持ちがいい。アシエル」
「……ディーとするの、好きだよ。俺」
あたたかい。気持ちがいい。安心する。
ディズジェーロに身を委ねながら、いつしかアシエルは涙を滲ませていた。
涙腺が緩くなったな、と思う。
最後の一瞬までディズジェーロの温度を味わい尽くして、アシエルは最もディズジェーロが無防備になる瞬間を見逃さず、一気に心の繋がりを深めた。ディズジェーロのセンチネルとしての感覚を瞬時に掌握し、すべてを常人と変わらぬ程度まで抑え込む。
「ぁ……?」
強く抱き合ったディズジェーロの心臓が、動揺に震えるのが分かった。
一秒にも満たない、わずかな隙だ。けれどアシエルにとっては十分すぎるほどの時間だった。
手の届く位置に置いておいた筆記具型の注射剤をわしづかんだアシエルは、素早くそれをディズジェーロの上腕に突きたてる。
「ア、シエル……?」
「……ごめんな」
呆然とこちらを見るディズジェーロの腕をまとめて押さえる。弱々しい抵抗が止まるまで、じっと目を合わせたまま。
「一緒にいられて楽しかった。俺が欲しいって言ってくれて、本当に嬉しかったよ。ありがとうな、ディズジェーロ。……でも、さよならだ」
ディズジェーロの全身から力が抜けたことを確認したアシエルは、そっとディズジェーロの上から身を起こす。
ローブを着こみ、初日に取り上げられた短剣を、机の中から探り出す。うつろな目を向けるディズジェーロの瞼を閉じさせながら、「悪いな」とアシエルは囁いた。
「俺は行く。俺がしくじったら、お前、逃げろよ。ディーの魔術があれば、どこにだって行ける。あんなクソ皇帝の言いなりになんてなることないんだ」
名残惜しむようにディズジェーロを見つめた後、アシエルはそっと身を屈めた。汗で湿った前髪をよけて、慈しみと祈りを込めて口付けを落とす。
「じゃあな、ディズジェーロ。生きてたら、また会おうな」
部屋を閉ざしていた結界が砕け、空気に溶けて消えていく。名残惜しさを振り切って、アシエルはひとり、塔へ向かって踏み出した。




