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41.うたかたの日々③

 浮遊感とともに、辺りの景色が一気に切り替わる。

 吐く息が白い。ずっとあたたかい室内にいたせいで、今が初冬であることも忘れていた。久しぶりに感じる外の空気を胸いっぱいに吸い込みながら、アシエルはぐるりと辺りを見回した。街の明かりひとつ届かぬ、暗く静かな場所だ。ひとりで来たら、安堵よりも不安を強く煽られそうなほど、闇が深い。

 風すら届かぬ、荒野が広がっていた。足元には草ひとつ生えておらず、荒涼とした大地が続いているように見える。少なくとも、アシエルの目には。

 

「足元に気を付けろ」

「うお……っ」

 

 言われた先から足を踏み外しかけ、すんでのところで、ディズジェーロが腕を掴んで支えてくれた。

 

「気を付けろと言った」

「自分基準で考えるなよ。目が慣れるまでは見えねえよ。……下手に歩くと転びそうだな。座らねえ?」

 

 手で辺りを探りながら、おそるおそるアシエルは腰を下ろす。雪こそ降っていないが、冷たい地面に尻をつけると、一層寒さが身に染みる。

 身を震わせながら空を見上げた瞬間、アシエルは目を見開いて、歓声を上げた。

 

「すげえ……!」

 

 視界いっぱいに星空が広がっていた。雲もなければ月もない。一際明るく輝く星も、暗く控えめに佇む星も、大小さまざまな星がひたすらに美しく黒紫色の空を埋め尽くしていた。

 

「星ってこんなにあったのな。知らなかった」

 

 文字通り、世界がきらきらと輝いて見えるかのようだった。指の間から星空を仰ぎ見て、惹かれるようにアシエルは高く手を上げる。手を伸ばせばひとつくらい掴めるのではないかと思うほど、空が近く感じられたのだ。

 けれど、アシエルが伸ばした手は、星の代わりに、アシエルよりもわずかに大きく体温の低い手に当たった。星空を遮るように、ディズジェーロの影がぬっと視界の一部を占有する。

 

「眩しくないのか」

「眩しいと言えば眩しいけど、世界が眩しいって意味であって、多分ディーの言う眩しいとは違うな。……ディーも座れよ」

 

 星空に背を向けて立つディズジェーロの手を、アシエルはぐいと引っ張った。「座ると寒い」と文句を言いつつも、渋々とディズジェーロはアシエルの隣に腰を下ろす。

 冷え冷えと冴えわたった空気の中で、色とりどりの光の粒を暗闇に撒いたかのように、鮮やかに星空がきらめいていた。空と大地を分ける地平線までもがはっきりと見えるほど、空も空気も澄んでいる。

 星々が降ってきそうな空の下で、アシエルとディズジェーロだけがそこにいた。音のない世界でふたり身を寄せ合って、じっと空を眺めていた。目も口も肌も、空気にさらされている部位はひやりと冷たいのに、触れ合う肩だけは唯一、温度を持っていた。寂しく見知らぬはずの場所なのに、隣で肩を寄せ合って、一緒に空を眺める相手がいるというだけで、馬鹿みたいに心穏やかでいられる。

 穏やかな沈黙があまりにも心地よくて、すべてを忘れてしまいそうだった。

 ディズジェーロの部屋は、優しい鳥籠のようだ。時の流れが緩やかで、苦しいことなど何もない。騒ぐわけでもなく、心が跳ねるような刺激的なことがあるわけではない。けれど、言葉を交わして、ほんの少しの昔話を語って、知識と思いを分け合えることが、ただ嬉しくて楽しかった。

 代わり映えのない日々をともに過ごせる誰かがいることが、どれほど得難いことなのか、幼くして家族を亡くしたアシエルはよく知っている。

 ディズジェーロの隣にいるとき、アシエルはただのアシエルでいられた。体を鍛えることが好きな、イーリス育ちのガイドの平民。それ以上でもそれ以下でもない。信心深くなんてないと思っていたけれど、食前の祈りも捧げず、聖書の一節すら知らないディズジェーロを見ていると、それなりに敬虔な部類に入るのかもしれないと思うようになった。誰にも心を傾けず、ひとりでいることが気楽でいいと思っていたけれど、もしかしたら、それは寂しいことだったのかもしれないと、気づいてしまった。

 多分、ディズジェーロもただのディズジェーロだった。知識が豊かで、自分の作業を邪魔されることが大嫌いな毒舌家。そのくせ人の世話を焼くのは嫌いではなく、本や魔術のことをどれだけ聞いても、顰め面をしながら懇切丁寧に教えてくれる。冷たい表情の裏に、アシエルよりもよほど激しい喜怒哀楽を抱えた、情の深い人間なのだと知ってしまった。

 互いの国が戦争間近だなんて、忘れてしまいそうだった。仮想敵国の国主を殺せと命じられたことなど、夢だったのではないかと思ってしまいそうだ。勇者などという馬鹿げた二つ名に纏わりつく義務と責任を、ともすれば忘れてしまいそうになる。

 星空が眩しかった。世界が眩しかった。眩しくて眩しくて、光にくらんだ目からうっかり涙が流れ出てしまいそうなほど、美しく見えた。

 

「ディーの目には、この世界はどう見えているんだ?」

 

 あえて明るく、アシエルは問いかけた。ちらりとアシエルに視線を向けたディズジェーロは、空に視線を戻しながら静かに答える。

 

「星は眩しい。月が出ていない分、今日はマシだが、それでも目に痛い。眩しいだけだ。お前が転びかけた石の出っ張りも見えているし、そのいくら撫でつけても直らないひどい頭も、間抜けに口を開いた顔も、はっきりと見えている」

「ひでえ言い草」

「事実だ」

 

 触れ合った肩の隙間をぴたりと埋める。ぬくもりを求めて手を動かせば、すくい取られるように手を握られた。手のひらと手のひらを重ねて、指を絡めて握り合う。

 

「俺にも見せてくれるか、ディー。お前の世界を見てみたい」

「目はやれない」

「いいよ。ディーの目で、俺も見るから」

 

 そう言うと、アシエルはふっと目を閉じて、意識を内側に向けた。アシエルが何をしようとしているかも知らないだろうに、絡められたディズジェーロの指は、それを受け入れるようにゆるりと手の甲を撫でていく。

 精神を繋ぐ。記憶にあるものよりもずっと穏やかに凪いでいる海に身を沈める。以前までは繋ぐたびに全身を殴打されるような衝撃を感じていたはずなのに、今や自分の心を受け入れられる心地よさしか感じない。

 心を預けて、預けられる。幸福感に、ため息が出そうになった。

 目を閉じて、ディズジェーロの感覚に同調する。閉じているはずのアシエルの視界に、やがて目が眩むような光が飛び込んできた。

 

「……っ!」

 

 ディズジェーロの目で捉えた世界と、そして繋いだ心から伝わる感情に、心そのものを殴りつけられた気分だった。気づけばアシエルの頬には涙が伝い、殺し損ねた嗚咽が、歯の間からこぼれていく。

 ディズジェーロの見ている世界は、眩しかった。夜なのに、昼の世界を見ているのかと錯覚するほど、細部まではっきりと見える。見えすぎてつらいくらいだ。

 けれど、それ以上に美しい。星が空を埋め尽くすなんてものではない。アシエルの目では見えない小さな無数の星が、空に銀粉を散りばめたかのように浮かんでいる。きらきらと瞬く星々が、夜空を巡り、大地に降り注ぐかのようだった。

 感じたこともないような幸福感が、アシエルの息を詰まらせる。

 アシエルの感情ではない。心まで覗かぬよう目を背けていてさえ、滲み伝わってくる純粋な感情は、ディズジェーロが感じているものだ。

 眩しいだけだと言ったくせに。ディズジェーロもアシエルと同じように心震わせているのだと、分かってしまった。

 

「なぜ泣く」

「……っく、……なんでだろうな。あんまりきれいなもんだから、目に沁みるのかもな」

 

 気づかぬふりをしてくれればいいものを、暗闇だろうと関係なく顔が見えるというのはずるいものだ。情けなく涙に濡れた掠れ声で、アシエルは空を見上げたまま、とぎれとぎれに返事をした。

 

「きれいだよ。ディーの見ている世界は、きれいだ」

「……お前の世界は? 見てみたい。見せてくれ、アシエル」

 

 ねだるような声とともに、肩に感じる重みがわずかに増した。寒さに身を寄せ合う動物のように、アシエルとディズジェーロはぴたりと体を預け合う。

 ディズジェーロの願いを叶えるために、アシエルは再び意識の中に潜り込んだ。今度は少し、やることが増える。感覚に同調した後で、ゆっくりと時間をかけて、ディズジェーロの力を抑えていく。アシエルが先ほどまで自分の目で見ていた景色と同じ暗さになるまで、ディズジェーロの感覚に目隠しをする。

 ややあって、ディズジェーロは心もとなそうに身じろぎをした。

 

「……暗い。何も見えないようなものではないか」

「見えてるだろ。星が。たくさん」

「お前にとっては、あれが星なのか。夜とは、こんなにも暗いものなのか。恐ろしくはないのか」

「怖いよ。でも、そういうものだ。……そういうものなんだよ、ディー」

 

 呟くと同時に、また一筋、涙が頬を伝っていく。先ほどまで感じていた幸福感とは真逆の、冷たい罪悪感からだった。

 気づいてしまった。

 ガイドの力は、センチネルの感覚を調律できる。強めることもできるけれど、その逆に、力を乱して押さえ込むことだってできるのだ。

 ――この方法ならきっと、ディズジェーロを出し抜ける。

 暗い世界、利かない鼻、毒を容易に通す舌、気配に疎く、目に見えぬ範囲の音など聞こえるはずもない世界。夜の暗ささえ知らないというのなら、常人の世界に初めて突き落とされたならば、きっと動くことなどできないだろう。

 繋いだ手を強く握る。脳裏をよぎった考えも、肌を凍らせる冷たい空気も、寒くて寒くて、凍えてしまいそうだった。


「ついでだ。調律するよ」

「……? ああ」


 唐突なアシエルの申し出を不思議そうに受け止めつつも、ディズジェーロは抵抗しなかった。目を閉じたアシエルは、繋いだ手から伝わる力を、持てる限りの力を使って整えていく。ほう、とディズジェーロが心地良さそうに息をつく。ふと目を開けると、視線がぶつかった。わずかに目を細めた、微笑みになる直前の緩んだ表情。目にした瞬間、胸を突かれる思いがした。

 うっかりと目を奪われている間に、ディズジェーロは、繋いだ手とは逆側の手をそろりと持ち上げた。アシエルの頬へと伸ばされた手は、流れるままにしていた涙を、そっと指で拭っていく。荒事を生業とする男相手にするは、あまりにも丁寧で、優しい手つきだった。

 そんな風に触れてくれるなと、どうしようもない気持ちになって、息が詰まった。

 これ以上親しくなるべきではない。

 分かっているのに、抗えない。そのまま離れようとしたディズジェーロの手を、アシエルは己の手を重ねて引き留めていた。

 ごく近くにある瞳をじっと見つめる。どちらともなく目を伏せて、身を乗り出す。たったそれだけで、ほんのわずかに残っていたはずの隙間さえもなくなった。

 唇に触れた頼りない感触を味わうように、アシエルは静かに目を閉じる。

 瞬きの合間だけ触れた唇から顔を背けて、アシエルはディズジェーロの背に腕を回した。ふわふわとした多幸感は、精神を繋いでいるせいなのだと言い聞かせて、ディズジェーロの力の調律に専念する。

 力の海はいまだ暗く、ところどころに荒れた気配が感じ取れた。以前とは比較にならないほど整ってきたとはいえ、元の色を取り戻すためには、あともう一回は深い調律が必要だろう。

 抱き合うような体勢のまま、時間をかけて調律したところで、息が上がってきた。繋がりを解こうとした寸前で、殺風景なはずだった世界に、アシエルはふと見覚えのない輝きを見つける。

 暗い海を覆う空に、きらきらと星々が瞬いていた。ディズジェーロの心に、彩りが増しているのだ。アシエルと過ごした時間が、たしかに刻まれている。罪悪感が増した反面、それはアシエルの中の何かを、ひどく満たしてくれた。

 唇の端に薄く笑みを浮かべながら、アシエルは目を開ける。


「……はっ、は……、ぁ」

「大丈夫か」

「ん。ディーは?」

「気分が良い。知りたくなかったと思うほどには」

 

 ゆるりと以前も見た気の抜けた笑みを浮かべながら、ディズジェーロはアシエルを抱き寄せた。

 

「なんだよ、それ」 

「お前に駄目にされる」

「は……、こっちのセリフだ馬鹿野郎……」

 

 ディズジェーロの背に回した手で、ぐしゃりとローブを握りこむ。

 知りたくなかった。たしかにそうだ。

 誰かと心を重ねて、日々をただ穏やかに過ごす幸福など、知りたくもなかった。何者でもないアシエルを望んでくれる存在など、きっと知らない方が良かった。

 

「……なあ、ディー。なんであの絵本、持ってたんだ? 物語が好きなのか?」

 

 掠れた声で、アシエルは尋ねた。何でもいいから言葉を吐いていないと、言いたくもない弱音が飛び出してしまいそうだった。

 

「物語はあまり読まない。空想に逃げたところで空しいだけだ」

「じゃあどうして。魔術書とか戦術書とか、他の本は実用書ばっかりだろ。あれだけ違う」

「幼いころに読んだ。結末が気に入っていたから、あの本だけは手元に置いている」

「最後、どんな話になるんだ?」

 

 興味を惹かれて問いかける。けれど、ディズジェーロはアシエルに答えを与えてはくれなかった。「自分で読め」とつれなく言い放つ。

 

「どうせ時間は腐るほどある。余計なことなどすべて忘れて、お前は本と戦っていればいい」

 

 アシエルは答えなかった。ディズジェーロの肩越しに美しい夜空を見上げて、ただもう一度強く、ディズジェーロの体を抱きしめた。

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