32.交差する運命①
その日は始まった瞬間からケチのついた日だった。
よりにもよって初雪が降った日に窓が壊れて、朝は自分のくしゃみで目が覚めた。着慣れたはずの軍服のボタンをなぜか掛け違ったと思えば、首元のボタンがちぎれていた。朝食を口に運ぼうとした瞬間、匙には羽虫が飛び込んできたし、出がけに限って席を外していた宿の女将には、挨拶できなかった。しまいには王宮への道中、馬車に泥を跳ねかけられた。
だから、嫌な予感はしていたのだ。
「準備が整った。アシエル。国境の農村テニア――お前の出身の村を経由してテンペスタ城へと潜り込めるよう、手配は済んでいる」
憂いを乗せた声でユリアは告げる。言葉の意味を理解してまずアシエルの心に浮かんだのは、まあそうだよな、という悲しい納得だった。今日はそういう一日だ。
謁見の間を飾る高窓には澄んだ冬空がのぞき、乾いた空気を感じさせる真っ白な陽光がちらちらと差し込んでいた。敵地に単身踏み込むという物騒な話をしていることが信じられないほど、穏やかな昼下がりだった。
渡された絵姿の写しに視線を落とす。今年の初めに描かれたという、皇帝グレゴリオの姿だ。枯草色の髪に紅茶色の瞳。豪奢な礼装に身を包んだ、頼りなさげな壮年の男。戦を起こそうとしている血気盛んな皇帝だとはとても信じられない。
「こちらでも最悪の場合に備えて準備は進めておくが、戦を回避するために、お前には全力を尽くしてほしい。頼りにしているよ」
「御心のままに」
――結局、ディーには会えなかったな。
深々と頭を下げながら、ふと思った。
エヴァンジェリンと約束した手前、任務に向かう前にディズジェーロと会っておきたかった。けれど、そんなことを言っても仕方がない。まだ死ぬと決まったわけではないし、死んだら殺すと当の本人に脅しつけられたことも記憶に新しい。アシエルにできることは、せいぜいまたイーリスに帰ってこられるように、全力を尽くすことだけなのだから。
王城を出て早々に、協力者と馬車に乗り込んだアシエルは、慣れぬ白粉の感触に辟易としながら、潜入の準備を整えていた。
ふとした拍子に鼻の下まではたかれた白粉が舞ったのか、粉っぽい空気が思い切り口内に侵入してくる。派手なくしゃみをしかけたところで、アシエルの理性が辛うじてそれを制止した。つんと痛む鼻を堪えつつ、アシエルはじとりと協力者の顔を睨む。
「神事じゃねえんだからさ、こんながっつり化粧する必要はないと思うよ。ゼークラフト中尉」
「ある。アシエル少尉は生意気そうな顔をしているから、多少は弱そうな風貌にしておかないと。目つきが気に入らないって痛めつけられるぞ。……その辺にいそうなごろつきに擬態させろっていうなら簡単なんだけどなあ」
「ごろつきになっても仕方ねえだろ」
「だからこうして念入りに化粧してるんだろう。姿変えの魔術、使えないんだろう? 攻性術式は得意だけど、補助術式は苦手だもんな」
「こまごました術式は難しいんだよ」
「分かるけどさ。ほら、顔上げて」
顎を掴まれ、目元を筆でなぞられる。くすぐったさに肩をすくめても、ゼークラフト中尉は極めて真剣な表情を崩さなかった。アシエルに申し付けられた任務を知っているのか知らないのか、潜入するまでの協力者として付けられたゼークラフト中尉は、合流した時からこの調子だ。
やたらと慣れた手つきの理由を聞けば、「慣れているから」と説明にならない言葉を返された。ディズジェーロも隠密任務が多いようなことを匂わせていたし、情報収集に長けたセンチネルは、特殊な任務を与えられる機会も多いのだろう。
「よし。顔は白粉でかなり不健康に見えるようになった。髪は油で撫でつけて下ろすとして……ヘッドバンドは、外していこう。目立つから」
「外さないとまずいか?」
正直なところ気は進まない。アシエルにとってはユリアから賜った思い入れのあるものだし、普段つけているものは、そこにあるだけで気分が落ち着く。
アシエルの暗い声を聞き、困ったようにゼークラフト中尉は苦笑した。
「上等な布でできているものを、これから売られるって人間が付けていたら不自然だよ。安心してくれ。ちゃんと預かっておくから」
「なくさないでくれよ」
「ああ。戻ったら取りに来い。額の傷跡が気になるなら、白粉、厚めにはたいとくか?」
「いい。フードで隠す。傷跡が見えたら見えたで、みすぼらしい感じになっていいんじゃねえ?」
「うーん……まあ、額ならいいか。体の傷跡はどこからどう見たって戦闘職だからまずいと思うけど」
「誰が見るんだよ」
裸にされて検分されたら武器すらろくに持ち込めない。そのための手回しではないのかと問えば、ゼークラフト中尉は肩をすくめた。
「いつも全部が計画通りに行くわけじゃない。用心に越したことはないさ」
そう言ってヴェールのような半透明のフードを被せたゼークラフト中尉は、「悪くない仕上がりだ」と得意げに笑って、アシエルに小さな手鏡を手渡した。
「おお……すげえ不健康そう……」
鏡の中には、顔だけ見れば男とも女ともつかない人間が映り込んでいた。中性的という意味ではなく、やつれて見える化粧のせいで、性別以前に生気が感じられないのだ。血色のない顔面の中で、目元を薄く彩る赤だけが、唯一鮮烈に視線を引いた。
「いい出来だろう? 筋肉さえ隠せば少尉はそこまで体格に恵まれているわけでもないし、儚げに見えなくもない」
「儚げっつうか、今にも死にそうっつうか……。顔に紫のあざでもありゃもっと様になりそうだな。服もボロいし」
会話を交わしつつ、アシエルは袖を持ち上げ、前後に軽く振ってみた。アシエルが着せられたのは、普段の黒一色の軍服とは真逆の、白くボロいローブだ。踝までをすっぽり覆う大きなローブは、神事で祈り手たちが身に着ける儀式服とよく似ていた。服の大きさも相まって、弱弱しく迫力にかけて見えることだろう。
「でも、どうせテニア村の村長経由で売り物にねじこんでもらうんだろう? ここまでする必要、あったのか?」
「念のためだよ。いかにも弱そうな風体をしている方が、あちらさんも油断してくれる。警戒されたら、『塔』行きの商品から外されるかもしれないだろう」
今回アシエルがテンペスタへの潜入に使うのは、国境で行われているガイドの密売買ルートだ。平民の間では口減らしを兼ねた人買いはありふれた話であるが、近頃は戦や自然災害への不安もあってか、平民に加えて貴族の間でも、金と引き換えに能力に秀でた者を買い集める動きが盛んらしい。とりわけ、テンペスタの城に隣接する『塔』と呼ばれる研究施設は、ガイドの奴隷を秘密裏に集めているのだと前もって聞かされていた。
「テニア村、見えてきたな」
窓を覗いて、緊張した様子でゼークラフト中尉が呟く。
「たしか、アシエル少尉の故郷だったよな。久々の帰郷がこんな形っていうのも、酷な話だな……」
「そうでもないさ。任務でもなけりゃ、元々二度と来るつもりもなかった場所だし」
「え?」
困惑するゼークラフト中尉に、アシエルは肩をすくめて皮肉げに笑ってみせた。
「母親が死んだときに、俺、村長やってた爺さんに売られかけたんだよ。向こうは今も変わらず村長やってるって聞いてる。前はなんとか逃げられたけど、今回は本当に売られることになるって思うと、不思議なもんだよな。これも神のお導きかね」
「それは……悪いことを聞いた。ごめん」
「謝らないでくれよ。ただの愚痴だ」
ひらひらと手を振るが、生真面目な同僚は、神妙な顔を崩さなかった。
「少尉がテンペスタに引き渡されるまで、余計なことはさせないよ。安心しろ」
「ああ。うまくいくといいけどな」
会話が終わり、沈黙が落ちる。これからのことを考えるだけで、息が詰まって仕方がない。馬車の車輪が立てる音は、こんなにも喧しいものだっただろうか。居心地の悪さに身じろぎしたそのとき、唐突にゼークラフト中尉が口を開いた。
「テンペスタの城内に入ってしまうとほとんど助けにはなれないけど……いざとなったら死ぬ前に転移魔術で逃げてこいよ、少尉。口裏合わせならするからさ」
ごく真面目に告げられた言葉に、アシエルはぎょっと目を見開く。
「俺の任務、知ってるのか? ゼークラフト中尉」
「詳しい話は聞いていない。俺が命じられているのは、城内の監視と連絡役だけだから。でもまあ、部隊全体への任務でもない上、センチネルでもないアシエル少尉が、武器を持ったままの潜入を命じられたとくれば、大体察しはつくよ。……いつも、少尉ばっかりだよな。こういうの」
はっきりとした言葉こそ使わなかったが、ゼークラフト中尉が、命がけの任務を課せられているアシエルを案じてくれていることだけはよく分かった。それだけに、先の言葉を聞き逃すことはできない。
「虚偽報告なんてしたら、お前の首が飛ぶぞ」
「俺は目のセンチネルだよ。他人に見えないものを見るのが、俺の仕事だ。俺の言葉が虚偽かどうかなんて、俺以外の誰にも分かりやしない」
「――やめろ」
この同僚が身分を気にせずアシエルを気にかけてくれる善人だとは知っている。それでも、自分を庇って誰かが危険に身をさらすなど真っ平ごめんだった。アシエルが強く睨みつけると、怯んだようにゼークラフト中尉は眉尻を下げる。
「俺だって、同期が心配なんだよ」
「ありがとう。でもやめてくれ。俺は俺の仕事をする。お前もお前の仕事をしてくれ、ゼークラフト中尉。頼むから、余計なことはするな」
「……分かったよ。神の加護があることを、せめて祈っている」
掠れた声で呟いて、ゼークラフト中尉はしゅんと口を閉ざした。
寂れた農村テニアは、気味が悪いほど静かな村だった。幼い頃、アシエルが母とふたりで慎ましく暮らしていた場所のはずなのに、懐かしさはかけらも感じない。
村の奥には、古屋敷がひっそりと建っている。忌まわしい記憶のままの陰気な佇まいを目にした途端、胸がムカムカとした。
「失礼する」
ゼークラフト中尉が扉を叩くと、奥から村長が顔を出してきた。骨と皮だけでできているような薄い体の老人は、じとりと無遠慮な視線をアシエルに据えると、「そいつかい。ガイドの生贄は」としゃがれた声で言い放つ。人を人とも思わない、値踏みするような瞳が癪に触った。
「お貴族様の命令だからやるが、責任は取らんぞ。わしらは何も知らん。ただ、迷い込んできた間抜けな旅人のガイドを売るだけだ。構わんな」
「ああ、それでいいよ」
低い声で応じると、老人は目を細めてアシエルを眺め回した。かと思えば、数秒もしないうちに興味を失い、背を向ける。
「引き渡しは夜だ。それまで寝るなり何なり好きにしな」
一言言い捨て、おぼつかない足取りで奥に引っ込んでいく村長の背中を、アシエルは複雑な気持ちで見送った。
アシエルがテニア村を出たのは、声変わりも終えていない時代の話だ。重ねた年月を思えば、ここにいるのが十年以上前に村に住んでいた子どもなのだと、村長が気づかないのも無理はない。頭では分かっていても、納得はできなかった。奴隷商人に売り飛ばそうとした挙句、酒瓶で一生ものの傷まで負わせたくせに、向こうはアシエルのことを綺麗さっぱり忘れているのだと思うと、やるせない。
拳を握るアシエルの背を、ゼークラフト中尉が励ますように叩く。
「……気をつけて」
視線を合わせて、頷いた。
家屋から出て行くゼークラフト中尉を見送って、アシエルは部屋の片隅に座り込む。扉の隙間から漏れ入る光が赤く染まり、藍色に沈んでいく様子を、アシエルは静かに眺めていた。
日がすっかりと沈むころ、外に人の気配を感じた。うとうとと浅い眠りに落ちていた意識が、急速に浮上する。扉が開く音とともに、数人の足音が聞こえた。反射的に構えそうになる体を、アシエルは理性で抑える。
「こいつか?」
「ああ。早く連れて行ってくれ」
「薬は打ったフリだけでいいって言われてたよな」
「そうだ。羽振りのいいお貴族様のご命令だ。わしらは言われたことだけすればいい」
ぼそぼそと村長と商人が会話を交わす声が聞こえてくる。ややあって、どすどすと足音を立てて近寄ってきた奴隷商人が、ぐいと腕を乱暴に掴んで、アシエルの体を引っ張り起こした。間近に寄せられた松明の眩しさに、アシエルは無言で目を細める。
「面は……悪くないな。まあ、これならいいだろ」
冷たく呟いた商人は、そのまま引きずるようにアシエルを馬車の荷台へと放り込んだ。
――任務の始まりだ。
荷台の上で揺られること、早半日。夜通し街道を走った馬車は、太陽が真上に登るころ、ようやく動きを止めた。あちらこちらに打ち付けられた肩や背中は、すでに痛みを通り越して感覚を失っている。
荷台から降ろされたアシエルは、陽光の眩しさにたまらず目を細めた。晴れているにも関わらず薄く霞んだ空は、イーリスでは見たことのない色をしていて、この地がアシエルにとって馴染みのない異国であることを突きつけてくる。
目の前には、見上げると首が痛くなりそうな高い建物があった。
(これが、『塔』)
「来い。歩け」
外観を観察する間もなく、奴隷商人はアシエルを裏口から建物の中へと連れて行く。扉を開けると、白衣を着た人間が疲れたように振り向いた。
「ああ、あんたか。ちょうど良いところに来てくれた。サンプルか? センチネル? それともガイド?」
「ガイドだ。二十代前半の男。体は健康。傷はあるが、醜男ではない。整えれば貴族への献上にも耐えるだろう」
「いいね。感応能力は?」
「測定してくれ」
むんずと顎を掴まれると同時に、喉元のローブを下げられた。気分は悪かったが、ここで逆らうわけにもいかない。無抵抗で喉を晒せば、白衣の男は首輪状の道具をアシエルの首に押し付けてきた。
「ぅ、ぐ……っ⁉︎」
金属と思わしき冷たい感触に身をすくめた瞬間、怖気が立つような感覚が全身に広がった。精神に無遠慮に立ち入られ、調律能力を強引に引きずり出されるような、筆舌に尽くしがたい苦痛が体を支配する。
吐き気を催す違和感を覚えたのは数秒だけで、冷たい金属の感触はすぐに肌から取り去られた。ちらりと道具を眺めた白衣の男は、満足そうに「悪くない」と頷く。
「二十代の男なら、耐久性もありそうだ」
「貴族に売れるか」
「ああ、ちょうど調整用のガイドが欲しいと要請が来ていたんだ。ええと……」
忙しなく辺りを確認した男は、難しい顔をして書類に目を通す。
「あった。スカンツィ伯爵。贈り物用だな。宛て先は……あの准将か」
「何かあるのか」
「いや、ガイドを使い潰すって有名なセンチネルなんだよ。もったいないな。あの方に献上するくらいなら、僕らの研究に使いたいのに」
「貴族に売れるならそっちに渡してくれよ。貴族と取り引きしたって事実は、それだけで箔が付くんだから」
人を人とも思わぬやり取りに、吐き気がした。潜入するためには都合が良いけれど、こんな取引が当たり前のようにこの世に存在するのだと思うと、怒りが湧いてくる。
フードの中でアシエルが顔を顰めている間に、話はまとまったらしい。「そのガイド、タグをつけて下働きたちのところに置いて行ってよ。机の中にあるからさ」と言い残して、白衣の男は足早に部屋を出て行った。
残された奴隷商人は、言われた通りに机から金属の輪を取り出して、アシエルの首に手際よく嵌めていく。会話の流れからして、これが『タグ』なのだろう。おかしな術式が仕込まれていないことを願うばかりだ。
首輪がしっかりと嵌っていることを確認した奴隷商人は、アシエルの腕を掴んだまま、長い階段を降りていく。長い螺旋階段を下り切ると、商人はアシエルの背を突き飛ばすようにして、開けた場所へと押し出した。
「俺の仕事はここまでだ。数日もすればお迎えが来るだろうよ。せいぜい良い飼い主に当たることを願うんだな」
ぶっきらぼうに言い捨てて、商人は一刻も早く関わりを絶ちたいと言わんばかりに背を翻した。




