31.悔恨する教師⑤
アシエルの混乱を察したかのように、エヴァンジェリンはさらりと「夫です」と告げる。
「夫? ……え? エヴァンジェリン様の夫ってことは――」
ユリア王女から聞かされた情報では、エヴァンジェリンは公爵家の夫人である。ならばその夫は公爵ではないのか。護衛されるべき側が、なぜ護衛のような顔をして混ざっているのか。あからさまに表情を強張らせたアシエルを見て、くつくつと上品に笑い声を立てた騎士は、指揮者のように指を一振りした。
黒髪が色を薄め、上品な薄茶色へと変化していく。短く整えられた髪が肩にかかるほどに伸び、ごくごく平凡だった顔立ちが、華やかなものへと変わっていく。
目の前でみるみる姿を変えていくヴァレンティーノ公爵を、アシエルは目を見開いて見つめた。いくら高位の貴族は魔力量が多く、魔術に長けたものも多いとはいえ、姿を自由自在に変えられる魔術師などそうそうお目にかかれるものではない。ディズジェーロといい目の前の男と言い、テンペスタには随分と優秀な魔術師が多いらしい。
「器用な魔術ですね」
「便利だろう? 暇つぶしに重宝しているんだ」
事もなげに紡がれた言葉に、アシエルは空笑いを返すことしかできなかった。
「さて、力の練習だったね。さっそく始めようか。私はそこまで感覚の鋭いセンチネルではないから、ここからでは民の会話など到底聞こえない。力を貸しておくれ。ガイド君」
ヴァレンティーノ公爵が恭しく手を差し出す。貴婦人をダンスに誘うがごとく優雅な仕草ではあるが、それをアシエルにされても反応に困る。頬を引きつらせながらエヴァンジェリンに視線を送れば、一歩前に進み出た彼女もまた、夫に倣うように手を差し出す。
「何をしているのです、アシエル。早く手を重ねなさい。精神を繋いで直接教える方が分かりやすいでしょう?」
あくまで真面目なエヴァンジェリンと、アシエルが対応に悩むことを承知の上であえてやっているのであろうヴァレンティーノ公爵。ふたり分の視線の圧力に負けて、アシエルは自らの両手をそれぞれの手に重ねた。あれこれと考えるよりは、とっとと終わらせてしまった方が良さそうだ。
祈るように目を閉じて、公爵の力に意識を向ける。ガイドの練習には慣れていると言うだけあって、緊張も抵抗も一切なく精神を繋ぐことができた。
穏やかな海だった。ヴァレンティーノ公爵の精神は、これまで見たことがないほど静かで、波がない。エヴァンジェリンが日々念入りに整えているのだろう。潜るときさえ一切の負担を感じなかった。まったく知らない他人であるため、居心地の悪さは拭えないが、それはアシエルの心持ちの問題だ。
「暴走したセンチネルを調律するときと要領は同じです。潜り込んで同調した後、負担を一部ガイドが引き受けた上で、センチネルの感覚が鋭敏になる方向へと誘導します。ただし、感覚の同調を助けるために深く繋ぐだけですから、中央まで潜る必要はありません」
ふわりと海に身を預けながら、エヴァンジェリンがアシエルにやり方を教えてくれる。他人の精神の中でそうも心地良さそうにできるというだけで、この夫婦が良い信頼関係を築いているのだろうことが伺えた。
「問題があれば、わたくしがサポートします。できそうですか、アシエル?」
「やってみます。……じゃあ、すみません、公爵様。感覚を強めます」
一声かけた上で、アシエルは深く意識を集中させた。自らの感覚を、センチネルの感覚にゆっくりと同調させていく。
ざわめきでしかなかった遠くの音が、言葉として聞こえ始めた。ここからどうすれば、と悩んだところで、アシエルはエヴァンジェリンの力に導かれる。海に身を預け、自らを溶かすようにして、ほんの少しセンチネルの背を押してやればいいのだと、エヴァンジェリンの力が教えてくれた。
耳に届く言葉が、次第に鮮明になっていく。絶え間なく聞こえる声にくらくらしつつ、アシエルはヴァレンティーノ公爵が聞き取る言葉に耳を澄ませた。
『ママ! あの鐘、何? うるさかったね』
『葬送の鐘。じいちゃんが言ってた』
『国王は体調を崩しておられたから』
『王女様がお触れを出すんじゃないか』
『国王様が、ご崩御なされた』
――崩御?
意味を理解した途端、動揺のあまり、ヴァレンティーノ公爵との繋がりがぷつりと途切れる。
ばくばくと心臓が嫌な音を立てていた。たしかに国王陛下は体調を崩していたし、実質的な政務を行っていたのはユリア王女だった。それでも、命を落とすほど病状が悪くなっていたとは知らなかった。
「筋がいいねえ、ガイド君。よく聞こえたよ」
のんびりとした声が正面から聞こえて、アシエルはびくりと肩を揺らす。驚きに呆けている場合ではないと思い出し、慌ててアシエルは姿勢を正した。
「すみません、途中で切ってしまって」
「構わないよ。聞きたいことは聞けただろう?」
「はい。……王城に戻りましょう。今は街の者たちも混乱していますから、何が起こるか分かりません」
早口に言って背を翻そうとした瞬間、柔らかな手がアシエルの手をそっと包み込んだ。
「城に戻る前に、少しだけいいですか」
両手でアシエルの手を握ったエヴァンジェリンは、真剣な顔で口を開いた。
「数日間、わたくしの我が儘に突き合わせて申し訳ありませんでした。護衛を引き受けてくれたこと、神殿の案内をしてくれたこと、あなたに感謝しています。ありがとう、アシエル」
「いえ、そんな! こちらこそ、ガイドのことを教えてくださってありがとうございました、エヴァンジェリン様。公爵閣下も。その、上手くできなくて、お恥ずかしい限りですが」
「はじめから誰もが上手くできるのなら、教師など必要ありません。調律も、能力の増幅も、あなたは十分上手にできていましたよ」
「あ、ありがとうございます」
柔らかな微笑みと褒め言葉に、じわじわと頬が熱くなる。アシエルの手を握る力を強めたエヴァンジェリンは、何かを願うように目を細めると、静かな声で呟いた。
「自分と向き合い、センチネルと向き合いなさい。相手への理解が深まれば深まるほど、深く調律できるようになりますから。調律したい相手の心に寄り添うことができれば、あなたは今以上に素晴らしいガイドになることでしょう」
「精進します」
「今度こそきちんとお礼を言わせてくださいね。楽しみにお待ちしています」
含みの込められた言葉が指すものは、ディズジェーロの調律のことだろう。
「約束します」と力強くアシエルは頷いた。
「ええ、約束ですよ。……短い時間でしたが、こうしてあなたと出会えて、お話できてよかった。どうかお元気で、アシエル」
エヴァンジェリンの手が離れていく。触れていた温度がなくなった途端、一気に空気の冷たさを感じた。
「まるで別れの挨拶みたいですね」
アシエルはぎこちなく笑顔を作る。「お別れですよ」と、どこか悲しげにエヴァンジェリンは答えた。
「鐘はすでに鳴らされました。ユリア様にお会いしたあと、わたくしたちは明日にでもイーリスを出ます」
含みのある言葉を口にしたエヴァンジェリンは、先ほどまでの微笑みが幻であったかのように、すっと表情を消した。
「時間を取らせましたね。王城へ参りましょう。苦しい状況にあられるユリア様に、お悔やみを申し上げなくては」
「仰せのままに。……数日間ご一緒出来て、光栄でした」
深く頭を下げたあと、近衛騎士たちと連れ立って、アシエルはヴァレンティーノ公爵夫妻を王城へと送り届けた。
閉ざされる扉と、その奥へと消えていくエヴァンジェリンの背中を見送りながら、アシエルは力なく項垂れる。
エヴァンジェリンの護衛任務は、これで終わるのだろう。
楽しい任務だったな、とぼんやり思う。称号も名声もいらないから、こんな風に、生まれ持った力と訓練で身につけた力を活かして、細々と毎日の糧を稼げればそれでいい。かつて軍に入隊した当初、アシエルが望んだ未来は、そんな凡庸なものであったはずだったのに。
けれど、神はアシエルの祈りに耳を傾けない。
訓練と臨時任務を終えたアシエルに、王女から女王へと立場を変えたユリアから名指しの呼び出しがかけられたのは、それから数日と経たぬ日――イーリスの王都に今冬はじめての雪が舞った日のことだった。




