46.知りたがりの皇帝③
壮年に足をようやく踏み入れたばかりといった年齢の、中肉中背の男だ。目立たぬ枯草色の髪に、たれ目がちな紅茶色の瞳からは、いかにも優しげな印象を受ける。白衣を着ているところからすると、研究員なのだろう。
「興味を持ってもらえて嬉しいな。これは、私が手掛けた研究なんだ」
アシエルの隣に並んだ男は、にこりと人懐こく微笑みかけてきた。
「αっていうんですか、こいつ」
「そうだよ。この個体の名前でもあるし、プロジェクト自体の名前でもある」
男は愛おしげにガラスビーカーを見上げながら、説明を続けた。
「人間もそうだけど、動物や魔獣の中には群れを作る種が多いんだ。そういう群れのリーダーのことを、生物学ではアルファと呼ぶんだよ。君は、どんな個体がアルファになるか分かる?」
「え? えーっと……」
唐突な質問に狼狽えつつも、アシエルは身近なリーダーたちを思い浮かべた。
ゲオール大佐。ユリア女王。ディズジェーロが隊を指揮しているところも、見たことがある。
「やっぱり、能力が優れたやつらじゃないですか。頭が良かったり、力が強かったり、色んなことに対応できる経験があったり、あとは――」
頭の回転が速く、判断を迷わず、動揺や不安を表に出さない。そして常に最新の情報に触れている。
「センチネルみたいに、危険をすぐに察知できるような感覚の鋭いやつとか……?」
「その通り!」
生徒を褒める教師さながらに、男は軽快な合いの手を寄越した。
「危険な世界であればあるほど、リーダーになるのは、群れの中で最も強い個体だ。君が今言ったように、人間の世界で言うところのセンチネルにあたる個体と言ってもいいかもしれない。五感に優れたセンチネルは、往々にして敏捷性や判断力にも優れているからね。でも、おかしいと思わないかい」
「何がですか」
「センチネルという存在そのものがだよ。センチネルは受容する力に優れているよね。でも、リーダーになるためには、どうしたって発信する力が必要なはずなんだ。耳の良い生き物は遠吠えで意思疎通をするし、鼻の良い生き物は匂いで危険を伝達する。じゃあ、人のセンチネルが発信するための力は、どこに行ってしまったんだろう」
「それは……」
アシエルは口ごもる。言われてみれば、人間のセンチネルだけ他の動物と違うと言えなくもない。
笑みを深めた男は、ぴんと人差し指を立てた。
「ここで面白いことに、人間のセンチネルには対になる存在がいる」
「――ガイド」
我が意を得たりとばかりに男が頷いた。
「そう。人間にはガイドがいる。でも、センチネルもガイドも、単体で見ると不完全な存在だ。センチネルは受容の能力には優れているけど、自分の感覚に耐えきれずに自壊する。一方のガイドも、他者への干渉能力――言い換えれば、発信する能力を持つけれど、センチネル以外にはそれを使えない。……どうしてだろう? なんで人間にだけ、そんなことが起こり得るんだろう?」
「そりゃ、そういうものだから、としか……」
「『そういうもの』! 私の一番嫌いな言葉だ!」
嘆かわしいと言わんばかりに、男は天を仰いだ。大袈裟な、と苦笑しかけて、直後にアシエルは眉を顰める。
まるで道化のような身振り手振りとは裏腹に、男の片眼鏡の奥に覗く瞳が、ひどく冷めていることに気づいたからだ。
「――私はね、神様は信じているけれど、『神が与えた』という曖昧な言葉は好きではないんだ。何かがあるならば、絶対にそこには理由がある。センチネルとガイドの出現。結界の存在。魔物の侵攻。気候の変動。死が死と定義される理由さえ、全部ね。理由が曖昧なまま、『そういうものだから』なんて、納得できるわけがない」
「なら、センチネルとガイドが生まれたのにも理由があるってことですか」
「分からない」
あっけらかんと男は言った。アシエルは、肩透かしを食らった気持ちで口元を引きつらせる。すると、にやりと笑って男は肩を竦めた。
「分からないことを解明するのが科学だよ。確実なことはまだ分からないけど、仮説は立てられる。文献上では、ガイドの存在が確認されたのは結界の発生よりも後だ。……こういうのはどうかな。かつては人にもアルファたり得る上位個体がいたけれど、結界により人と魔物の接触が大幅に制限されたことで、アルファの生態が狂い、センチネルとガイドに分かたれた、とか」
仮説とは検証するために立てるものだ。嫌な予感を覚えつつ、アシエルはガラスビーカーの中に漂うαをちらりと見上げる。
「こいつからセンチネルとガイド、両方の気配がするのは、もしかして――」
「察しがいいね、ディズジェーロのガイドくん」
ぞわりと全身の毛が逆立った。仮にも公爵家に属するはずのディズジェーロの名を気軽に呼ぶこの男は、誰だ。
枯草色の髪。茶色に近い赤目。砕けた装いと態度のせいで今の今まで気づかなかった、己の間抜けさを呪いたくなった。
――皇帝グレゴリオ。
片眼鏡と白衣の代わりに冠と壮麗なマントを纏ったならば、姿絵通りの優しげな為政者となるだろう男は、息を呑むアシエルに構わず、にんまりと笑った。
「センチネルやガイドは、どうやら脳の一部が普通の人間とは違うようなんだ。これがまた面白くて、うまく取り出して移植すれば、被験体にも力を根付かせることができる。この子もね、元は質の良いセンチネルだったんだよ。試しに人間のガイドと混ぜてみた。すると、面白いことが起きたんだ。なんだと思う?」
男が語ると同時に、周囲が一気に静まりかえった。部屋中の空気が揺らぎを増し、センチネルが上げる悲鳴が、まるで歌を奏でるかのように指向性を持ち始める。
「――なんと、αができたんだ!」
ガラスビーカーの中に浮かぶ生き物たちが、一斉に目を開けた。生きているものも死体だったはずのものも、皆一様に、研究室の奥へと顔を向けていく。
「試作品のα――この子は、条件付きではあるが、洗脳に近い強度で群れを従えることができた。この子はすぐに壊れてしまったけれど……でも、大丈夫。私の大切なαは別にいるんだ。ほら、ご覧――」
肩に手を置かれる。男が指差す先を見た瞬間、アシエルは目の前が暗くなるほどの怒りを感じた。この男が誰であるのかなど、一気にどうでもよくなった。
周囲の被検体たちが視線を送る先。吹き抜け構造の上階に設置されたガラスビーカーの中には、人影があった。
首に武骨な首輪を嵌められて、犬のように繋がれたそのセンチネルは、うつろな目をして緑色の液体の中に沈められていた。
「ディズジェーロ!」
痙攣するようにディズジェーロの体が仰け反った。ごぽりといくつもの泡がビーカーの中に上がっていき、苦痛から逃れるように、激しく首元を搔きむしる様子が見える。
「期待以上だ。素晴らしい。精神状態が安定していると、安心して負荷を掛けられるね」
隣でふざけたことを呟く男を、殴り飛ばしてやろうかと思った。ディズジェーロは苦しんでいる。たとえ現実で声をあげていないとしても、表情ひとつ人形のように変えていないとしても、悲鳴を上げて、泣き叫んでいるのだ。
「魔獣たちの反応も良い。魔族の血のおかげかな。……データは取っているね? 一段階、先へ進もうか」
興奮したように口の端を歪めて、どこかへと向けて男は呟く。
次の瞬間、肌で感じるディズジェーロの気配が、一気に変化した。人為的に暴走させようとでもしているのかと疑わしくなるほど、重々しく、乱れを増す。考えるより先に、アシエルは男に掴みかかっていた。駆け寄る護衛を、男が手のひらで制する。
「やめさせろ。今すぐだ。従わなければ殺す」
「ほう? 私に命令するのか」
面白がるように呟く声さえ耳障りだった。
早く止めなければ。助けなければ。整えなければ。
アシエルの頭の中にあるのは、ただディズジェーロを助けることだけだった。
あれはアシエルのセンチネルだ。アシエルの片割れだ。
首輪なんて、そんなものをつけて良い存在ではない。
こんなただの人間でしかない奴らが、勝手に触っていいものではない――!
「君の反応も、興味深いな。いや、君の性質を知らないから断言はできないが、まるで人が変わってしまったようではないか? なぜ? 防御反応の一種か? ふたり合わせて、後で調べてみよう。……とりあえずは、ここで止めておこうか」
胸倉を掴まれた男が微笑みながら告げる。電池が切れた人形のように、ディズジェーロの首ががくりと下がった。合わせるように、被験体たちも眠りについていく。意識があるのかどうかさえ疑わしいディズジェーロの様子を見た途端、頭が真っ白になった。男を床に投げ出し、アシエルは足をもつれさせながら上階へと駆けて行く。
「ディー!」
周りを見る余裕もなかった。薬液の外へと引きずり出されたディズジェーロの元へ、アシエルは真っ直ぐに駆け寄った。薬を打たれたのか、不自然なほどうつろなディズジェーロの目は、焦点も合わぬままぼんやりと宙に向けられていた。首輪を外されるや否や、力なく倒れようとするディズジェーロの体を、すんでのところで抱き止める。
「ディー、ディズジェーロ。しっかりしろ。大丈夫だ。すぐ整えるから……!」
無理矢理に力を引きずり出されたのか、あるいはあえて苦痛を与えたのか知らないが、力の乱れが今まで見たどんな状態よりもひどかった。弱々しく咳き込んだディズジェーロは、朦朧としながら緑の薬液を吐き出している。その背をさすりながら、黒い髪の合間に指を滑り込ませるようにして、アシエルは意識を集中させた。
波立つ力を全身で受け入れる。これまでであれば強く感じていたはずの、精神を繋ぎ合わせる衝撃は、かけらたりとも感じなかった。疑問には思わない。精神を繋ぐ違和感があるのは、互いの間に差異があるからだ。ならばアシエルがディズジェーロの力に対して、そんなものを感じるはずがない。
自分たちは奥底で繋がっている。今さら表層を繋げたところで、違いなどあるはずがない。アシエルはディズジェーロのガイドであり、ディズジェーロはアシエルのセンチネルなのだから。
自分が何を考えているのかさえ分かっていなかった。冷静な思考で考えれば道理の通らぬ理屈も、その時のアシエルにとっては、生きている人間が呼吸をするのと同じくらい、当たり前のことだった。
「……シ……エ、ル……?」
「うん」
掠れた声に答えながら、危険な状態を脱する程度まで力を整える。表層を整えるだけならば、数分もかからない。それ以上の調律を、この場で行いたくはなかった。
ここは危険だ。可能な限り早く、ディズジェーロを連れ出さなければならない。
「なぜ……お前が、ここにいる? おかしな真似をするなと……言ったはずだ」
アシエルの肩にぐったりと体重を預けたまま、ディズジェーロが途切れ途切れに呟いた。余計なことをするなと言わんばかりの言葉に顔を引きつらせつつ、アシエルは「言ってる場合かよ」と唸る。
「これのどこが、実験の協力なんだよ。気色の悪い薬液に沈められて、似合わねえ首輪までつけられて……!」
「鎮痛剤は投与されている。それにあれは首輪ではなく、データを収集するための器具で……っ、ごほ……っ」
「どうでもいい、そんなこと」
要は何でもないことだと説明しようとしたのだろうが、吐き気からか苦痛からか、ろくに言い切ることもできていない。浅い息を吐くディズジェーロの言葉を遮るように、アシエルは腕に力を込めた。
くるりとその場で体の向きを変えると、アシエルはディズジェーロの両腕を自分の首に回させる。そのまま両足を抱えるようにして立ち上がれば、アシエルに背負われる形となったディズジェーロは戸惑うように声を上げた。
「な、にを――」
「帰るぞ。ここじゃ調律しきれない」
ディズジェーロの返事を待たないまま、アシエルは歩き出す。階段の手前で、ブルーノが「ま、待ってください」と慌てたようにアシエルを引き留めた。
「邪魔をするのか。まだ、こいつに用があるとでも?」
ひどく気が立っていた。自分がどういう立場でここにいるのか、どういう態度を取るべきなのか、気を回すだけの余裕もない。苛立ちを込めて睨みつけると、ブルーノは手に持っていたローブをさっとディズジェーロに羽織らせながら、ぶんぶんと首を横に振った。
「とんでもございません! 本日の実験は中止するようにと皇帝陛下から伺っております。その、奥で休んでいかれては? 担架をお持ちしましたから」
「いい。触るな」
駆け寄ろうとした警備兵を一瞥して、アシエルは足早に階段を下っていく。
「異変があればすぐにご連絡ください。二日後にまた、迎えを送ります」
心配そうに掛けられる言葉が、余計にアシエルの神経を逆なでした。
研究室の扉を抜けて、来た道を逆に辿っていく。ブルーノが手配してくれたのか、区画を区切る扉は、魔力を流すまでもなく開いていた。
今しがた行われた残虐な行為に似合わぬ善意を見せられるほどに、苛立ちが増していく。
こんな馬鹿げた実験とやらを、誰も疑問に思っていないのだ。これがディズジェーロにとっての日常なのだと嫌でも思い知らされて、喉の奥がぎゅうと詰まった。
「おろせ、アシエル」
「黙ってろ。歩けもしねえくせに」
「嫌がらせか? お前に情けを掛けられるほど弱ってはいない」
「弱ってるだろうが。人目につくのが嫌だってなら、フード被って大人しくしてろ」
「……なぜ構う。お前の標的は手の届く場所にあったと、まさか気づいていないのか。今なら私より、お前の方が――」
「うるせえっつってんだ!」
苛立ちをぶつけるように恫喝すれば、ようやくディズジェーロは口を閉ざした。本人の言葉とは裏腹に、体勢を保つだけの気力もないのか、ディズジェーロは力なくアシエルの背に全身の体重を預けている。苦しげな息を吐くディズジェーロの顔をローブで隠して、アシエルは人目を避けながら、来た道を記憶を頼りに辿っていった。




