30.悔恨する教師④
うろうろと視線をさまよわせた後で、彼女は「そうですね」と目を伏せる。
「調律の相性という、曖昧な言葉が嫌いでした。方法が悪いというならまだ納得できますから、色々な調律の方法を調べては試してきました。ガイドとセンチネルの受ける負担は、やり方しだいで変えられるのです。知ったならば、物知らぬガイドが自分と同じ過ちを繰り返す前に、伝えるべきでしょう? それに、わたくし自身では力及ばずとも、それを成し遂げられる方の成長を手助けすることはできますから」
回りくどい言い方だが、それはエヴァンジェリンがずっとディズジェーロを気に掛けてきたということに他ならない。やり方こそ不器用だけれど、繋いだ精神から感じた通りの優しい人なのだろう。
「……少し話しすぎましたね」
アシエルの視線から逃げるように、エヴァンジェリンは早口で言葉を継いだ。
「わたくしが申し上げたかったのは、あなたのなさったことは、これまで誰も成し遂げられなかった偉業だということです。義弟の命を救ってくれたこと、心から感謝します。ありがとう、アシエル」
そう言って、エヴァンジェリンは深々とアシエルに向かって頭を下げた。はらりと耳から落ちる水色の髪の軌跡を、ぎょっとしながら目で追う。言葉遣いに気を配ることも忘れて、慌ててアシエルは口を開いた。
「やめてくれって、エヴァンジェリン様! そんな風に言ってもらうほどのことはしてねえよ」
「いいえ。あなたが手を差し伸べなければ、そう遠くない未来にディズジェーロは狂い、命を落としていたでしょう。分かるのです。ガイドですから」
エヴァンジェリンは頭を上げなかった。アシエルが感謝を受け入れるまで、上げないつもりかもしれない。困り果てたアシエルは、エヴァンジェリンの顔をそろりと下から覗き込むようにして、強引に視線を合わせた。
「エヴァンジェリン様はそう言いますけど、俺はやっぱり、感謝されるほどのことはまだできていないと思います。ディズジェーロには、返しきれないくらい散々借りを作ってるし……。ありがとうって言ってくれるなら、言ってもらえるだけのことをちゃんとしてからにさせてください」
「そんな――」
「なら、エヴァンジェリン様さえ良ければ、イーリスにいる間に、もっとガイドのことを教えてくれませんか」
目をぱちくりとさせるエヴァンジェリンへ、アシエルはにかりと微笑みかけた。
「さっきも言った通り、俺、きちんと誰かに教わったことがないんです。俺が未熟なせいで、今はまだディズジェーロの力を完全には調律できません。でも、エヴァンジェリン様が教えてくれたら、できるようになるかもしれない。礼の言葉は、調律できるようになったそのときに。そういうのは、ダメですか」
「……ずるい言い方をしますこと」
不貞腐れたように顔を上げて、エヴァンジェリンはじとりとアシエルを睨みつけた。ディズジェーロと顔立ちは似ていないはずなのに、そういう顔をすると、冷たい雰囲気が一気に崩れるところがよく似ている。
「言っておきますが、わたくしは厳しいですよ、アシエル」
「望むところです。弟さんのあの気の毒なほど荒れた力を、一緒に調律してやりましょうよ」
アシエルが笑みを深めてそう言うと、つられるようにエヴァンジェリンも口元を和らげた。
「……あなたは不思議な人ですね、アシエル。こんなことをしても、あなたには何の得もないでしょうに」
「得ならあります。俺の寝覚めがよくなる。自分にできることがあるかもしれないって分かってて、試しもしないのは、気分が悪いですから。もっとも、最近あいつ下町で見かけないんで、また会えるかどうか分かりませんけど……」
言いながら、アシエルは表情を曇らせる。テンペスタへの潜入任務に向かう前に会えたらいいとは願っているが、ディズジェーロが今どこにいるのかすら、アシエルには分からないのだ。
「あなたたちは、会うでしょう」
重々しい声でエヴァンジェリンは言い切った。笑顔の消えた表情は、先ほどまでの自信にあふれた様子とは打って変わって、弱々しく見える。
「わたくしはただ、それが戦場ではないことを祈るばかりです」
「物騒なことを言いますね」
アシエルとディズジェーロが戦場で顔を合わせる。その言葉が示唆するものは、イーリスとテンペスタの開戦だ。
引きつった笑顔の裏で、アシエルは胃を押さえたい気持ちに駆られた。考えずにいようと努めていたユリアとの不穏な会話を、嫌でも思い出してしまう。
「そろそろ、休憩は終わりにしましょう。資料調査の後、神殿にも足を運びたいですから」
それ以上の会話を拒絶するように、静かにエヴァンジェリンは席を立ち、本棚の間へと姿を消した。
神殿を見たいと言ったエヴァンジェリンは、午前中に図書館で資料を漁り、午後の空き時間に城下へと足を運ぶことを繰り返した。はじめの三日目までは、観光客に人気の神殿や貴族御用達の格調高い神殿を案内すれば事足りたが、四日目ともなると、王都の有名どころは回り切ってしまった。頭を悩ませた結果、アシエルたちはとうとう下町近隣の小神殿にまで足を伸ばすことにした。
「この辺りは少々寂れていますね」
獣道を歩きながら、エヴァンジェリンがぽつりと呟く。
下町の外れの森に、人気はない。耳をすませば小川の流れる音が聞こえてくるが、それ以外の音はといえば、軽やかに囀る鳥の声に混じって、時折下町の方向から子どもの甲高い叫び声が聞こえてくる程度だ。
邪魔な枝葉を切り落として道を整えつつ、アシエルは「神事用の神殿は、どこもこんなものですよ」と肩をすくめた。
「神事のときでもなければ、基本的には常駐の司祭以外、神殿には近付きません。観光用の神殿みたいに、景観に気を遣っている神殿の方がイーリスでは珍しい部類に入ります。そうは言っても、道くらい手入れして欲しいもんですけどね」
話しながら、アシエルはちらりと後ろを振り返る。
王城の外ということもあって、この場にいる護衛はアシエルだけではない。距離を置いて辺りを警戒する近衛騎士がふたりと、エヴァンジェリンをエスコートする見慣れぬテンペスタの騎士がさらにひとり。要人警護の本職たちがいる以上、今この場におけるアシエルの仕事は、護衛というより観光ガイドだ。木々の向こう側に見える小神殿を手で指しながら、仰々しくアシエルは口上を述べた。
「どうぞご覧ください。手前に見えますのが、イーリス王都の小神殿――通称、下町神殿です」
「まあ……」
木々のトンネルをくぐり抜けると同時に、エヴァンジェリンは感嘆の声を上げた。
緑溢れる地にひっそりと佇むのは、こじんまりとした古い神殿だ。木漏れ日が降り注ぐ石造りの神殿は、一見するとかわいらしいが、その実、王都にある神殿の中では一、二を争うほど歴史が深い。黒ずんだ石柱にはところどころ風化の跡があり、もう数十年もすれば、神殿というより遺跡と呼ばれるだろう貫禄があった。
「名前の通り、下町に住む庶民にとっては、一番馴染みが深い神殿です。神事は春と秋の二回ありますけど、場所が場所なので、祈り手でもなけりゃそうそう来ません」
小神殿の司祭に一言断ったあとで、アシエルはエヴァンジェリンを連れて、神殿の周囲を散策する。目を輝かせたエヴァンジェリンは、熱心に手元の紙へと何かを書きつけては、見たこともない小型の器具を使って何かを測定しているようだった。地点別の魔素量を測っているのだとは初日に聞いたが、詳細はアシエルの理解の外にある。数字や理屈、事象の裏にある理由を細かく知りたがるのは、テンペスタ人の国民性のようなものだ。ユリア王女が散策の許可を与えている以上、アシエルが口を出すことではない。
あちらこちらを歩き回ったエヴァンジェリンは、ややあって神殿前の広間で足を止めた。
「ここだけ異様に魔素の濃度が高いようですね」
難しい顔をしたエヴァンジェリンは、ドレスの裾を汚すことも厭わずしゃがみ込む。
「これは……魔法陣でしょうか?」
エヴァンジェリンが手で土を掘ると、地面に埋め込まれた巨大な石板が、わずかに姿を見せていた。後ろから覗き込んだアシエルは、「神事用の魔法陣ですね」と説明する。
「イーリスに古くから伝わる、結界に関連する魔法陣です。神事で祈り手たちが祝詞を捧げて、司祭様が魔力を流すと起動します」
「魔力を……?」
「はい。と言っても、実際には何が起こるわけでもない、綺麗なだけの魔法陣ですけど……って、エヴァンジェリン様、何を――」
制止する間もなく大地に両手をついたエヴァンジェリンは、魔力を石板へと流し込む。途端に、光で描かれた巨大な魔法陣が、ふわりと空中に浮かび上がった。正式な手順で起動したわけではないからか、魔法陣は木漏れ日に紛れるように、不安定に明滅していた。距離を置いて見守っていた近衛騎士たちも、さすがにこの事態には動揺したらしく、駆け寄ろうとしたところをテンペスタの騎士に止められている。
「まずいですって! 神殿の調査はともかく、結界に関係するものに触れるのは禁忌です!」
「少しだけ。どうしても気になるのです。……見てください」
「んん? この魔法陣、二重になってる……?」
目を凝らすと、巨大な魔法陣の真上に、蜘蛛の糸のように薄い光で描かれた魔法陣が見えた。角度を変えてじっと見ない限り、まず存在にも気がつかないだろう。何度か遠目に下町の神事を見たことはあったが、魔法陣が二重になっていたとは気づかなかった。
エヴァンジェリンは真剣な顔で魔法陣を見つめたまま、ぐっと眉を寄せる。
「上の魔法陣は、下の魔法陣と比べて新しいもののように見えませんか」
「言われてみると、そう見えないこともないですけど……、保持の魔術でしょうか? 司祭様が張ったんですかね?」
「いいえ、保持のためのものではありません」
苦りきった声で言うエヴァンジェリンは、魔法陣をきつく睨みつけた。彼女がそうも険しい顔をする理由が分からず、アシエルは困惑しながら魔法陣に目を向ける。古語で書かれた魔法陣の意味は、アシエルには読み取れない。
「逆です。穴を開けて、崩すためのもの。先の神殿でも確認しておくべきでした。もうここまで手を回しているとは思いませんでした」
どういう意味かと聞くより先に、唐突に鐘の音が聞こえてきた。普段聞き慣れたものよりも一段低い鐘の音が、街中に鳴り響く。
「……鐘? 何でこんな時間に?」
国を挙げての祭りでもない限り、朝夕の祈りの時間以外に鐘が鳴らされることは、まずありえない。首を傾げたアシエルは、立ち上がって辺りを見渡した。近衛騎士たちも同様に、困惑する様子を見せている。
訝しんでいる間にも、重々しい間隔を空けて複数回鳴り響いた鐘の音は、こだましながら静かに消えていった。鐘の音が聞こえなくなると、今度は下町の方角から、遠くざわめく声が聞こえてくる。何が起きたかは分からないが、異常事態が起きていることは間違いない。
「城に戻りましょう」
アシエルはエヴァンジェリンに声を掛けた。
「事態が確認できるまで、安全な場所に――エヴァンジェリン様?」
色濃い憂いを顔に浮かべたエヴァンジェリンは、口を閉ざして王城のある方角を見つめていた。再度アシエルが呼びかけると、エヴァンジェリンは今気がついたと言わんばかりにぱっと顔を上げる。アシエルに向き直った彼女は、しばし考え込むように頬に手を当てたかと思うと、「良い機会です。調律の応用練習をいたしましょうか」とぎこちなく微笑んだ。
「応用練習ですか? ありがたいですけど、今でなくても……」
「今だからこそです。何が起きているのか分からないときは、まずは事態を把握しなくては。ガイドにできることは、センチネルの乱れた力を整えるだけではありません。力の矛先を導いて、強化することもできるのですよ。――あなた」
アシエルの躊躇いを一言で切って捨てたエヴァンジェリンは、テンペスタの騎士にさっと声を掛けた。エヴァンジェリンをエスコートしていた、黒髪の青年騎士が近づいてくる。
「彼は聴覚のセンチネルなのです。民の声を拾えば、多少なりとも事情は分かるでしょう? 練習に協力していただきましょう」
「いいんですか?」
離れた場所から街中の会話を聞き分けるなど、センチネルには大きな負担がかかるはずだ。エヴァンジェリンと青年騎士とを交互に見ながら、アシエルは困惑とともに問いかける。
「構わないよ。慣れているからね」
鷹揚な答えはエヴァンジェリンではなく、騎士の方から返ってきた。他人のことを言えるほどアシエルとて礼儀に自信はないが、ただの護衛にしては、やたらと態度が大きい男だ。




