48.知りたがりの皇帝⑤
皇帝からの使いが来たのは、予告通り、実験の二日後のことだった。すっかりお決まりになった本の解読をこなしていたときのことだ。
――勇敢な青年は魔を導く者の手を取り、語り掛けました。『もうこんなことはやめよう。一緒に帰ろう。果実なんて、どうだっていいじゃないか』
「勇者と魔王は友達だったらしいぞ、ディー」
「そうだな」
「帰ろうって言ってるけど、こいつらの帰る場所、無茶苦茶になってなかったか? この話、めでたしめでたしで終わるんだよな? 俺、悲しい話は嫌だぞ」
「教えない」
笑い交じりに言うディズジェーロの声が聞いたこともないほど柔らかかったものだから、もっと話していたかったのに。
もしかすれば、あれがふたりでともに過ごせる最後の穏やかな時間だったのかもしれない。
肺の奥から吐き出された最後の空気が、こぽこぽと小さな泡となって昇っていく。濃い緑色の液体は、中に浸かると余計に緑が深く見える。苦しさを感じたのは初めのうちだけで、全身を完全に緑の液体に浸した今、違和感らしい違和感もなくなっていた。
ブルーノ曰く、今日の実験はセンチネルとガイド、同時に負荷をかけて反応を見るというものらしい。命の危険はないというが、どこまで本当か疑わしいものだ。
二日前に皇帝へ掴みかかった態度を危険視されてのことか、今日のアシエルはディズジェーロの部屋を出るなり四方を兵に囲まれ、塔まで無言で護送されてきた。仕事の一環だとでも言うつもりなのか、ディズジェーロは相変わらず従順に実験に協力する姿勢を見せている。気に入らないが、本人に逆らう気がないのならば、大本をどうにかするしかない。
隣に並べられたガラスビーカーを見る。アシエルよりも先に薬液へと入れられたディズジェーロは、ほとんど意識もないようなうつろな目をしていた。明らかに、アシエルとは違う薬剤を投与されている。嫌な予感に、ざわりと心が騒いだ。
「では、始めようか。一昨日の実験でαの起動には成功したが、知っての通り、我々にはもう時間がない。効果範囲や命令強度も気になるところではあるが、先に耐久試験を終わらせよう」
ガラス越しにくぐもった声が聞こえる。柔和な笑みを浮かべた片眼鏡の男――グレゴリオは、研究員に向けて合図するように片手を上げた。
「安全域から始めようか。ガイドに影響が出るかどうかも確認しておきたいからね」
ざわりと空気が揺れる。アシエルが鳥肌を立てると同時に、ディズジェーロが仰け反った。ぼんやりと遠くを見上げるような顔をしているけれど、アシエルのガイドとしての感覚は、ディズジェーロの声なき悲鳴を感じ取る。
ディズジェーロの名を呼ぼうとしても、声が出なかった。喉は震えているのに、緑の液体が振動のすべてを飲み込んでしまうのだ。
手元の器具に視線を落としたグレゴリオは、落胆の表情を浮かべた。
「ガイドは反応しないか。昨日のあれは、単純に彼の性格だったのかな? ……一段階、負荷を上げてくれ」
グレゴリオが指示を出した数秒後に、アシエルはがつんと頭を殴られるような衝撃に襲われた。グレゴリオの言う負荷が何であるのか、アシエルには分からない。けれど、センチネルを人為的に暴走に近づける何かであることは確かだ。
「――っ、ぁ――!」
首輪に手をかけたディズジェーロが、顔を歪めて全身を痙攣させている。一昨日と同じであるならば、心身をぐちゃぐちゃに蹂躙される感覚に襲われているはずだ。
研究室内のガラスビーカーを見渡して、満足げにグレゴリオが頷く。
「試作品と同じ傾向だ。やはり負荷を上げるほど、周囲の魔獣への影響力も増すんだね。まだ耐えられるかな? もう一段階、進めてくれ」
「やめろ!」
叫んでも、声は届かない。再び空気が揺れた直後、意識が飛びそうなほどの衝撃を感じた。ディズジェーロが目を見開いて苦悶する。ディズジェーロの気配の歪みが大きくなるにつれ、守らなければという焦燥感は、耐えがたいほど大きくなっていった。
「ディー!」
「素晴らしいな。ガイドを得るだけで、こうもセンチネルの耐久性は変わるものなのだね。……最終レベルへ。限界値を確認しておこう」
「……っ、ぐ……!」
重力がここだけ倍になったかのような圧迫感に、息が止まりそうになった。
「あぁあああ!」
ディズジェーロが悲鳴を上げていた。もはやアシエルには、それが肉声からの叫びなのか、気配を通じて伝わってくる悲鳴なのかさえ判別できない。急速にディズジェーロの気配が乱れ、荒れていく。
「くそっ、くそくそくそ! やめろよ! やめろっつってんだろうが!」
アシエルの声が聞こえたかのように、頭を抱えたディズジェーロが、うつろな目をこちらに向けた。その暗さに、アシエルは心の底から恐怖する。
――あのままでは狂う。
「出せ! あいつを殺す気か! てめえらだってそうしたくはないだろう!」
グレゴリオに向かって、アシエルは必死で叫んだ。けれどグレゴリオはディズジェーロを見つめるばかりで、アシエルには目もくれない。
ならばビーカーを壊そうにも、封魔の結界で覆われたこの部屋では、ろくに魔術を紡ぐこともできない。ならばと、アシエルは両手をべたりとガラスビーカーに張り付けた。
「ディー……ディズジェーロ! 手を……!」
アシエルの声に応えるように、ゆらりとディズジェーロの手が動く。ガラス越しに合わせられた手を見て、アシエルは必死で意識を集中した。通常、肌を合わせなければ調律はできない。それでもこれだけ近くにいるならば、たとえ細くとも力を繋ぐことはできるはずだ。
糸をたぐりよせるように薄く力を繋いだ瞬間、ディズジェーロの瞳に一瞬だけ、光が戻る。しかしそれも長くは続かなかった。
「君たちは面白いねえ。物を隔てて調律する例など、見たことがないよ」
グレゴリオが呟くと同時に、唐突に薬液の水位が減った。がくりとアシエルの体が地に落ちていく。
「でも、少し待ってくれるかい。ディズジェーロ単体での、純粋な耐久性を見たいんだ」
「やめろ!」
空気が入り込んだおかげか、アシエルの声は遮られることなくガラスビーカーの中で反響した。
「あのままじゃあいつが死ぬ! 分かんねえのかよ!」
「壊れても死なせない。大丈夫だよ」
気もそぞろに返された言葉の酷薄さに、アシエルは愕然とした。ディズジェーロは物ではない。精神が壊れたら、二度と元通りにはならないのに。
拳を握ったアシエルは、なりふり構わずガラスビーカーを殴りつけた。爪が割れ、手の節が腫れ上がっても、抵抗をやめなかった。けれど、アシエルが外に出るより早く、のたうつように緑の溶液の中でもがいていたディズジェーロが、崩れ落ちるように動きを止める。
「五分。まあ、許容範囲か」
グレゴリオは、難しい顔をしながら手元に何かを書き留めた。
「ううん……あとはその、君たちの過剰反応が気にかかるな。ガイドとセンチネルなら、一般的にはガイドの側は精神的に安定しているはずなのに、君でそれだからね。君個人の性質なのか、それとも君たちの反応が殊更に強いのか、もう少し試させてくれるかな」
言葉こそ問いかけの形をとっているけれど、その実グレゴリオは、アシエルたちの同意など求めていない。実験動物を見るような温度のない目を見れば、すぐに分かる。
始めてくれ、と短い命令が響く。次の瞬間、背に何かがぶつかるような衝撃を感じて、アシエルは身を丸めた。
「あ……?」
腹から刃が生えていた。何が起きたのかも分からぬまま、猛烈な熱さと痛みに襲われる。叫ぶ間もなく刃を引き抜かれ、緑の薬液の中に、勢いよく血が立ち上った。
「あ……っぐ……!」
「すまないね。センチネルと違ってガイドは感応能力が低いから、原始的な方法になるけど……死なない程度に苦痛を与えさせてもらうよ」
「……っ、ぁ……! がっ!」
場所を変え、向きを変え、腹に、胸に、腕に、足に、いくつもの刃が刺さっては抜けていく。鎮痛剤など、多分、投与されていないだろう。全身を襲う鋭い痛みに、アシエルはなすすべもなく呻き声を上げた。
激痛に意識が朦朧としかけたその時、ぴしり、と嫌な音が響いた。何の音かと考えるより先に、痛みがみるみる消えていく。
優しい緑色の魔力光が、全身を包み込んでいた。何度もかけてもらったことがある、治癒魔術の光だ。
「ディー……?」
封魔の結界が弾け飛ぶ。ぴし、ぴし、と何かが割れるような甲高い音が、あちこちから聞こえてきた。異常を知らせる警報音が、実験室全体に響き出す。
辺りから聞こえてくるのがガラスが割れる音だと気づいたときには、アシエルが入れられていたガラスビーカーは、弾けるように砕け散っていた。転がり落ちるようにアシエルは外に出る。
高い位置にあるガラスビーカーの中で、先程まで項垂れていたはずのディズジェーロが、顔を上げていた。ひどく冷たい顔をして、ディズジェーロは何かを命じるように指を振る。壊れたガラスビーカーから解放された魔獣たちが、瞬時に近くの研究員へと襲いかかった。
「いやあああ!」
「衛兵を! あの魔獣どもを早くなんとかしてくれ!」
実験槽を抜け出た魔獣はたったの五体だった。しかし、種も大きさも異なるはずのそれらは、連携し、統率の取れた動きで警備兵を相手取る。 阿鼻叫喚の中で、ゆっくりとディズジェーロの唇の端が上がっていく様子を、アシエルは呆然と見ていた。治癒の魔術に体を癒されながら、そのあたたかさとは真逆の凍り付くような表情を浮かべる男を、見上げることしかできなかった。
「――素晴らしい!」
場違いに明るい声とともに、拍手が響く。人が死んでいることなど気にも止めていない様子で、興奮したようにグレゴリオはまくしたてる。
「ここまでの成果が得られるなんて、思ってもみなかった! 魔獣どもを操っている。それも、明らかに自分の意思で。期待以上だ、ディズジェーロ」
声に反応するように、ディズジェーロが視線を向ける。その視線の温度のなさに、ぞっとした。正気ではない。乱れ切った気配は、もはや暴走しているとしか思えない。
「ディー! やめろ、もういい!」
もつれる足で立ち上がり、実験槽に縋り付くアシエルに、ディズジェーロは柔らかな微笑みを向けた。直後に笑みは、酷薄に形を変えていく。ついと指を持ち上げたディズジェーロが、グレゴリオを指さす。一斉に標的を変えた魔獣たちは、彼らの王の命令通りに、グレゴリオへと飛び掛かる。
しかし爪と牙が皇帝の体を切り裂く前に、意思なき魔獣たちは、白い鎧の騎士が率いる兵士たちによって、瞬く間に切り伏せられてしまった。皇帝を守るように立ちはだかった白い騎士は、気障な仕草で髪をかき上げると、痛ましげにガラスビーカーの中のディズジェーロを見上げる。
「やあ、ベイグラント准将。いつから君は、本当に魔王になってしまったんだい」
剣を振って血切りをしたアントーニ大佐が、グレゴリオを気づかわしげに振り返る。
「お怪我はございませんか、陛下」
「おかげさまでね。ありがとう、アレッサンドロ。ディズジェーロはいつも、私の予想を裏切ってくれるよ」
「それはようございました。ですが陛下、さすがにこの量の魔獣すべてが解放されてしまうと、死人が出ます」
「分かっている。――鎮静剤を投与してくれ」
グレゴリオの指示が飛んだ直後、目を見開いたディズジェーロは、やがてうつろな目をして、人形のように項垂れた。
血とガラス片で散らかった室内に、警報音がやかましく響く。逃げまどい、立ち尽くしていた研究員たちは、こちらの様子を伺いつつも、警報が落ち着いたことをきっかけに、ゆっくりと業務に戻り始めた。
粛々と片付けをする研究員たちを他所に、のんびりとアシエルの前まで歩いてきたグレゴリオは、当たり前のように手を差し出す。その手を苦々しく睨みつけ、アシエルはひとりで立ち上がった。苦笑したグレゴリオは、ふとアシエルの首元を見つめて、目を見張る。
「その首飾りは――」
首元を隠しながら、アシエルは表情を強ばらせる。朦朧としているとはいえ、ディズジェーロは意識を失っていないはずだ。出がけに掛けてくれた姿隠しの術は機能しているはずなのに、なぜグレゴリオの目に首飾りが映るのか。




