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47.知りたがりの皇帝④

 宿舎にしては豪華だけれど、貴族の将官の私室としては手狭な部屋に戻るなり、ディズジェーロはアシエルの顔の前で手を振った。

 姿変えの魔術が解けていく。光が消えると同時に、疲れたようにディズジェーロは息を吐いた。持続性の魔術は、掛けている間ずっと、術者の魔力を奪うのだ。思い至らなかった自分に舌打ちしながら、アシエルはぼそりと吐き捨てた。

 

「こんなもの、とっとと解いておけばよかっただろうに」

「私の勝手だ」

 

 ディズジェーロを背負ったまま、アシエルは薄暗い部屋の中を進んでいく。寝台に寝かせようと足を向けたが、それを制するようにディズジェーロは耳元でアシエルに命じた。

 

「浴室に行け。寝台が汚れる」

「へいへい」

 

 勝手知ったる浴室の中で、アシエルは慎重にディズジェーロを壁に寄りかからせるようにして座らせた。汚れた服を脱がせようと手を掛けると、薄くディズジェーロが目を開く。

 

「……甲斐甲斐しいことだ。放っておけ。自分でやる」

「お前だって前に俺に似たようなことしただろうが。お返しだよ」

 

 抵抗ははじめの一言だけで、汚れた服を脱がせる間も、備え付けの魔道具で生み出された湯でディズジェーロの体を清めていく間も、ディズジェーロは目を閉じて黙り込んだままだった。血の気の失せた顔が痛々しい。

 

「いつもああなのか」


 ぽつりとアシエルが尋ねると、気だるそうにディズジェーロは肯定した。

 

「程度は多少変わるが、概ねそうだ」

「なんで好きにさせてる」

「自分の希少性は理解している。協力しているだけだ。大した負担でもない」

「『協力』ね」

 

 ディズジェーロ自身でさえ、あの実験をおかしいと思っていないらしい。おさまらない苛立ちを燻らせつつ、自身の汚れたローブを脱ぎ捨てたアシエルは、相変わらずぐったりとしているディズジェーロの膝と首の下に腕を回して、一息に抱き上げた。自分よりも体格のいい相手を抱き上げるのは負担も大きかったけれど、こうして運ぶことができるなら、鍛えておいてよかったと心底思う。

 

「……っ、おろせ。いい加減にしろ、アシエル」

「なんで。歩けないんだろ」

「そういうことを言っているのではない」

「吐きそうなのか? なら便所に行くけど」

「違う」

 

 疲れたようにディズジェーロが黙り込んだのをいいことに、アシエルはそのままディズジェーロの体を寝台まで運んだ。隣に浅く腰掛けたアシエルは、冷や汗で湿ったディズジェーロの手を、両手で包み込むように握り込む。困惑したように見上げてくるディズジェーロに「調律」と短く告げて、アシエルは目を閉じた。

 

「そのまま寝てていい。少し時間がかかるから」


 合わせた肌を通じて、ディズジェーロの精神に干渉する。全身を包む暗さと乱れが不愉快だった。ようやく元の状態に近いところまで整えていたというのに、ひどく乱されて荒れた海が、痛ましかった。自分の大切な場所に無遠慮に踏み入られた挙句、汚い足で闊歩されたような気分だ。


(何しやがった、あいつら)


 ディズジェーロの精神は、能力を酷使したときとは違う荒れ方をしていた。潜れる場所まで潜り、全身を海に漂わせれば、手繰り寄せるまでもなく感覚が伝わってくる。

 頭が痛くて、気分が悪い。目も耳も肌も鼻も舌も、すべての感覚が制御を外れかけていた。歩くことさえままならず、身をすくめていた理由がよく分かる。つんと鼻をつく薬品の香りは、アシエルから漂うものだろうか。ディズジェーロが浴室に行きたがったのは、吐き気を誘う匂いのせいもあったのかもしれない。洗い流してくれば良かったと後悔する。

 アシエル自身の体を起点にして、濁った水をろ過していく。先ほど同様に、以前よりも格段に効率よく調律できることに違和感をおぼえはしたが、深くは考えなかった。苦痛を取り除くのは、早ければ早いほど良い。

 調律が進むにつれて、ディズジェーロの呼吸は深く緩やかに変わっていった。ほっと息を吐きつつ、アシエルは全身を包む精神の海を堪能する。

 穏やかで、静かで、透き通った青い海だ。こびりついていた陰も、身を砕きそうなほどの渦も、今ならばすべて受け止めて、整えてやることができる。理由は分からないけれど、確信があった。

 陰の最後の一滴まで飲み込んで、ようやく見えた海の美しさに、アシエルはくしゃりと顔を歪めた。


(きれいだ)

 

 水底から手を伸ばす。遠くに星空が浮かぶ海は冷たいけれど、奥に沈むほどあたたかい。達成感と幸福感に、泣きたい気持ちと笑いたい気持ちが同時に湧き上がってくる。

 ぽたぽたと流れ落ちる汗が、握り合った互いの手を濡らしていく。それを拭う間もなく、ぐいと手を引かれて、アシエルはディズジェーロの腕の中に閉じ込められた。とろりと緩んだ、ひどく無防備な顔で、ディズジェーロは微笑んでいた。

 どきりと不自然に跳ねた脈を認識する前に、ディズジェーロが呟いた言葉に、アシエルは呼吸を止めた

 

「気分が良い。お前が整えてくれるのならば、研究に協力するのも悪いものではないな」

「……悪いに決まってるだろうが」

「アシエル?」

 

 ディズジェーロの体を両手で押しのけ、正面から睨みつけるように目を合わせる。

 

「お前、本当に分かってんのか。暴走(ゾーンアウト)寸前だった。殺されかけてたんだぞ。あんな……あんな奴らに……!」

 

 苦しむセンチネルたちの間で平然と笑い合っていた研究員たちの、嬉しそうな笑顔を思い出す。あの場所で、ディズジェーロはただの実験動物でしかなかった。誰も彼もが、ディズジェーロに苦痛を与えることを、躊躇いさえしていなかった。

 

「何に怒っている?」


 気の抜けた表情のまま、不思議そうに呟くディズジェーロにさえ、腹が立った。

 

「何って……! あいつらお前のこと、人間だと思ってないんだぞ。こんなに苦しめておいて、殺しかけておいて、気にするのはデータだなんだって――くそ!」

 

 言っている最中で目の奥が焼けるような怒りがよみがえってきて、アシエルは音が鳴るほど強く歯を噛み締めた。

 

「だから何だ。なぜお前が怒る?」

「お前が怒らないから怒ってるんだよ、この馬鹿!」

 

 大声を出せばディズジェーロの頭に響く。必死で声量を抑えた結果、泣く寸前のように情けなく掠れた声が出た。実際、アシエルはわけもわからず泣きたい気分だった。

 

「お前、何なんだよ! 前だって胸糞悪い貴族に育ちがどうだの血がどうだのって黙って言わせておくし、あんな首輪に繋がれても抵抗ひとつしやしねえ。挙句の果てに、大したことはされていないだって? 馬鹿言うのも大概にしろ! なんで好きにさせるんだ!」

「生きる対価と思えば、悪くはないだろう? 別に、気にするようなことでもない。慣れている」

「……っ、なんで」

 

 じわりと涙が浮かんだ。情けない顔を見られたくなくて、ディズジェーロの肩に額を寄せる。息ができなくなるほどの怒りで、胸が引きつれるように痛んだ。

 同情からではない。良心なんてものでもない。ただの、子どもじみた怒りだ。自分が大切に思っているものを石ころのように扱われることが、苦しくて、腹立たしくて、悲しかった。

 ディズジェーロはアシエルの恩人で、放っておけないセンチネルで、友人で、そしてどこか自分と似た同類だ。言葉にできない、アシエルにとっての何かだ。

 貴族も研究員も皇帝もディズジェーロ本人も、気に入らない。悔しくて悲しくて、けれど喚くことしかしない己も、気に喰わなかった。

 

「お前、俺のこと怒ったくせに。俺が自分の命を軽く見てるって、怒ったくせに……! 怒るなら同じこと、してんじゃねえよ……!」

「アシエル」

   

 ディズジェーロの手が、アシエルの頭を撫でた。こらえきれなかった涙が、一筋流れ落ちていく。

 

「ディーは、剣だって魔術だって強いだろうが。頭だって良い。貴族のことなんて知らねえけど、ディーならなんとかなるんじゃねえの? あんなことされてるから、ずっと死にそうな気配してたんじゃないのか。このままじゃ近いうちお前、あいつに――皇帝に殺されるぞ。本当に分かってんのかよ!」


 死にかけたセンチネルの気配こそまとってはいたけれど、いつだってディズジェーロは強かった。ハリボテのアシエルとは違う、本物の強さを持っていた。

――だというのに。

 首輪をつけられ、力なく薬液の中に沈められていたディズジェーロの姿を思い出す。

 あれではまるで、アシエルと同じだ。ただ環境に振り回され、上の意向に粛々と従う自分と何も変わらない。

 

「……っく、死んだらお前、嘘つきだからな。俺が欲しいって言ったくせに。勝手に死んだら、俺と同じで、俺よりひどい嘘つきだ。一生恨んでやる」

 

 嗚咽が混じる。何を言っているのか、自分でも分かっていなかった。まるきり癇癪を起こした子どものように、アシエルは理屈にならない理屈を叩きつけた。

 

「くそディズジェーロ……!」

 

 罵倒混じりに名を呼ぶと同時に、ディズジェーロはそっとアシエルの顔を上向かせた。薄暗いとはいえ、ディズジェーロの目には涙と汗でぐずぐずになったアシエルの顔は丸見えだろう。顔を背けようとしたのに、ディズジェーロはアシエルを離してはくれない。

 眩しいものでも見るように目を細めて、ディズジェーロは音もなくアシエルに唇を寄せた。

 

「今なら、死んでもいいかもしれないな」


 触れ合わせるだけのキスをした後で、ディズジェーロはふわふわとした声音で呟いた。

 

「は?」

「死ねば苦痛を感じなくなる。他人の醜い欲からも、くだらない陰謀からも、解放される。ならば死ぬのもそう悪くはないと思っていたが……お前がそうして泣いてくれるのならば、悪いどころか、魅力的にも思える」

「……おい、俺の言ったこと聞いてたか? 死ぬなっつってんだよ」

「別に死ぬ気はない。私よりも余程死に近い、死に飛び込もうとする馬鹿が目の前にいる。目を離したくない。嘘つきと呼ばれるのも納得がいかない」

 

 ごそりと身を起こしたディズジェーロは、アシエルに乗り上げるようにして、顔の両脇に手を付いた。丁寧に涙を舐め取った後で、ディズジェーロはまたひとつ、アシエルの唇にキスを落とした。今度は触れるだけではなく、舌と舌を絡める深いものだ。

 繋がり切れる唾液の糸を眺めながら、アシエルは目を(すが)めた。

 

「……なんでいきなりその気になってんだよ」

「さあ、分からない。ただ、お前の言葉が嬉しかった」

 

 口元に弧を描きながら、はにかむようにディズジェーロは笑う。

 

「触れたい。繋がりたい。アシエル」

「……好きにしろよ」

 

 ため息は、重ねられた唇に吸い込まれていった。

 

 手を伸ばし、肌を探って、体を繋げる。

 アシエルが身を震わせるたび、肩と頭を抱くディズジェーロの手に、宥めるように力が込められた。


「……嫌ではないか、アシエル」

「は……何が?」

「こうして、足を開いて、抱かれることが」

「それ、今聞くことか?」

 

 ぜえぜえと息をしながら見上げるが、興奮したように目元を潤ませているディズジェーロは、首を傾げるだけだった。ディズジェーロの首の後ろに手を回し、隙間をなくすように抱き寄せながら、アシエルは己の唇の端から零れかけていた唾液を舐め取る。

 

「嫌だったらしてねえよ。勝手に開発したのはお前だろうが。今さら聞いてんな。わけわかんなくなるくらい気持ちいいし、ディーに突っ込まれんの、好きだよ。ディーも突っ込まれたいなら代わるけど――」

 

 ディズジェーロの首に触れていた手を背へと滑らせて、尻と背の境にある出っ張りをくるりと撫でる。途端にディズジェーロは小さく体を震わせた。官能というよりは怯えに近い、身を竦める動きに苦笑しながら、アシエルはディズジェーロをしっかりと抱きしめる。

 

「……そうでもなさそうだしな。なら、別に何でもよくねえ? 楽しく気持ちよくなれるのが一番だろ? それに、繋いじまえばどっちでも変わんねえよ」

 

 調律したときから、精神は緩く繋げたままだった。体を繋いで、心を繋ぐ。くらくらとするような酩酊感と幸福感の中では、共有する感覚がどちらのものかなど、些細な問題だ。

 

「そうか。そうだな」

「ん、ほら、続き」

「ああ」

 

 吐息と体温を交わしながら体を探り合い、そして時折言葉を交わす。快楽に声を上げて、頂点に追い上げられて、追い上げてはまた、何かを確かめ合うように体に触れ合う。たったそれだけのことを飽きずに何度も繰り返すうち、気付けばアシエルは眠りに落ちていた。



 肌寒さを感じて、ふっと意識が浮上する。ディズジェーロの部屋の中は相変わらず、時間がここだけ止まっているかのように薄暗かった。外の時間は伺えないが、気を抜けば目が閉じてしまいそうな強い眠気からして、まだ朝には遠いだろう。

 どうやら裸のまま寝入ってしまったらしい。夢うつつに考えながら、暖を求めて身じろぎする。半ば無意識に熱源へすり寄った後で、アシエルはぼんやりとディズジェーロの顔に目を向けた。両目はしっかりと閉じられ、静かに、けれど深い寝息を立てている。

 

「ディー……?」

 

 吐息だけで名前を呼ぶ。普段であれば、アシエルが起きればディズジェーロも起きる。けれど、その時のディズジェーロは反応しなかった。むき出しの肩が寒そうに思えて、布団を首元までかけてやる。それでも、ゆっくりと胸元を上下させる以外、ディズジェーロは動かなかった。

 眠っているのだ。多分、本気で。

 

(かわいいな)

 

 寝顔を眺めながらうっかりと思った後で、自分自身の思考にアシエルは頭を抱えたくなった。

 自分が快楽に弱いことは知っている。加えて、犬や猫のようにまっすぐな感情を向けてくるものにも弱い自覚があった。だから情をうつしたくなくて、他人と肌を合わせることを避けてきたというのに、なんという様だろう。


「何をひとりで身もだえている。アシエル」


 自分が寝入っていたことに気付いているのかいないのか、いつの間にか目を開けていたディズジェーロが、平然と声を掛けてくる。


「……なんでもねえよ……」


 呻くような声を返しながら、アシエルは心の中だけで泣き言を漏らした。

 ――勘弁してくれ!

 幾度となく繰り返した言葉を、胸中で叫ぶ。

 早く出て行かなければ、際限なくうつる情のせいで動けなくなりそうだった。どうせ閉じ込めるなら、アシエルが動けないくらい、がちがちに縛って繋いでほしい。でなければアシエルはどうしたって出て行かなければならないのだ。アシエルは軍人で、命令を受けている以上、遂行しなければならないのだから。

 

(ああ、でも)

 

 顔を両手で覆いながら、考える。

 

(テンペスタの皇帝を殺したい理由が増えた)

 

 アシエルの力のほとんどはハリボテだ。命を懸けたところで、できることは限られる。ディズジェーロもまたアシエルと似たような苦境にあると知ったところで、ガイドとして調律する以外に何をしてやれるわけでもない。

 それでもしてやれることがひとつある。

 ディズジェーロを実験動物として扱い、逆らうという思考さえも奪ったのだろう人物は、奇しくもアシエルが主君に暗殺を命じられた標的と同じ人物なのだから。


「……余計なことを考えるな。寝ろ」


 脈か呼吸か、はたまた勘か、アシエルの物騒な思考を察知したらしいディズジェーロが、手を伸ばしてきた。抱き寄せられ、ぴたりと触れる体温が心地いい。再度まどろみながら、目を閉じる。

 もう少しだけ、と誰にともなく言い訳しながら、アシエルは意識を手放した。

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