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38.交差する運命⑦

「ん? ああ……。まあ、言いたいことは色々あるけど、結果だけ見れば気持ちよかっただけだしな。別にお前に触られること自体は嫌じゃねえし。それより、もしかして、人の隣じゃ寝られねえ? ディーは耳もいいもんな。俺、いびきはかかないと思うけど」

 

 野営は何度もしているが、部隊の仲間にいびきや歯ぎしりを指摘されたことはない。記憶を探りながら言うが、ディズジェーロは相変わらず得体の知れないものを見る目をアシエルに向けるだけだった。

 家主が何も言わないのをいいことに、アシエルは我が物顔で水場を使い、寝支度を済ませて寝台に上がる。


「いつまでそうしてるんだよ」


 扉の前に立ち尽くしたままのディズジェーロに、アシエルは苦笑しながら声を掛ける。

 

「来いよ。お前、顔も気配もひどいぞ。一宿一飯の恩義……じゃ多分おさまらないけど、家賃代わりに調律くらいするよ」

 

 ディズジェーロには食事をもらった。ということは、アシエルが調律を申し出る口実ができたということだ。腹が膨れたおかげで、ささくれだっていた気分もどこかに行った。気になる気配を放置したままでは、眠れやしない。

 動く気配のないディズジェーロに、来い、ともう一度呼びかける。しぶしぶといった様子で近付いてきたディズジェーロの腕を掴んで、アシエルはディズジェーロを寝台に引きずり込んだ。

 

「そこに寝ろ、ディー」

「なぜ」

「いいから。散々人の体を好き勝手にいじったこと、ちょっとは気にしてるっつうなら、今くらいは言うこと聞けよ。会った時からやたら機嫌が悪いのだって、体調が悪いからだろ。その気配、気になるんだって」

 

 罪悪感を煽るだろう言い方をわざと選べば、ディズジェーロは口を閉ざしたまま、アシエルの言う通りに寝台へ体を横たえた。そこに、と指した位置ではなく、アシエルから遠い寝台の端であることだけが、唯一の抵抗だろうか。

 ディズジェーロに並ぶようにして寝台へ潜り込んだアシエルは、にっと歯を見せて微笑み掛けると、ディズジェーロの体に両腕を回した。途端に、ディズジェーロは全身を硬直させる。


「な――っ」

「何だよ。今さらだろ」

 

 自分は散々アシエルの体を舐めて噛んで触ったくせに、抱き寄せた程度で文句を言われるいわれはない。自分がしたことをもう忘れたのかと、よほど言ってやりたい気分だった。

 こつりと額を合わせながら、アシエルはディズジェーロの冷たい手を取り、指を絡める。


「エヴァンジェリン様に、もっと調律の効率がよくなるやり方を教わったんだ」

「エヴァンジェリン?」

 

 居心地が悪くてたまらないとばかりに目を泳がせていたくせに、アシエルがイーリスで出会った貴婦人の名を出した途端に、ディズジェーロは不機嫌そうに顔を歪めた。

 

「イーリスに来てたんだ。ディーの姉ちゃんなんだろ?」

「書類上は義姉というだけの話だ」

「エヴァンジェリン様と同じ言い方するのな。ディーのこと、心配してたぜ。いつもひどい気配だからって」

「心配? まさか。そんなもの、するものか。仕事以外では、近づくことすらない相手だ」

 

 吐き捨てるように言うディズジェーロに、アシエルは苦笑する。ディズジェーロもエヴァンジェリンも揃って口数が少ないだけに、何かが拗れてしまっているのだろう。

 

「俺にとってはガイドの先生なんだよ。……今日は少し深く繋ぐから、気分が悪かったら言え」

 

 回した腕で、ディズジェーロの体を引き寄せる。服越しに伝わる体温が、うっかり寝入ってしまいそうなほど心地よかった。アシエルがふ、と息をつけば、同じタイミングで、重なるように吐息の音が聞こえてくる。

 目を閉じて、精神を繋いだ。

 飲み込まれてしまいそうな濁流の中を泳ぐ方法はすでに知っている。暴走(ゾーンアウト)を起こしたセンチネルの精神世界で経験したことを、ただ応用すればいい。あの時アシエルを導いてくれたエヴァンジェリンは今この場にはいないけれど、アシエルが今潜り込んでいる海は、ディズジェーロのものなのだ。そう思うだけで、恐怖も躊躇も、飛沫となってかき消えた。

 これまでは表層から受け入れるだけだった。けれど、それではディズジェーロの力を調律しきれない。暗く濁った海に、アシエルは深く意識を沈めようとした。

 途端に、腕の中でディズジェーロの体が強張り、抵抗を伝えるように周囲の海の荒れが一気に増す。

 

「気持ち悪いか?」

「……い、や」

「ん。無理そうならいつでも言えよ。大丈夫だから」

 

 ディズジェーロの髪を撫でながら、アシエルは再び意識を内部に集中する。

 奥へ、奥へ。海のうねりと轟音を遠くで感じながら、その暗さと冷たさをすべて受け入れるように、アシエルは身を水中に漂わせる。

 けれどもいくら待とうと、ディズジェーロの感覚に同調することはできなかった。

 おそらくは、ディズジェーロが無意識に抵抗しているのだろう。表層だけの調律でさえ、初めてだと言っていた。深く精神を繋げた経験など、きっとディズジェーロにはないはずだ。

 浅く呼吸を繰り返すディズジェーロの背を撫でて宥めながら、アシエルは「大丈夫」と根気よく声をかけ続ける。


「目ぇ閉じて」


 合わせていた額を外す代わりに、アシエルはディズジェーロの頭を胸元に抱え込む。視界を覆い、耳を塞いでしまえるように。

 

「何も見なくていい。聞かなくていい。匂いも味も、肌の感覚も、今は全部忘れていい。代わりに俺だけを感じてくれ。ディーの苦しさを、俺に教えて」


 ゆっくりと、滲むように海の水が感覚を伝えはじめる。

 

「そう、それでいい。俺もディーの――ディズジェーロのことを知りたいんだ。そのまま預けてくれ。……大丈夫だから」

 

 水が内側に流れ込んでくる。それを受け入れ、ろ過しながら、ゆっくりと気が遠くなるような時間をかけて、アシエルは水の濁りを取り去っていった。

 アシエルの中に水が沁み込むたび、ぴりぴりと痺れるような苦痛が肌に広がった。目の奥には抉られるような痛みが。耳は風に張られるような痛みと不快感を訴え、体の奥深くから殴られ続けるような息苦しさと気分の悪さが沸き上がってくる。

――ああ、これが、ディズジェーロの世界か。

 世界すべてが己を(さいな)んでいるような感覚だった。体の内側から食い破られそうな痛みは、おそらくはディズジェーロが今までずっと感じてきた感覚であり、誰とも分かち合えなかった痛みなのだろう。けれど、この痛みでさえ、ディズジェーロが感じている苦痛の一部に過ぎない。

 ディズジェーロは、誰にも言えなかったアシエルの弱音を暴いてくれた。ならばアシエルだって、ディズジェーロの弱さを覗かせてもらわなければ不公平だ。

 

「これだけきつけりゃ、つらかっただろうに」

 

 広い海すべてを抱き込むことなどできないと分かっていたけれど、伸ばせるだけ両手を伸ばし、アシエルは抱え込めるだけの水を身の内に受け入れた。

 いまだ濁りは取り切れず、青く美しいはずの海には陰が差し込んでいる。けれどもたしかに潜ったときよりは改善された海の状態に、アシエルはそっと唇の端を上げた。

 精神の繋がりをゆっくりと解きながら、目を開ける。全力疾走した後のような荒い息が、己の口から漏れていた。ぽたぽたと流れて止まらぬ汗が目に染みる。一気に消耗した体力に顔をしかめながら、アシエルは悔しさを隠さず呟いた。

 

「あー……まだ調律しきれねえ。前よりは良くなってると思うんだけどな。深く潜れたし、前よりはやりやすいし。もう何回かやれば、多分、いける気がする……」

 

 と、そこで、もぞりと腕の中でディズジェーロが身じろぎした。

 顔を上げたディズジェーロは、とろりと力の抜けた無防備な表情をしていた。アシエルの汗で汚れることを気にする様子もなく、ディズジェーロは額をアシエルの額に寄せてくる。見るからに上機嫌な様子に苦笑しつつ、アシエルは「調子はどうよ」と問いかけた。

 

「気持ち悪いほど、気分が良い」

「なんだそれ」

 

 抱き合いながら、くしゃりと笑う。体中がぽかぽかとあたたかい。ふわふわとした不思議な幸福感は、アシエル自身の感覚か、それとも先ほどまで繋がっていたディズジェーロの感覚なのか判断がつかないが、とにかく気分が良かった。

 アシエルにつられるように、ディズジェーロが唇の端を上げて笑う。どこか幼い毒気のない笑みは、ディズジェーロの言葉に嘘がないことを感じさせた。

 ほんの少し顔を動かせば、唇どうしが触れそうな距離だった。笑みに誘われるようにうっかり顔を傾けかけて、すんでのところで思いとどまる。

 己は一体、何をしようとしているのか。

 ごまかすように、アシエルは慌てて言葉を紡いだ。

 

「気分がいいなら、何よりだ」

「ありがとう、アシエル」

 

 どこか舌足らずな言葉の響きに、脈が早まる。居た堪れなくなって目を逸らした拍子に、背に回されたディズジェーロの腕に力が込められた。

 ぎこちなくアシエルを抱きしめたディズジェーロは、そのままゆっくりと頭をアシエルの肩口に寄せてきた。髪が擦れてくすぐったい。文句を言おうとした瞬間、小さな声でディズジェーロは囁いた。

 

「……すまなかった」

「え?」

「私は、お前の意思を無視した。けれど、これからも無視をする。私はお前に死んでほしくない」

 

 アシエルはどんな顔をすればいいのかも分からず、ただ眉を寄せた。

 精神があれだけ乱れていれば、攻撃的にもなるだろう。感情に忠実になるのは、理性の制御が甘くなるからだ。強い力を持つセンチネルであればあるほど、その傾向は顕著になる。その感情が発露される先が不運にも自分であったというだけの話だ。

 もっとも、ディズジェーロの宣言からすると、どこまでが精神の乱れのせいで、どこまでが本人の意思だったのか、その境界は非常にあやしいところである。

 

「許さなくていい」

 

 掠れた声でディズジェーロが呟く。深く精神を繋いだ名残だろうか。アシエルにはその声が、言葉とは裏腹に、どうか嫌わないでくれと懇願しているようにしか聞こえなかった。

 ため息をつき、「顔上げろ」とぶっきらぼうに告げる。そろりと顔を上げたディズジェーロの額の前に手を上げて、アシエルは容赦なく中指をはじいた。顔をのけぞらせ、しかめ面をしたディズジェーロに、溜飲が下がる。

 

「いいよ、許す。俺も、ディーが何しようが自分のやりたいようにやるからな。でも次やったらお前の両手両足縛って泣こうが喚こうが同じことやり返すから、覚えとけよ」

「……肝に銘じておこう」

「ん」

 

 大きくあくびをする。目覚めたときとは違い、傍らにあるディズジェーロの体温に満足しながら、アシエルは目を閉じた。

 

「寝ようぜ。眠い。おやすみ、ディー」

 

 眠気を自覚してしまえばもう駄目だった。目を閉じた途端に、意識が遠ざかっていく。ディズジェーロの返事も待たぬまま、アシエルは深い寝息を立て始めた。

 

「おやすみ、アシエル」

 

 隣でそっとディズジェーロが呟く声を、夢の淵で聞いた気がした。

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