42.うたかたの日々④
――魔を呼び込む者によって乱れた世界を憂いた神は、ある日、勇敢な青年に目を留めました。
魔王が出たら、勇者が出る。物語とはそういうものだ。
遅々として進まぬ解読作業を続ける傍ら、アシエルは脱出計画について頭を悩ませていた。
センチネルの超感覚を一時的に封じてしまえば、ディズジェーロを出し抜くことは不可能ではない。問題はその後、ディズジェーロの意識を奪う方法だ。首を絞めて落とすなり、腹を殴りつけるなり、暴力に訴えかけてもいいが、一撃で落とせなかった場合のリスクが高い。何より、ここまで世話になっている相手に、苦痛はできる限り与えたくない。
かといって魔術もだめだ。あのディズジェーロ相手に魔術で敵うわけがないし、そもそも魔力量の多い相手に精神魔術は効きにくい。
薬が手に入れば話は早いが、手元にない以上、外部の協力が必要になる。ゼークラフト中尉と連絡が取れない限り、現実的な手段ではない。
ならば性的な手段に出るか。肌を合わせていれば、精神を繋ぐことも容易くなる。苦痛を与えたくないのなら自分が受け入れる側に回ればいいだけの話であるし、何より、射精する瞬間に無防備にならない男はいない。不自然なほど夜の手管に通じたディズジェーロ相手にどこまで主導権を握れるかは未知数だが、試す価値はあるかもしれない。
そこまで考えて、アシエルは頭を抱えた。
ひとつの手段。現実的な方法。そんなものはすべて建前なのだと、気づいていた。
逃走のための手段としてだけでなく、アシエルはディズジェーロに触れてみたかった。
仮想敵国の軍人を軟禁するなどという愚行を、本気で実行してのけるディズジェーロの狂気に興奮する。虚勢を張ることしかできない己とは違う、本物の力に憧れる。アシエルが調律しなければ苦しみを耐えるしかない、難儀なセンチネルの体が憐れでならない。
もっと知りたい。潜れるところまで潜って、暴いてみたい。肌を合わせて、ぬくもりと快楽を分かち合い、身も心も自他の境目があいまいになる感覚を共有したい。
情がうつるからと他人との肌の接触を避けていたことが、遠い昔のように感じられた。
今さら遅い。関わりすぎた。知りすぎた。ディズジェーロの言葉通り、すべて忘れたことにして、この居心地の良い部屋にもう少し留まることができたならと、自分勝手にもほどがあることをちらりとでも考えてしまう程度には、アシエルはディズジェーロに心を傾けてしまっていた。
けれど、アシエルだけが悪いのではないはずだ。自分以上に己の命を惜しみ、求めてくれる相手を前に、どうして情を移さずにいられるだろう。
そこまで考えて、はたと思い至る。根本的な問題を忘れていた。
「なあ、ディー」
ディズジェーロは、ちょうど水を取って戻ってきたところだった。寝台の端に腰掛け、グラスに口をつけながら、アシエルの声に応えるようにディズジェーロは流し目を向ける。
「お前、俺を抱けるか」
「ぐ……っ! ごほっ、……っ!」
ディズジェーロの喉から、聞いたこともない音がした。おかしな場所に水が入ったのか、気の毒なほどむせている。涙目になって咳をしているディズジェーロを物珍しく眺めながら、アシエルは同情を込めて声を掛けた。
「大丈夫か? 水くらいゆっくり飲めよ」
「……ああ、失礼。少し、耳がおかしくなったようだ」
らしくもなく手を震わせながらグラスを置いて、ディズジェーロはアシエルの手元をのぞき込んだ。
「また分からない単語でもあったのか。どこだ」
「いや、本のことじゃねえよ。お前、俺で興奮できるかって聞いたんだ」
もう一度言い直すと、ディズジェーロは眉間に深い皺を寄せながら、呻くように言葉を絞り出した。
「いきなり何だ。気でも狂ったのか? 部屋の中では気が詰まると言うなら、また散歩に連れていこう」
「外に出られるのは嬉しいけどな、至って正気だ」
「お前に与えた本のどこにそんな思考に至る要素があった?」
「強いていえば、魔王と勇者が出てくるところかな」
「『魔を導く者』と『勇敢な青年』だ」
「似たようなもんだろ。まあ、なんつーか……色々考えてたんだって……」
勢いで聞いたはいいけれど、ごく真顔で正気を問われると、じわじわと羞恥が湧き上がってきた。
アシエルがディズジェーロとの触れ合いを心地良いと感じているからといって、ディズジェーロも同じだとは限らない。これまでに互いの体に触れたことがないわけではないけれど、抜き合いをした時は、催淫剤に冒されていたアシエルの感覚を共有して、なし崩しにそうなっただけだし、この部屋に連れてこられた日だって、話を聞き出すため手段として快楽を選んだだけと言われればそれまでだ。
「……悪い。溜まってんのかも。忘れろ」
うつむきながら小声でぼそぼそと呟けば、ごく近くから小さなため息が聞こえてきた。
「アシエル」
するりと頬を撫でられて、導かれるままに顔を上げる。次の瞬間、アシエルは息を呑んだ。
「私がお前に興奮するか、か」
焦がれるような瞳が、アシエルを見つめていた。見ているこちらまでもが焼かれそうな、激情を秘めた眼差しだ。
この男は、なんという目で人を見るのだろう。
粟立つような興奮が、ぞくりと背筋を這い上がっていく。ゆるりと唇の端を持ち上げたディズジェーロは、挑発するようにアシエルの唇を指でなぞった。
「知りたければ、試してみるか?」
熱に浮かされたような声に気圧されて、アシエルはごくりと唾を飲みこんだ。話している内容は即物的な行為の話で、付随するべき柔らかな感情は、互いにきっとそこにない。恋からも愛からも遠いそれを、言葉にできるだけの知識をアシエルは持たない。言葉で伝えられないからこそ、肌を重ねてみたいと思った。
「……いいぜ。後悔するなよ、ディー」
「そちらこそ」
唇の端がひとりでに上がっていく。アシエルの後頭部にディズジェーロの手が回る。アシエルが両手をディズジェーロの首に回す。どちらが早かったのかは分からない。
湿り気を帯びた吐息が重なった。




