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37.交差する運命⑥

 さらりとした感触に頬を寄せる。柔らかい寝台の感触も、両手と両足を伸ばしてもなお余る広い寝台も、アシエルが普段使っているものとは比べものにならないほど質が良い。夢うつつに考えながら、アシエルは香りというほどの香りもない、強いて言えば太陽を浴びた布のような香りを、深く胸に吸い込んだ。

 ぼんやりと目を開く。部屋は暗く、今が朝か夜か、己がどれほど眠っていたのかも分からない。体がとにかく重くて、気を抜けばまた瞼を閉じてしまいそうだった。

 悪夢を見ない眠りは随分と久しぶりだ。物騒な任務を宣告されて以来、アシエルが深く眠れた夜はない。イーリスを出てからは、より一層張り詰めた神経のせいで、仮眠を取るのでさえ精一杯だった。

 

「起きたのか」

「んー……?」

 

 どこからか聞こえてきた声を探して、視線だけをそちらに向ける。作業机で何やら書き物をしていたのか、ペンを置く控えめな音がした。

 

「ディー?」

 

 明かりくらい付ければいいものを、こんな暗い部屋で何をやっているのだろう。そもそもなぜ、ディズジェーロがここにいるのだったか。まとまらない思考を巡らせながら、アシエルは重い体を無理やり起こす。途端に感じた肌寒さに、己が真っ裸であることに気が付いた。

 寝ぼけていた頭が一気に冴える。

 ディズジェーロと口論をして、喧嘩になった。いや、喧嘩というよりは、一方的に蹂躙された。全身を探られ、理性が飛ぶような深い快楽をいやというほど与えられ、熱のこもった声で繰り返し名を呼ばれては、抱きしめられたことを覚えている。

 枯れた無様な声で許しを請うて、誰にも言うつもりのなかった弱音を引きずり出された。ぐずぐずに精神をやられていた終盤の記憶はあやしいものがあるが、それでも耳に吹き込まれた言葉だけははっきりと覚えている。 


――私はアシエルが欲しい。勇者などいらない。お前にそばにいて欲しい。

 

「……っ! う、うう……くそ……」

 

 熱くなる頬をごまかすように、アシエルは頭を抱え込む。

 寝ている間に清拭でもされたのか、色んなもので汚れていたはずの体はすっかりときれいになっていた。化粧の名残どころか、縄の跡ひとつ残っていない。アシエルが意識を失った後、よほど丁寧に世話をしてくれたのだろう。気づいてしまうと、羞恥とも悔しさともつかない気持ちが湧き上がってくる。

 

「アシエル? どうかしたのか」

「どうかしたのかじゃねえよ! どうかするに決まってるだろうが。好き勝手やりやがって、ちくしょう……、けほっ」

 

 涼しい顔で問いかけるディズジェーロを反射的に怒鳴りつけるが、迫力のかけらもない掠れ声では、ろくに文句すら言えない。涙目になりながら空咳を繰り返すアシエルに、ディズジェーロは無言で水を差し出した。

 受け取った水を一気に喉に流し込む。よほど長く眠っていたのか、それとも目の前の男に苛まれていた時間が長かったのか、自分で思ったよりもかなり喉が渇いていた。

 

「どうも」

 

 ぶすくれながら空のカップを返すと同時に、唸るような低い音が体の奥から響いた。

 腹の音だった。

 

「……食事を用意しよう」

 

 ディズジェーロは何も指摘しなかった。表情を変えぬまま、一言それだけを告げて、どこぞへと姿を消していく。羞恥と怒りを込めて物言わず睨みつけること以外、アシエルには何もできなかった。

 ひとり残されたアシエルは、自分の寝かされていた部屋をぼんやりと見渡した。

 おそらくはディズジェーロの私室なのだろう。部屋の大きさの割には、家具の少ない部屋だった。大きな寝台と書類机、簡単な応接くらいはできそうな大きめのテーブル以外に、目立つ物はない。強いて言えば、魔術書や戦術書と思わしき分厚い本がきっちりと並べられた本棚だけが、部屋の主の個性を唯一滲ませている。

 窓は黒い布で覆われており、ぴっちりと目張りまでされている。ディズジェーロがイーリスで使っていた仮宿も同じ状態にされていたことを考えると、漏れ入る光自体が厭わしいのかもしれない。おまけに、よほど壁が厚いのか、耳を澄ませても音ひとつ聞こえないときた。

 

(監獄みたいな部屋だな)

 

 貴族が軟禁されるとしたら、こういう部屋になるのではなかろうか。

 そんなことを考えながら、アシエルはそろりと寝台から抜け出した。心の中で一言謝りながら、椅子に掛けられていたディズジェーロのローブを拝借する。連れてこられてきたときに着ていた白い儀式服は、見当たらなかったのだ。

 ローブを被った拍子に、胸元に下げられたままの赤い石が肌を掠める。


(取り上げなかったのか)

 

 複雑な思いで、アシエルはペンダントを握り込む。

 これがどういうものなのか、もうディズジェーロは知っているはずだ。魔力の移動を阻害できるならディズジェーロにとっては脅威にならないというだけかもしれないけれど、母の形見をアシエルに持たせたままにしてくれた優しさを、ありがたく思う反面、甘いとも感じた。

 ディズジェーロは食事を用意すると言っていた。どこかに食事を取りに行ったのか、部屋の奥に食料庫でもあるのか知らないが、逃げ出すならばディズジェーロの目が離れた今しかない。

 そばにいて欲しいと乞われて、心が揺れなかったと言えば嘘になる。

 けれどアシエルは軍人だ。命令から逃げ出すことは許されない。それをしてしまったが最後、アシエルはもう、自分がそう在りたい自分ではいられなくなる。

 加えて、イーリスからの刺客だと分かった上でアシエルを匿うなど、ディズジェーロもただでは済まないだろう。会わなかったことにしてしまうのが、互いにとって一番良い。

 部屋の扉に手を伸ばす。しかし、アシエルの指がドアノブに触れかけた瞬間、ばちりと電流が走った。

 

「……っ!」

 

 痛みをこらえて目を凝らすと、部屋全体に薄く張られた結界が見えた。外からの侵入を防ぐためのものではなく、中からの逃走を防ぐためのものだ。それも、ご丁寧に部屋のあちこちに魔法陣を設置した上で張られた、強度の高い面倒な術式。

 

「――逃がさない」

 

 背後でことりと皿を置く音がしたと思えば、腕を掴まれ、アシエルはなすすべもなく扉から遠ざけられた。

 ずるずると引きずられるように連行されたテーブルの上に置かれているのは、バターの香りを漂わせるつやつやのオムレツに、赤いフラゴラの果実。そして白パン。簡素ながら腹の膨れそうな軽食だった。

 湯気を立てる美味そうな食事を前に、アシエルはごくりと唾を飲み込む。思わず伸びそうになった手を辛うじて握り込み、アシエルはディズジェーロを睨みつける。

 

「手の込んだ檻だな」

「どこかの馬鹿な犬が、危険な場所に飛び込んでいっては困るからな。……食べないのか」

 

 ディズジェーロが手で食事を示す。数秒迷った後で、「神の恵みに感謝します」と手早く食前の祈りを捧げたアシエルは、置かれたフォークを手に取った。

 

「うまい」

「それは良かった」

「あ――」

 

 あんたは食べないのか、と聞こうとして、アシエルは口ごもる。いくら品が良いとはいえない下町言葉が骨まで染み付いているとはいえ、あくまで知人の域を超えないよう、アシエルはディズジェーロに対して一応の礼儀を払ってきたつもりだ。けれど、散々てめえだのこの野郎だのと罵った相手に対して、今さら口調に気を使うことに、どれだけの意味があるだろう。

 意味もなく舌打ちをして、アシエルは言い直す。

 

「……ディーは食わねえの? うまいぞ」

「いい。今は深夜だ。食欲もない」

 

 淡々と呟くディズジェーロの声には、隠しきれない疲労が滲んでいた。暗がりのせいではっきりとは見えないが、記憶以上に隈がひどいし、頬から血の気が引いている。ディズジェーロの状態がひどいことはいつものことだが、食事や睡眠にまで影響が出るのは相当だ。

 調律した方がいいかもしれない。けれど、散々な目に合わされた上で、何もなかったかのように振る舞うのも癪だった。

 

「なあ、俺がここに来てからどれくらい時間が経ってる?」

「知る必要はない。食事を済ませたら寝ろ。まだ万全ではないのだろう」

「誰のせいだよ! 飯もらって檻の中でずっと寝てろって? 俺はお前のペットじゃないんだよ。出してくれ、ディー。あの結界、解いてくれよ」

「解けば死にに行くと分かっていて解くほど愚かではない」

「人を自殺志願者みたいに言うなよ」

「自殺志願者だろうが」

 

 ぎろりと向けられた視線に怯みつつ、アシエルはふかふかのパンにかぶりつく。しっかりと咀嚼してから、言い訳をするようにアシエルは口を開いた。

 

「別に俺だって死にに行くわけじゃない。たしかにちょっとリスクは高いけど、ディーだって危険な任務を押し付けられることくらいあるだろう? 軍人なんだし、元々覚悟してることじゃないか」

「考え方の相違だな。残念だが私は覚悟していない」

「え?」

 

 思わず顔を上げる。苛立ちも露わな瞳と、真っ向から視線がかち合った。

 

「目の前にいるのがお前だと分かった瞬間、心臓が凍った」


 それはアシエルとて同じである。だが、ディズジェーロが言いたいことはそういうことではないのだろう。感情を押し殺そうとして失敗したような掠れ声で、ディズジェーロは苦々しく続ける。


「一日二日で他国の――それも中枢への潜入の手筈が整うものか。根回しするなら、最低でもひと月はかかるはずだ。お前は前々から知っていたのだろう。知っていて何も言わなかった。違うか」

「それは……」

 

 アシエルは口ごもる。任務の内容までは話せなくとも、帰ってこられないかもしれないと伝える機会は、たしかにあった。けれど、ディズジェーロも含めて、誰にも何も言わないまま、ここに来ることを選んだのはアシエルだ。

 

「また来いと言ったくせに。何も知らないうちに勝手に死なれて、会いに行って見つけるのは、お前の名前が刻まれた空っぽの墓だけか、アシエル。ふざけるな」

「何も言わなかったのは、悪かったよ。任務が任務だから、言えなかった」

「任務が何であろうとお前は言わなかっただろう」

 

 図星なだけに、アシエルには目を逸らすことしかできなかった。

 

「普段はそうそう死ぬような任務はないし……いや、竜の討伐とかはあるけど……。でも、戦闘任務なら生存率は高いからさ」

「戦闘ならばそうだろう。だがこれは違う。お前に回されるべき任務ではない」

「それはユリア様が決めることだ。知ってるかディー。お前これ、軟禁って言うんだぜ」

 

 瑞々しい果実を口に放り込みながら、アシエルはじとりとディズジェーロを睨みつけた。けれど、当の本人は悪びれる気配もなく、「一時的なものだ」とさらりと告げる。

 

「どこまで理解しているか知らないが、今は状況が良くない。馬鹿が馬鹿な自殺行為をしなくても良くなれば解放する」

「イーリスの軍人を(かくま)ってるってバレたらまずいんじゃねえの」

「お前ひとり囲う程度、造作もない」

 

 ディズジェーロの声に冗談の気配はない。目の前の男は、どうやら本気でアシエルを軟禁しようとしているらしい。ひとえにこちらの命を案じているからだと分かるからこそ、余計にアシエルは途方に暮れた。

 

「嫌な言い方するなよ。なんで俺がお前に囲われなくちゃならねえんだ。……なあ、なんでそこまで俺なんかにこだわる」

「言ったはずだ。私はお前が欲しい。お前のことを知りたい。ともに時を過ごしたい。アシエル」

 

 飾ることも濁すこともしない言葉の羅列に、アシエルは両手を上げて降参したい気分だった。

 他人にむき出しの本心を告げることが怖くはないのだろうか。そもそも羞恥というものはないのか。眉尻を下げながらディズジェーロを見るが、言っている本人の顔には苛立ちしか伺えない。

 

「……あのさ、俺、もしかして口説かれてんの?」

「さあ」

「さあって何だ、さあって。適当なやつだな……」

 

 軽口を叩こうとしたけれど、うまい言葉が見つからない。ひたすらに真っ直ぐな眼差しから逃げるように、アシエルは視線を逸らした。


「一時的って、いつまでだ。今、テンペスタで何が起きてる」

「知る必要はないと、先ほども言った」

「おい」

 

 情報を与えるつもりはないらしい。声を低めて睨んでみても、ディズジェーロに取り合う気配は感じられなかった。

 ――どうしたものか。

 出された食事をきれいに平らげたアシエルは、行儀悪く椅子にもたれかかって目を閉じる。

 状況が良くないとディズジェーロは言うが、それは誰にとって、どんな風に良くないものなのか、アシエルは知らない。アシエルが送り込まれた理由の一端だって、それを知るためという部分が、少なからずあるはずだ。アシエルにとっての危険がなくなったころには、代わりに祖国が滅びていたなどという事態になっては、目も当てられない。

 アシエルの身を案じてくれるディズジェーロには悪いが、このままペットよろしく世話をされたまま、のうのうとひとり隠れているわけにはいかない。正攻法ではディズジェーロに敵わない以上、何か手段を考えなければ。

 

(部屋の外にさえ出られれば、ゼークラフト中尉と連絡が取れるはずだ)


「余計なことは考えるなよ」

 

 アシエルの思考を読んだかのように、空いた皿を片付けながらディズジェーロは冷たく言った。

 

「どちらにせよお前は出られない。捕虜にされたと思ってここにいればいい。恨むなら私の前に現れた己の不運を恨め」

「不運っつうか、幸運っつうか……。会いたいと思ってたから、ディーに会えたこと自体は嬉しいよ。状況がこうでさえなければの話だけどな」

「嬉しい……?」

 

 気味の悪い言葉を聞いたとでも言うように、ディズジェーロは顔をわずかに歪めた。言葉を探すように数回口を開閉したかと思えば、結局何も言わずに無表情を張り付けて、ディズジェーロはくるりと踵を返してしまう。


「どこ行くんだ」

 

 今は真夜中だと言っていなかったか。首を傾げて問いかけるが、ディズジェーロは答えなかった。代わりに、「部屋は好きに使え」と早口に告げる。

 

「明日の朝、また来る」

「来る? ここ、ディーの部屋じゃねえの? 真夜中から仕事ってことはさすがにないだろ? 用事なら朝にして、もう寝ようぜ。俺は眠い」

 

 言うだけ言ったアシエルは、大きなあくびをひとつ零して、立ち上がる。腹が膨れたせいで、ただでさえひどかった眠気が余計にひどくなっていた。


「お前は――」

 

 続く言葉が聞こえてこないことを不思議に思って顔を上げれば、不気味なものを見るように、ディズジェーロはじっとアシエルを見つめていた。

 

「何だよ」

「お前は自分が何をされたのか忘れたのか?」

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