45.知りたがりの皇帝②
「生きていたんだな、アシエル」
ローブの汚れを布で拭い取りながら、涙声でゾーエが囁く。
「おかげさまで。よくしてもらっているよ」
「よかった。急にいなくなったから、気になってたんだ。さっきは庇ってくれて、ありがとうな」
「いや。それより、怪我は大丈夫か? あの野郎ども、手ぇ上げてたろう」
痛々しい頬を見つめながら問いかける。ゾーエは疲れたように「平気。慣れてるから」と首を横に振った。
「ああいう絡まれ方は初めてだけど、最近じゃ珍しくもない。もう戦場に送られてる兵隊さんもいるくらいだから、みんな気が立ってるんだ」
「……待ってくれ。もう戦場に送られてる? どういうことだ?」
心臓が嫌な音を立てた。アシエルの動揺に、幸いにもゾーエは気付かなかったらしい。艶出しと思わしき液体を布に振り掛けながら、なんでもないことのようにゾーエは答えた。
「宣戦布告っていうのをするまでは、まだ戦場って呼ばないんだっけ? でもどうせ城の中もあたしらの仕事も、何も変わらないよ。平気だって」
できた、と満足げに頷くゾーエを伴い、元の場所まで戻ると、ディズジェーロの凍り付くような睥睨がアシエルを迎えた。遠目には談笑しているように見えなくもなかったが、仲がいいわけではないのか、楽しそうなアントーニ大佐とは真逆に、ディズジェーロは全身に不機嫌を漂わせている。
「……行くぞ」
「もういいのか?」
小声で問いかけると、ディズジェーロは一秒でも早くアントーニ大佐を振り切りたいのか、間髪入れずに頷いた。
「本当につれないよねえ」
肩をすくめたアントーニ大佐は、アシエルを引きずるように歩き出したディズジェーロの背中を見つめて目を眇めると、それまでとは打って変わった真面目な声で「ベイグラント准将」と呼び掛けた。
「『契約』は一度きり。死にたくなければ、せいぜいガイドに見捨てられないようすがりたまえよ。強く美しい君が狂って死ぬところなど、見たくはない。これは、同期としての忠告だ」
(契約……?)
アシエルは首を傾げたが、ディズジェーロは返事をしないまま、それ以上の会話を厭うように歩調を早めるだけだった。
見張りらしき兵士たちに塔の入り口で何事か告げたディズジェーロは、アシエルを連れて淡々と階段を上がっていく。階層を隔てる扉は魔力で認証する形式らしく、ディズジェーロが手をかざすたび、魔力光を散らして扉が開いていった。奥へと進むにつれて、真っ白な廊下と壁はそのままに、様相が変わっていく。窓の代わりに人工灯が設置され、陽光の代わりとでもいうように、全体的に緑がかった光が目につくようになった。
イーリスの神殿を飾るのが色とりどりのステンドガラスと自然の陽光であるならば、テンペスタの研究所を飾るのは、この無機質なガラスビーカーと、人工光と混ざり合って輝く魔力光なのだろう。前にゾーエが見せてくれた地下の一室にも、色こそ違うが同じものがあった記憶がある。
螺旋階段を上がった先で、やがてアシエルたちは一枚の分厚い扉に辿り着く。扉に刻まれているのは、複数の複雑な魔法陣と、テンペスタの国章。そして、控えめに刻まれた印が端にひとつ。
「この印は……?」
「皇帝グレゴリオの印章だ。この階で行われているものはすべて、皇帝直下の研究になる」
アシエルの問いに答えながら、ディズジェーロは扉に魔力を流す。扉を開くや否や、ぞわりとアシエルの全身に鳥肌が立った。
扉の先には、一本道があった。奥に進めば帰ってこられなくなるのではないかと錯覚するような細い廊下の両脇には、緑のガラスビーカーがずらりと立ち並んでいる。まるで芸術品のように飾られている、一際大きなガラスビーカーの中をなんとなしに覗き込み、アシエルはぎょっと目を見開いた。
「……人?」
眠っているかのような、安らかな表情を浮かべた青年が揺蕩っていた。腹には大きな穴が空いていて、傷口と口元からは、ゆらゆらと真っ赤な血液が立ち上っている。閉じ切らぬ瞼からは、アシエルとよく似た翠色の瞳が覗いていた。
悍ましい人体実験を行っていることの証左だというのに、物言わぬ男の顔には、絶命したその瞬間を切り取って閉じ込めたかのような静けさと、奇妙な美が感じられた。いつかマリーが言っていた琥珀というものを、人間に当てはめたら、こういうものができるのではなかろうか。
「アシエル」
呼びかけられて、はっとする。
「ああ、悪い」
無理やり視線を引き剥がして、慌ててアシエルはディズジェーロの背を追いかけた。
「お待ちしておりました、ベイグラント准将。陛下からお話は伺っております。さ、どうぞこちらへ」
奥まった場所にある扉をくぐると、ブルーノと名乗る中年の男が、ディズジェーロとアシエルを朗らかに迎え入れてくれた。主任と書かれたネームプレートを白衣の胸ポケットに付けていることからして、この研究室の責任者なのだろう。
消毒液の匂いが、つんと鼻をつく。辺りには薬液を調製している研究者もいれば、壁一面に並ぶ本棚から文献を漁る者、被験体の様子を観察している者など、老若男女、様々な人が働いていた。皇帝直々に手掛ける研究に携わっているとあってか、誰も彼もが知性的で、やる気に満ち溢れている。国一番の研究所にふさわしい、理想的な環境だろう。
取り扱っているものさえ、普通であったならば。
「なんだよ、これ……!」
掠れた声で、アシエルは呻く。
――助けて。
――痛い。苦しい。
――死なせてくれ。
わんわんと反響する声なき悲鳴に、たまらずアシエルは歯を食い縛る。
動物。魔獣。人。――あるいは、人だったものが、部屋中を埋め尽くしていた。
ビーカーの中で壁を叩く人がいた。
眠るように揺蕩う死体があった。
人ですらない、魔獣と無理やり同化させられたような人型の生き物がいた。
手足のない人間。首だけの魔獣。得体の知れない無数の線に繋がれた脳。目玉、耳、切り取られた皮膚。
すべて、センチネルであったはずの者たちだ。
命への冒涜という言葉が、これ以上にふさわしい光景があるだろうか。おぞましさに吐き気がした。
「後ほどおふたり併せてのデータも取らせていただくとして、先にベイグラント准将の感応試験をさせていただきますね。今回は、以前よりも少し負担の大きな試験をさせていただくことになるかもしれません。緊急の場合には――」
ブルーノが何やら説明しているのは分かっていたが、耳を傾ける余裕はアシエルには残っていなかった。ガイドにだけ聞こえるだろう、センチネルたちの悲鳴を聞いているだけで、胸が引き攣れるように痛む。うつむき、暴れ出したい衝動を抑えつけることだけで精一杯だった。
「ベイグラント准将はこちらへおいでいただけますか。奥で前準備をしますので」
にこやかに先導するブルーノに続いて、ディズジェーロが足を踏み出そうとする。それに気付いた瞬間、弾かれたようにアシエルはディズジェーロの腕を掴んでいた。
「――行くな」
口調を取り繕う余裕もない。ディズジェーロは、この場に存在するどのセンチネルより強く希少なセンチネルだ。生命を生命として尊重されないおぞましい場で何をされるか、考えることさえ恐ろしい。
「アシエル?」
ディズジェーロが訝しげに眉を顰める。ブルーノもまた、緊迫した空気を察したのか、おろおろとこちらの様子を伺っていた。
「ここは、だめだ。行くな、ディー」
「いくつか実験に協力するだけだ。そう長くはかからない」
塔への呼び出しはよくあることだと言っていた。そもそも、ディズジェーロはアシエルが心配しなくてはならないほど弱い男でもない。
我に返ったアシエルは、強張る指をゆっくりと引きはがす。
「……悪い」
「いや……」
ぎこちなくディズジェーロが腕を引く。困ったようにディズジェーロとアシエルを交互に見たブルーノは、場を取り成すように「もしよければ、辺りの見学でもしてお待ちください」と提案した。
「動物はもちろん、魔力を含む鉱石の研究などもしていますので、馴染みのない方には面白いものもあると思いますよ。触っていただくことはできませんが、見ていただく分には構いません。何かあれば、お近くの研究員に気軽にお声掛けください」
「……ありがとうございます」
ガイドの奴隷に対するものとは思えない丁寧な対応だ。アシエルが礼を告げると、釘を刺すように横からディズジェーロが口を出してきた。
「室内では封魔の結界が敷かれている。警備も複数人。おかしな真似はするなよ」
「言われなくてもやらねえよ。道も分かんねえのに」
アシエルの乱雑な口調に驚いたのか、ブルーノがぎょっと目を見開く。しかし、それ以上アシエルが口を開く気配がないことを見てとってか、ブルーノは早足でディズジェーロを奥へと誘導していった。
本音を言えば一秒だってこんなおぞましい場所にはいたくない。けれど、せっかくテンペスタが誇る研究所を堂々と見て回る許可が出たのだ。集められるだけの情報は集めておくべきだろう。義務感だけで、アシエルはガラスビーカーの群れの中をゆっくりと歩いていく。
(どいつもこいつも、気味が悪い)
複数の種を掛け合わせたような生物もいれば、回復魔術の研究でもしているのか、何度も傷をつけては治るまでの時間を測定されている魔獣もいる。
中でもアシエルの興味を惹いたのは、緑の薬液に漬けられた狼型の実験体だった。損傷が激しく痛々しいが、緑色の液体の中でゆらゆらとくゆる血の流れが目を惹いた。死んでいるようにも見えたし、ただ安らかに眠っているように見える。だが、アシエルが気になったのは、見た目ではなく、気配の方だ。
(混ざってる?)
ガラスビーカーに触れたアシエルは、目を伏せ、その個体が放つ気配を深く探った。
感じる気配のひとつは、センチネルのものだ。けれど同時に、ガイドの気配もする。センチネルとガイドの力を同時に宿す例など、見たことも聞いたこともない。
ひどく歪な気配に気を取られていると、背後から「『α』が気になるかい」と朗らかな声が聞こえてきた。
振り返ると、柔和な笑みを浮かべた片眼鏡の男が、アシエルのすぐ近くに立っていた。




