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40.うたかたの日々②

 軟禁されて早七日。部屋から脱出する手立てもないまま、アシエルはペットよろしくディズジェーロに甲斐甲斐しく世話をされていた。差し当たっての作戦は、ディズジェーロの警戒を解いて、多少なりとも軟禁の程度を緩めさせること。まどろっこしいやり方だけれど、他に手がない。

 筋肉を落とさぬように体を動かすこと以外、暇を持て余したアシエルができることは何もなかった。せいぜいが与えられた本を地道に読み進めることくらいだ。寝台の上であぐらをかいたアシエルは、テンペスタ製の人工灯の真横で、矯めつ眇めつ本を眺める。

 

――むかしむかし、神が住まう世界がありました。

 そんなありきたりな出だしから始まる物語は、子ども向けと思いきや、とにかく古くて読みにくい。神事で使う古語とまでとは行かずとも、今はもう使われなくなった字が頻出する上、異国の本だからなのか、アシエルには見慣れぬ言い回しばかりが顔を出す。平民向けに平易な言葉で書かれていた聖書の方が、まだ読みやすかった。

 

「なあディー、これは?」

 

 本を両端から持ち上げたアシエルは、いくら眺めても意味の取れない部分を指さしながら、書類机で作業をしていたディズジェーロに尋ねた。ちらりとこちらに目を向けて、淡々とディズジェーロは答える。


「『星』。今の言葉でいうところの、大地の概念に近い」

「星は夜空に見えるものだろ? なんでそれが大地になるんだよ」

「結界が現れる前後で、世界は大きく変化したと聞く。失われた文化の中には、星と大地が同義になる理由があったのだろう」


 ディズジェーロが言っているのは、魔物の出現と大侵攻に伴う結界の出現のことだ。どこまでが真実なのかは定かでないものの、当時の動物や国、文化はことごとく魔物たちに蹂躙され、人類はあわや壊滅状態に陥ったという記録が残っている。


「『魔物に蹂躙されし大地を憂いた神は、世界の半分を取り上げる代わりに我らに結界を与えた。神がヒトに与えたもうた最後の慈悲である』って?」

 

 記憶に残っている聖書の一節を諳んじてみせれば、ディズジェーロは気味の悪いものでも見るような視線をアシエルに向けてきた。

 

「それで敬虔な信者でないとうそぶくのか」

「だから、イーリス育ちならこれが普通なんだよ。お国柄ってやつだって」


 もっとも、アシエルの場合は、信仰心の強かった母親の影響もあるけれど。

 優しかったけれど、躾だけは厳しい人だった。何かにつけて聖書を引用してくるのは煩わしかったものだが、今となってはいい思い出だ。記憶を懐かしみながら、アシエルは本に視線を戻す。

 

――世界は緑に覆われ、色とりどりの花と歌に満たされていました。幸せの果実はひとりひとつ、星から平等に与えられます。動物も人も植物も、すべての生き物が笑い、持てるものを分け合い、仲良く暮らしていました。けれどもある日、×××は言いました。『どうして果実は、ひとりひとつなのだろう』

 

「これは?」

「『知恵あるもの』。知りたがりの悪しきもの。強欲で愚かなものを表す言葉だ」

「ひどい言われようだな。なんでって思っただけで悪者扱いか」

「神とやらは馬鹿に馬鹿のまま、何も知らずにいて欲しかったのだろうよ」

「ディーが俺に外の状況を何も教えてくれないのと同じで?」

 

 嫌味を込めて呟くが、ディズジェーロは馬鹿にするように鼻を鳴らすだけだった。

 

――知恵あるものは、弱きものから果実を奪うことにしました。またあるものは、まだ見ぬ星の奥に果実を求めて、世界を抜け出すことにしました。

 

 和やかな動物たちの絵から一転して、挿絵は黒と寒色を主体としたものに変わった。涙する生き物と、険しい顔をした人間が争っている。

 虐げられた生き物の涙が海を作り、世界を抜け出た人間は真っ黒な怪物を世界に引き込んだという。子ども向けにしては暗い話の展開だ。

 

「何を呼び込んだって……? んん、わけ分かんねえ」

「『魔』……魔物だ」


 もはや見もせずにディズジェーロが答えた。この澄ました顔で、子ども向けの本を内容を覚えるほどに読み込んでいるのかと思うと、かわいげがあるように思えてくる。

 

「魔物を呼び込んで操る……つまり、魔王か。ようやくそれっぽくなってきたな」

 

 物語には悪役がつきものだ。解読できた喜びにアシエルは声を上げたが、ディズジェーロは冷たく水を差した。

 

「黙って読めないのか、アシエル」

「くじけそうなところを必死で読んでるのが見えねえ?」

 

 とはいえ、一度に読める量には限りがある。キリのいいところで、アシエルはぱたりと本を閉じた。

 手持ち無沙汰に身を任せ、寝台の上で腹這いになったアシエルは、書き物をするディズジェーロの横顔をじっと見つめた。

 何度見ても、綺麗な男だと思う。目を伏せるたび、長い睫毛が目元に落とす影といい、考えごとをするたびに唇に指をあてる様子といい、いちいち所作が色っぽい。隈が目の下に刻まれていることだけが惜しまれるが、真っ赤な瞳の色は印象的だし、粗のない造形は、見ていて飽きない。

 雄々しいというよりは女性的な美しさのためか、ローブ姿だけを見るとひ弱な魔術師にしか見えないのに、これで腕っぷしもアシエルより強いというのだから、世はつくづく不公平だ。


「……何だ」


 無言で観察していると、ディズジェーロが根負けしたようにペンを置き、視線を上げた。ぱちりと視線が噛み合った瞬間、アシエルはおどけるように片眉を上げる。

 

「飽きた」

「寝ろ」

「眠くねえ」

「子どもか」


 ぽんぽんと言葉を投げ交わすのが楽しくて、アシエルはけらけらと声を上げて笑う。

 

「そっちよりはガキかもなあ。ディーは……三十くらいか?」

「二十六。お前と三つしか変わらない」

「そりゃ失礼。隈が取れるまで寝た方がいい。老けて見えるぜ? せっかくのお綺麗な(つら)がもったいない」

「いらない世話だ」


 本気で嫌そうに言うものだから、余計に笑いが止まらなくなる。だらりと頬杖をついたアシエルは、「なあ、なんか話してくれよ。ディー」とねだるように囁く。

 

「何の話をしろと?」

「任務で色んな場所に行ってるんだろう。面白い場所とかなかったか。どこでもいいからさ」

「任務は任務だ。遊びに行っているわけではない」

「知ってるっつーの! じゃあ任務以外でいいよ。好きな場所とかねえの」

 

 ディズジェーロが眉間の皺を深めて、考えるように目を伏せた。


「好きな場所……?」

「ないとはいうなよ。どこかしらあるだろ。日当たりが抜群の休憩場所とか、安息日に楽器の音が聞こえてくる崖裏とか……」

 

 アシエルの声は尻すぼみに萎んでいった。人の視線から逃げられる場所ばかりを好んできたせいで、面白おかしく語れるような場所など、己とてろくに知らないことに思い至ったのだ。

 

「……やっぱいい。意外と難しいな、これ」

 

 作り笑いを浮かべてごまかそうとしたとき、ディズジェーロが「ある」と何かを思いついたように口を開いた。

 

「静かな場所は好きか、アシエル」

「え? うん」

「この街からそう遠くない位置に、人の声も森の音も届かない場所がある。音が不快で仕方なくなったときは、そこへ行く。街の明かりも城の悪意も感じなくて済む、静かな場所だ。星が眩しいことだけが短所だが」

「いや、長所だろ」

 

 思わず突っ込むと、ディズジェーロは何を言っているのか理解できないとばかりに眉を寄せた。胡乱な目を向けたいのはアシエルの方である。

 

「星がたくさん見える場所は貴重だろ。イーリスの下町からは、星ってあんまり見えねえし」

「見たいか」

「出してくれんの?」

「どうせあの場所の周りには何もない」

 

 逃がすつもりもない、とディズジェーロは冷たい声で付け足した。

 

「犬には散歩が必要だろう」

「誰が犬だ」

 

 言い返しつつ、いそいそと身を起こしながら、アシエルはディズジェーロを振り返る。

 

「何ぐずぐずしてるんだよ。行くなら早く行こうぜ」


 口角を上げたディズジェーロが、応えるように立ち上がり、そっとアシエルに手を差し出す。ディズジェーロの手をしっかりと握った瞬間、眩い転移の光がアシエルの視界を埋め尽くした。

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