4.勇者と呼ばれた凡人④
優雅に腰を曲げてグラスを拾った男は、慌てて立ち上がったアシエルに向かって、グラスを差し出した。
「悪いな、兄さん……、っ?」
「……っ!」
男の手に触れた瞬間、びり、と電流が流れるような感覚があった。
反射的にぱっと手を引く。男も同様の感覚を得たのか、控えめに指を握り込んでいた。
わずかにずれたフードの合間からは、恐ろしいほど整った容貌が覗いていた。年はアシエルよりも数歳上といったところだろう。苛烈な印象を与える切れ長の目の形と、この国では見かけることのない濃い赤色の瞳が印象的だった。
気まずさをごまかすように、アシエルはへらりと笑う。
「じろじろ見て悪かったな。調子が悪そうだなって気になってさ」
「調子……? 私の? いつも通りだが」
フードを深く被り直しながら、淡々と男は答えた。不機嫌なのかと疑いたくなる愛想のなさに、アシエルは頬を引きつらせる。下町の食堂には似合わぬ品のある所作といい、傲慢にも聞こえる口調といい、平民ではないのかもしれない。だからといって、気を遣ってやる義理はアシエルにはないが。
「いつも通りって、本気で言ってるのか?」
「……? ああ」
こんなにも乱れた気配を振りまいておいて、まさか自覚がないのだろうか。酒を飲む前に、とっととその辺のガイドのところに行って調律してこいと言いたくなったが、ぐっと堪えた。本人が気にしていないのなら、他人がとやかく言うことではない。
「気のせいならいいんだ。もうすぐ冬だし、兄さんも気をつけなよ。見た感じ、外国の人だろ? この国の冬はきついぜ? 寒さに疲れたら、この店の芋のシチューがおすすめだよ。イーリスの芋は大きいから、うまいんだ」
「そうか。覚えておこう」
会話が途切れても、フード越しの視線は離れない。アシエルの腕をじっと見ながら、男は「戦場帰りか」と尋ねてくる。
「ん? ちょうど戻ってきたところだけど……臭うか? 一応さっき水浴びはしたんだけどな」
全身真っ黒なローブ姿だから、てっきり感触にうるさい触覚のセンチネルかと思ったが、嗅覚が鋭いタイプなのだろうか。自分の腕の匂いを嗅ぎながらアシエルが問うと、男は「匂いというより、目で分かる」と答えた。
「熱を燻らせている。まるで初めて戦場を知った新兵のようだ」
アシエルはぴくりと眉を上げる。生きるか死ぬかの瀬戸際をくぐり抜けたばかりで、疼くような興奮が残っているのは事実だが、面と向かって指摘されるのは面白くない。
「新兵っていうほど若くねえよ。見りゃ分かるだろ。酔ってるだけさ」
「エール一杯で? 軍人の割には酒に弱いのだな」
「仕事の後の一杯は特別なんだよ。あんたも酒飲むなら分かるだろ? 酒は楽しく酔ってなんぼなんだよ」
適当にあしらって自席に戻ろうとした瞬間、男がおもむろに手を上げた。身を引く間もなく、男の手のひらから生まれた淡い緑色の光が、アシエルの腕を包みこむ。優しい光は、ちょうど竜のブレスで火傷を負った場所をふわりと撫でて離れていった。
わずかな温かさを残して光が消えた後には、ひりつく熱さも痛みも、嘘のようになくなっていた。
袖をまくり上げてみれば、あったはずの火傷がきれいに消えている。ぽかんとしながら、アシエルはフードの男を見つめた。
治癒魔術は難易度が高い。人体の構造と補助魔術の両方に精通してなければ使いこなせない、高度で複雑な魔術だ。間違ってもこんな風に、グラスを拾うのと変わらぬ手間でほいほいと使えるものではない。
「楽しく酔いたいなら、火傷は放置しない方がいい。単なる怪我より質が悪い」
「あ、ああ……。どうも」
事も無げに言って体の向きを変える男に、それ以外何を言えただろう。狐につままれたような気持ちで自席に戻ろうとしたところで、ふとアシエルは足を止める。
――今は軍服を着ていないのに、なぜあの男は、アシエルが軍人だと分かったのだろう。
「……あのさ。前にどこかで会ったこと、あったか?」
ローブ姿の男が顔を上げる。フードの隙間から見える形の良い唇が、かすかに弧を描いた気がした。
「……さあ。だが近いうち、会うことにはなるかもしれない」
「はあ? それ、どういう――」
思わせぶりな言葉の意味を問おうとした瞬間、どんとジョッキを置く音とともに、「はい、お待ちどうさん」とマリーが明るく割って入ってきた。
「冷めないうちにどうぞ! ……あらアシエル、どうしたの。そんなところに突っ立って」
訝しげな目を向けられて、アシエルはきまり悪く視線を泳がせる。
「いや、グラス落としちまっただけ」
「そう。交換してきたら?」
「そうするよ」
厨房に足を向けながら、アシエルはちらりとローブ姿の男を伺った。
男はもうこちらを見てはいなかった。いかにも育ちの良さそうな食べ方で、淡々とつまみを口に運んでいる。
(変なやつ)
釈然としない気持ちを振り切って、アシエルは男に背を向けた。




