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36.交差する運命⑤

 閉め切られた部屋には、陽光ひとつ届かない。呼吸の音さえ耳につくほど静かな部屋の中、ディズジェーロはアシエルを片手で押さえ込んだまま、歯で指先の布を抑えるようにして、器用に自身の手袋を取り去った。奇妙なほど様になる仕草に目を奪われているうちに、すでにほぼ服としての役割を果たしていなかった白のローブが、ゆっくりとアシエルの肩から落とされていく。同時に、ぱきりと音を立てて、首のタグが外された。

 ついでに腕の拘束も解いてくれればまだ逃げようもあるが、さすがにそこまで外してくれる気はないらしい。肌寒さと、全身を無防備に晒す心もとなさに、アシエルはぶるりと身を震わせた。


「怖いか」


 くすりと嘲るように、ディズジェーロが笑う。「ああ?」とアシエルは剣呑な声を返した。


「殴るなり蹴るなり好きにしろ。言わねえったら言わねえからな」

「殴る? 蹴る? まさか。お前相手にそれが効果的とは思えない」

 

 むき出しになったディズジェーロの手が、そっとアシエルの頬に添えられる。よほど目元の紅が気に入らないのか、ディズジェーロは、親指で何度もアシエルの目じりを拭っていた。気味が悪くなるほど丁寧な動作は、今の状況には似つかわしくない。何がしたいのか分からない行動に耐えているうちに、ディズジェーロの手はゆっくりと位置を下げていく。

 

「切り傷。火傷。咬み傷」

 

 鎖骨から肩へ。腕からわき腹へ。腹の中心から腰へ。アシエルの体に残った古い傷跡を、ひとつひとつ指先で辿りながら、ディズジェーロはぽつりと言う。

 

「よくもこれだけ傷を受けられるものだ。命に関わるものとて少なくなかっただろうに」

「見苦しくて悪かったな。誰かと違って、治癒魔術なんて便利なものは使えないもんでね」

 

 口を割らせるならば暴力と決まっているのに、何が楽しいのか、ディズジェーロは全身を強張らせるアシエルを宥めるように、ただ肌を撫でるだけだった。警戒しているせいか、それとも感情的になったせいなのか、ディズジェーロの手が動くたびに体が震えて煩わしい。

 

「……美しい体だ」

「は?」

 

 まるで馴染みのない形容に、思わずアシエルはぽかんと口を開く。

 

「センチネルのくせに目ぇ腐ってんのか? 傷だらけだって言ったばっかりだろうが。……つーか、やめろ、その触り方。何がしたいんだよ」

 

 肌に触れるか触れないかの際で、ディズジェーロの手が体を撫でていく。そのたび息を詰めながら、アシエルは顔を顰めた。

 ディズジェーロの冷えた手が、体温を移して自分と同じ温度になっていく。その感覚には、覚えがあった。

 おかしな薬に冒されて、ろくに動かぬ体を支えられ、抱き合いながら快楽を分け合った。一方的に押さえつけられ、体に触れられている現状とは、似ても似つかないというのに、ひとつ思い出すと、芋づる式に記憶が蘇ってくる。

 ぞくぞくと這い上がるような快感を思い出し、体が震えた。精神を繋いだときの得も言われぬ幸福感と、自他の差が曖昧になるほどの快楽を、この体は覚えている。

 一度思い出してしまうと、体は勝手に記憶をなぞり始めた。皮膚の凹凸を確かめるように触れられるたび、気付けばアシエルの体は、先ほどまでとは違う感覚を拾うようになっていた。

 

「だから、くすぐってえ……って」

「本当に?」

 

 そう言って唇だけで微笑むディズジェーロの顔は、腹が立つほど艶やかで、アシエルはただ歯を噛み締めることしかできなかった。

 けれど、悪趣味なはずの行為に怒りを感じこそすれ、嫌悪は一切感じない。そんな自分に気付いてしまえば、罵るための言葉を口には出せなかった。

 動物がそうするように、鼻先をアシエルの首筋にすり寄せたディズジェーロは、しかし気の抜けた仕草とは真逆に、凍るような声音で呟く。

 

「嫌ならすべて話せ。お前が口を割れば解放する。アシエル」

「話すことなんか何もねえよ。……つーか、そこで、しゃべるな。やめろ」

「やめない。――言え」

 

 首を緩く押さえられ、耳に吹き込まれるように囁かれる。恐怖とわけの分からない感覚がないまぜになって、全身にぞわりと鳥肌が立った。寒気によく似たその感覚を堪えながら、「嫌だね」とアシエルは吐き捨てる。

 繊細な手つきで触れられるたび、自分が自分でなくなるようで恐ろしかった。ディズジェーロの身の内の炎に焼かれて、引きずり込まれて、戻れなくなる。そんな漠然とした予感があった。

 

「大丈夫、アシエル。お前が話すまで寝かせない。何時間でも、何日でも。安心していい。水も食事も必要ない。疲れたらいくらでも治す」


 言葉の通り、ディズジェーロは懇切丁寧にアシエルの体を開いていった。



 どれほど時間が経っただろうか。気づけば頬は涙で濡れていて、意味をなさない母音だけが、勝手に口から溢れていた。

 張り付く髪の感触が煩わしいと思った矢先に、抱き起こされて、髪を優しく撫でつけられる。手の拘束を解かれていることにも気付かず、アシエルはただ背に感じる体温にくたりと身を任せた。

 ひくり、と喉が震えて、しゃくりあげるような音が喘ぎに混ざる。本気の泣きが入っていることに羞恥を感じる理性すら、アシエルには残っていなかった。

 膝の上に抱え上げられたアシエルは、涙を流しながら目の前の体に手を伸ばした。この状況で唯一安らぎを与えてくれる体温に、ただ縋りたかった。

 アシエルの髪を撫でながら、ディズジェーロは穏やかに言う。

 

「教えてほしい」

「なに……? なんだよ……、もう、いやだ」

「ああ、すまなかった。教えてくれれば、眠らせてやる。私はただ、お前のことが知りたいだけだ、アシエル」

 

 眠らせてやる、という言葉に、アシエルはゆっくりと頭を上げた。

 涙が止まらない。なぜこんなことになったのかも、もう分からない。ただ疲れていて、眠りたかった。

 

「お前はここに、何をしに来た?」

「しごと」

「どんな仕事だ」

「戦、をとめる……諜、報……」

「諜報? お前の仕事ではないだろう?」

「皇帝さえ、いなく、なれば……ふ、く……っ、ぜんぶ、とまるって。ユリア、さまが」

 

 言ってはいけないと思っていたはずなのに、口が勝手に動いていた。涙なのか汗なのか、涎なのかも分からない液体が顎を濡らし、首を滑り落ちていく。

 

「……暗殺か」

 

 アシエルは答えなかった。正確には、息が引きつって、それ以上話すことができなかった。宥めるように、ディズジェーロがアシエルの背を撫でる。

 

「なぜ受けた。なぜ逃げない。死ぬことが怖くはないのか」

「こわい」

「ならばなぜ、理不尽な命令を受け入れる」

「だって、おれは――」

 

 震える手を伸ばして、アシエルは己を抱える腕に触れる。指と指とを絡ませるように手を握ると、ほっとした。

 人肌は心地良い。生きていると実感できるから。

 

「おれは、勇者だから」

「勇者ではないだろう? それはお前の力ではない」

「でも、誰も知らない」

「言えばいい。……言ってしまえばいい」

 

 絡んだ指が、強くアシエルの手を握る。

 

「いえない。勇者じゃないおれはどこにもいられない」

「ここにいればいい」

「だめだ」

「なぜ。逃げたところで誰もお前を責めはしない」

「――だめなんだ」

 

 思考を垂れ流す己の声は、思いのほか固く響いて聞こえた。その声に勇気づけられるように、アシエルはわずかに正気を取り戻す。

 

「逃げて得をするのは俺だけだ。できることがあるのに、見ないふりはしたくない」

「お前はお前の命を見ていない。私はお前がお前自身の命を軽く投げ出すことが許せない。……『今だけ』でないと言ったくせに。嘘つき」

「ごめん」

 

 ここまでされてようやく、アシエルにも理解できた。

 ディズジェーロは怒っていた。回りくどい言葉から判断するならば、アシエルと、アシエルの周囲に対して怒っていたのだ。アシエル自身の命を軽く見積もったことを。

 

「このままここにいればいい。私はアシエルが欲しい。勇者などいらない。お前にそばにいて欲しい。『勇者』など死んだことにして、お前はただのアシエルになればいい」

「……っ!」

 

 かあ、と頬に熱が上がるのが分かった。唇がわななき、涙が頬を伝っていく。先程までとは異なる意味で喉が詰まり、苦しかった。

 アシエルは『勇者』ではない。そう呼ばれてはいても、自分が勇者に相応しいなどと、一度でも思ったことはなかった。そんなもの、中身は空っぽの、ただのハリボテでしかない称号だ。

 特殊部隊に所属していること。ユリア女王に目をかけられていること。平民のガイドが貴族のセンチネルばかりが集まる中で少尉階級を与えられていること。すべて『勇者』の称号の恩恵であって、アシエル自身の力ではない。

 アシエルに家族はいない。世間話を交わす賭け仲間や仕事の同期、日頃顔を合わせる女将はいても、友人といえるほど親しい者もいなければ、心を交わす恋人もいない。

 いついなくなっても困らない。勇者で在れないアシエルには、何の価値もない。

 それでも、誰かに必要とされたかった。

 顔をまともに見ていることすらできなくなって、アシエルは縋りつくように、ディズジェーロの肩口に顔を埋めた。

 

「勘弁してくれよ……」

 

 弱りきった声が漏れていく。

 好き勝手にされたせいで、今は頭がおかしくなっているだけだ。どれだけ魅力的な提案に思えても、そんなことは許されない。ぐらりと傾く心を自覚しながら、アシエルは必死に自分に言い聞かせた。

 

「アシエル?」

「……もう、つかれた。ディー」

 

 抱き着いたまま甘えるように言えば、アシエルを欲しいと言う物好きな男は、正しく意図を汲み取ってくれた。

 ディズジェーロの手がアシエルの体に伸ばされる。迎え入れるように、アシエルはディズジェーロの背に回した手に力を込めた。

 上質な布が、くしゃりと形を変える。

 肌を隔てる布がどうしようもなく邪魔だった。顔を上げぬまま、アシエルはちらりと横目でディズジェーロを伺う。熱に浮かされたような目をしているくせに、なぜ一方的にアシエルだけに快楽を与えるのか。分け合えば分け合っただけ気持ちがいいと、とっくに自分たちは知っているのに、なぜ。

 

「眠っていい」

 

 こんなときまで偉そうな言い方だった。おやすみの一言くらい言えないのかと詰ることもできぬまま、アシエルの意識はゆっくりと暗闇に飲み込まれていった。

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