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39.うたかたの日々①

 ゆっくりと意識が浮上する。

 眠りに落ちるときこそ抱き合っていたが、寝ている間に離れたのか、ディズジェーロはアシエルに背中を向けていた。かすかに聞こえる寝息に耳を澄ませて、ディズジェーロが眠っていることを確かめる。

 今なら部屋の結界は解かれているはずだ。

 術者の意識なしに維持できる魔術は存在しない。いくらディズジェーロが魔術に長けていようとも、それは覆せない法則だ。だからこそ、術者がいないにもかかわらず長年世界を覆っている結界は、神の御業とされているのだから。

 部屋は相変わらず薄暗く、外からは音ひとつ聞こえない。静かな安息の気配を惜しみつつ、アシエルはそろりと寝台を抜け出そうとした。

 しかし、その瞬間、蛇が獲物に食いつくような速さで腕を掴まれる。

 

「……おはよう、ディー。怖い顔してどうしたよ。まだ朝には早いんじぇねえかな」

 

 朗らかに微笑みかけたアシエルに対して、ディズジェーロはにこりともしない無表情で問い返す。

 

「どこへ?」

「便所」

 

 嘘ではない。失敗したらそうしようと思っていた。

 掴まれていた腕を離される。気だるげに前髪をかきあげたディズジェーロは、身を起こしながら、釘を刺すようにアシエルに告げた。

 

「息をひそめていようが目を閉じたままでいようが、眠っている人間と起きている人間は呼吸も脈も違う。お前が目覚めた時点で私には分かる。無駄なことをするな」

「狸寝入りかよ……」

 

 ひくりと頬が引きつった。

 調律を受けた後のセンチネルは、苦痛が緩和されるせいなのか、大抵の場合気が緩む。そのはずなのに、ディズジェーロの感覚は、面倒なほど鋭敏だった。気が緩んでいる状態でこれだとすると、意識を落とさない限り、ディズジェーロを出し抜くことは難しいだろう。

 しぶしぶとアシエルが用を足してから戻ってきたときには、ディズジェーロはすでに身支度を終えていた。

 

「どこか行くのか? 光が入らねえから分かんねえけど、まだ日も昇ってねえんじゃねえの」

「誰かのせいで目が覚めた。寝直す気にはならない」

()()()()()。嫌ならいつでも部屋から出してくれていいんだぜ?」

 

 ディズジェーロの言い方を真似て言う。大層嫌そうに顔を歪めた当の本人は、疲れたように首を振り、さっと扉に手を掛けた。

 

「食事の時間には戻る。寝るなり家探しするなり好きにしろ」

「へいへい。いってらっしゃい」

 

 ひらひらと適当に手を振りながら返すと、ディズジェーロは足をぴたりと止めた。どうしたのかと視線を向ければ、ディズジェーロはもの言いたげな、形容しがたい表情を浮かべて固まっていた。昨日から何度も見た表情だ。けれど理由を問うより先に、ディズジェーロは足早に部屋を出て行ってしまった。


 

 家主本人から許可が出たことを免罪符に、アシエルは部屋の隅から隅までを探索した。残念ながら成果は芳しくなく、外の様子を伺おうとすれば結界に阻まれ、転移しようにも結界に邪魔をされ、ならばと力任せに結界を破壊しようと試みても、びくともしない。そうこうしているうちに、ディズジェーロが戻ってきて時間切れだ。

 朝食には、鶏肉を挟んだサンドイッチと、野菜のたっぷり入ったスープを与えられた。マリーが作る料理のような懐かしさこそないものの、レシピ通りに作っただろう、お手本通りの見た目と味は悪くない。素朴ながらあたたかい食事を腹に収めたあとで、アシエルは「そういえば」と首を傾げる。

 

「これ、どこから持ってきてるんだ? 通いの使用人でもいるのか? 貴族だもんな」

「いない。他人を私室にいれたくない」

「じゃあこの飯は?」

「……口に合わなかったか?」

 

 どうでもよさそうにディズジェーロは言う。ぱちぱちと目を瞬いて、アシエルは首を横に振った。

 

「いや、うまかったよ。ディーが作ってんの?」

 

 口ぶりからしてそうなのだろうと思いつつ、驚きを交えてアシエルは尋ねる。貴族が自炊するなど聞いたこともなかったが、当たり前のようにディズジェーロは頷いた。

 

「毒が入ると味が落ちる。腐った料理よりたちが悪い。舌に乗せただけで一日気分が悪くなる」

 

 さらりと返された答えに、アシエルは顔を引きつらせる。

 

「味以前の問題だろ! そんな毎日毒入り料理が出てくんの? 怖えな、貴族社会」

「少なくとも、今の立場に就く前はそうだった。血筋も知れない養子は、嫌がらせをするにはちょうど良かったのだろう」

「いちいち重い人生送ってきてるよな……。まあ、おかげで今俺はあったかくてうまい飯を食わせてもらえてるわけだし、自分で作ろうって思い立ったガキのころのディーにはキスしてやりたいくらいだな」

「キス?」

「おでこにするやつ。いい子いい子ってな」

 

 アシエルが幼いころ、母親によくされた記憶がある。己の額を指さしながらそう言うと、ディズジェーロは先ほどと同じく、戸惑いと困惑を混ぜ込んだ迷子のような顔をした。

 

「……今でもいいぜ? してやろうか?」

 

 茶化すように問いかければ、ディズジェーロは「結構だ」と嫌そうに目元を引きつらせた。読みやすい表情にけらけらと笑いつつ、アシエルは何気ない顔をして話題を変える。

 

「そういえばさ、窓、なんであんなにきっちり目張りしてるんだ? そんなに日光が苦手なのか」

「光は好きではないが……。あれは、透視の防止だ。特殊な素材でできている」

「透視? この部屋がどこにあるのか知らねえけど……貴族の部屋なら、上の方にあるんじゃねえの。いくらセンチネルだって見えないだろ」

「見えるから言っている」

「ふうん」

 

 アシエルは内心で舌打ちする。

 透視ができないということは、この部屋にいる限り、ゼークラフト中尉はアシエルを見つけられないということだ。仮想敵国の軍人(ディズジェーロ)と懇意にしすぎているところを見られてもそれはそれで別の問題が生じるので、良いのか悪いのかは難しいところであるが、部屋から出ることの重要性がさらに増した。

 

「なあ」

「お前は口を閉じると死ぬのか?」

 

 まめまめしく昼食まで置いて行ってくれるらしいディズジェーロを見ながら、思いつくままに絶えず質問を投げかけていたが、とうとう耐えかねたようにディズジェーロはアシエルの言葉を遮った。

 

「暇なんだよ」

「本でも読め」

 

 ディズジェーロは顎で本棚を示す。そこに並ぶ殴打力のありそうな書物をちらりと眺めて、アシエルは拗ねた子どものように口を尖らせた。

 

「そんな分厚い本、読める気がしねえ」

「文字は読めるのだろう?」

「一通りはな。訓練兵のころに習ったから、報告書の読み書きくらいはできるけど、本なんて聖書くらいしか読んだことねえし」

「敬虔なことだ」

「読ませられるんだよ。イーリスだと」

 

 だらりと頬杖をついて暇を訴えるアシエルを見て、ディズジェーロは熟考の末、本棚の奥から一冊の本を取り出した。

 シンプルな焦茶色の装丁をした、小指ほどの厚さの薄い本。簡易化された魔法陣の絵の横には、『神の住まう世界』というタイトルが刻まれている。渡された本をぱらぱらとめくってみると、ところどころに挿絵が差し込まれていた。文字があからさまに大きいことといい、子ども向けの本なのだろう。

 

「これは?」

「この程度なら読めるだろう。明かりは好きに使っていい。分からない場所があるなら言え。夜に教える」

「読み聞かせしてくれるって? ご親切にどうも。そこまでガキじゃねえぞ」

「物知らぬ子どもではないと言うのなら、無駄に暴れるのはやめろ。部屋が汚れる」

 

 責めるような眼差しを受け、アシエルは愛想笑いを浮かべてそっぽを向いた。駄目で元々と力尽くで結界を壊そうとしていたことは、お見通しらしい。

 

「分かった分かった。行ってらっしゃい、ディー」

「……先ほどから、それは何のつもりだ」

 

 ぼそりと問われた言葉に、アシエルは首を傾げる。問いの意味が分からなかった。

 

「何って? 見送ってるだけだろ。行ってらっしゃいには行ってきますじゃねえの、ご主人様」

「その呼び方はやめろ。気色が悪い」

「ペット扱いしたのはそっちだろうが。心配しなくたって、別に部屋を壊しはしねえよ。とっとと行ってこい」

 

 渡された本に目を落としながら言えば、不承不承といった様子で、ディズジェーロはぽつりと「行ってくる」と呟いた。

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