34.交差する運命③
ゾーエの仕事を手伝って過ごし、仕事場の隅で夜を明かした翌日。アシエルが朝食に支給されたカビかけの黒パンを齧っていると、唐突に昨日の白衣の男が仕事場へと駆け込んできた。
「タグ付き、タグ付き……ああ、いた!」
焦った様子で周囲の下級使用人たちを押しのけた男は、アシエルを見つけるや否や、肩に掴みかかる勢いで全身をじろじろと眺め回してきた。どうしたのかと聞くより早く、男は「スカンツィ伯爵のお召しだ!」と唾を飛ばしながら喚く。
「みすぼらしいかな? ぎりぎり行ける? ああ、どうしよう。こんなに早く呼び出されると思ってなかったから、何も用意してない!」
伸び放題の無精ひげに、くたびれた白衣をまとった男は、見た目通りに適当な性格をしているらしい。「まあいっか!」とヤケクソ気味に呟くと、アシエルの両手を後ろ手に拘束し、黒い布を使って目隠しをした。もう少し下働きの者たちから情報収集をしてもよかったけれど、早く城に入り込めるというのなら願ったり叶ったりだ。アシエルに抵抗する理由はない。
ゾーエに挨拶をする時間もない。ともすればテンペスタに運ばれてきたときよりも忙しなく、アシエルは両脇から抱えられるようにしてどこかへと運ばれていく。途中、何階分もの階段を上がり、外を通り、そしてまた階段を上がった先で、アシエルは背中を乱暴に押され、床に投げ出された。
「……っ」
膝をつくように倒れ込む。ローブ越しに感じる冷たい床は、さぞかし上質な造りなのだろう。イーリスの王城の石造りの床にも劣らぬ滑らかさが伝わってきた。
「ご所望のガイドです。昨日仕入れたばかりなので、体力はあるはずです」
「みすぼらしいな。もう少しどうにかならなかったのか」
「あはは……すみません、スカンツィ伯爵。顔はまあ、そこまで汚くないので……」
ぐい、と髪を後ろに引かれ、顎を強引に逸らされる。
アシエルの顎を掴む男の手元からは、貴族男性らしい甘く渋みのある香りが漂ってきた。風通しの良い場所であれば決して悪臭にはならないのだろうが、至近距離で嗅ぐと頭がくらくらとする。
目隠しのせいで何も見えないが、部屋の中には複数人の護衛以外に、少なくとも三人の人間がいるようだった。アシエルの顎を掴んでいるのが、おそらくはスカンツィ伯爵。彼と向かい合う位置にも、誰かが座っているのか、足を組み替えたらしき衣ずれの音が響く。
そして、ふたりから距離を開けて、特徴的な気配を放つ誰かがひとり。
姿が見えなくても、声を聞かなくても、アシエルにはそれが誰か分かる。ぴりぴりと肌を総毛立たせる独特な気配の持ち主は、任務の前であれば会いたかったが、今この場においては、アシエルが最も会いたくない相手でもあった。
最後に宿で顔を合わせてから数週間経つが、おそらく一度も調律していないのだろう。こんなにも乱れのひどい気配を持つ者が、他にいるはずもない。
ディズジェーロが、この部屋にいた。
――まずい。
アシエルの背中を、冷たい汗が伝い落ちていく。
イーリスにいるのではなかったのか。見ないと思ったら、国に帰っていたのか。
(それならそうと言ってくれよ!)
アシエルは心の中で悲鳴を上げた。そういう自分も、死ぬかもしれない任務に出るとは一言たりとも相手に伝えていないが、己のことは棚上げする。
いくらアシエルと個人的な交流を持っていようが、ディズジェーロはテンペスタの軍人だ。テンペスタの城内でアシエルを見つけてしまえば、何らかの形で対処せざるを得ないだろう。むしろそうしてくれなければアシエルが困る。何かとアシエルに情けをかけてくれるこの男が、自分のせいで処罰を受けるような結果になってしまったら、どう償えばいいのか分からない。
顔を隠すフードを剥がされないことだけを、アシエルは一心に祈った。アシエルはディズジェーロの気配を感じることができるが、逆は成立しない。向こうもまさか、アシエルがこんなところにいるとは思わないはずだ。
顔さえ見られなければ何とかなる。
アシエルが必死で神に祈る中、スカンツィ伯爵は、媚びを滲ませた声音で、呑気に話し始めた。
「いかがですかな、ベイグラント公爵。最近はガイドが見つからないとお困りでしたでしょう? ご子息の体調のお手入れに、よろしければお使いください。長期任務から帰還して以来、調律を受けておられないと聞いております」
「そうだな。どうだ、ディズジェーロ。ご厚意に甘えなさい。近頃は気分が荒れているそうではないか。センチネルがそんなことではいかんだろう。ベイグラント家のためにも万全の状態でいてもらわなければ」
「さすが、ご家族思いでいらっしゃいますな。仲の良い親子で、羨ましいことでございます」
上品と言って差し支えない会話だが、聞いていると背中がぞわぞわとしてくる。明らかにうわべだけの会話がうすら寒いというのもあるが、どちらかと言うと、先ほどからこのふたりが口を開くたびに、ディズジェーロの気配が波立つから、という理由が大きい。余程どちらかの声が嫌いなのか、それともこの部屋に漂う甘い香りがつらいのかもしれない。
「さっそく試してみたらどうだ、ディズジェーロ」
「お気持ちだけ頂きます」
聞き覚えのある声が、ごく機械的に言葉を紡ぐ。
「そうおっしゃいますな、ベイグラント准将。皇帝陛下からの信も厚く、華々しい戦果を重ねる貴殿を、どうかこの私にも労わせてくれたまえ」
「必要ありません」
「……軍部に出突っ張りの貴殿には、こういったやり取りはなじみが薄いかね。それとも、流れる血というものは、細部にこそ現れてしまうのかな。厚意の申し出というものはね、受け取るべきものなのだよ」
貴族的な言い回しになじみの薄いアシエルにさえ分かるほど、紳士然としたスカンツィ伯爵の言葉は侮蔑と嘲りを滲ませていた。
聞こえよがしなため息を吐いたのは、ベイグラント公爵だろうか。ぱちりと指を鳴らす音が響いたかと思えば、素早く二人ほどの兵士が動いた気配がした。
「すまないね。多少の礼儀知らずには目をつむってくれたまえ」
不自然な足音が聞こえた。まるで、誰かを無理やり両脇から引きずり歩かせたかのような、かすかな暴力の気配を滲ませる音だ。
「強い力の代償か、これは何年経っても人の厚意というものを学習しないようでね。……あまり私の手を煩わせてくれるな、ディズジェーロ。我が国を心から思う同志の心遣いを汲み取れぬほど、愚鈍ではあるまい。お前は何のための臣なのだ?」
「……テンペスタの臣でございます」
「テンペスタの臣であり、ベイグラント家のための臣でもあることを忘れるな。自身の力の管理も仕事のうちだと、何度私はお前に教えればいい? いつまでも子どものように駄々をこねるのはやめなさい」
穏やかなのに、かけらたりとも情を感じない、冷たい声だった。とても親が子に向ける声とは思えない。
聞いているだけで気詰まりしそうな間を置いて、やがてぽつりとディズジェーロが呟いた。
「――かしこまりました」
人形が話しているかのような抑揚のない声に、ぞっと背筋が寒くなる。
すべてを諦めてしまったかのような、一切の生気というものが感じられない声。怒りや嫌悪で掠れる方が、まだしも健全だろう。普段から淡々とした話し方をする男ではあるけれど、こうまで無感情な声は初めて聞いた。
なぜ好き勝手に言わせているのか。いつものように他人を見下すような話し方で、嫌味のひとつでも返してやればいいものを。
(あんたは、俺とは違うはずだろう……!)
気づけば奥歯を噛み締めていた。物扱いを許すのも、他人に恭順するのも、ディズジェーロには似合わない。当の本人に怒りの気配どころか、逆らう様子すらないことが、癪に障って仕方がなかった。
こつり、と無機質な靴音が響く。
冷たい手袋の感触を、頬に感じた。指一本が触れるか触れないか程度の浅い接触だ。同じ冷たさでも、手袋の下にあるだろう冷えた指の感触とはまるで違う。何度も触れたはずの相手との間に、肌と肌とを隔てる膜が存在していることが、煩わしく思えてならなかった。
間近で感じる乱れた気配に、肌がひりつく。流しこまれた力は、接触の少なさに応じてごく微量だった。体全体がずっしりと重くなるような力を微量と表現することが適当かどうかは別として、ディズジェーロの力をまともに受ければ、感じる衝撃はこんなものではないのだから、そう表現するよりほかにない。
力の乱れは、心の悲鳴だ。ガイドだけが聞き取れる、センチネルの声だ。目を閉じれば、何度も受け入れたディズジェーロの力を目と鼻の先に強く感じた。
助けを求める声があって、伸ばせる手が自らにあるならば、それを差し伸べることはアシエルにとっては当然のことだった。膜越しに感じた力を、息をするようにアシエルは己の内に引き込む。
「――っ!」
瞬間、息を呑んだディズジェーロは、振り払うと言ってもいいような勢いで手を引いた。
「ん? どうかしたのかね、ベイグラント准将」
「いえ」
俯いたディズジェーロは、呻くように返事をした。
「なにも」
押し殺された声とともに、ディズジェーロの気配がざわめいた。背筋が凍るような、感情のうねりが伝わってくる。
――怒っている。
先ほどまでは人形のように大人しくしていたくせに、今や視界が閉じられていようと分かるほど鋭い視線を、ディズジェーロはアシエルに向けていた。
認識された。
顔は見られていないはずだ。精神を繋いだわけでもない。なぜ。どこで。どうして。焦りだけがぐるぐると頭をめぐる。
「気が変わりました。それを、頂いて帰っても?」
「あ、ああ……。それはもちろん、構わないよ。気に入ってくれたのなら、何よりだ」
「お心遣いに感謝いたします。急な用事を思い出しましたので、大変失礼とは存じますが、下がらせて頂きます。お会いできて光栄でした、スカンツィ伯爵。ベイグラント公爵も、また」
控えめな言葉とは真逆に、ディズジェーロの声音には有無を言わせぬ圧力があった。同席している者たちが言葉を返すのも待たず、ディズジェーロはアシエルの腕を強く掴む。引きずるように立たされたかと思えば、そのままアシエルは転移の魔術に巻き込まれていた。




