29.悔恨する教師③
ぱらり、ぱらりとページを繰る音が一定の速度で聞こえてくる。
早朝から王宮図書館に足を運んで小一時間、エヴァンジェリンは一心不乱に本を読み漁っていた。机に積み上げられている本は、どれもこれもイーリスの神事に関するものばかり。ユリア王女の知人だけあって信仰心が強いのか、それとも別の理由があるのか。いずれにせよ、貴族の考えることはアシエルには分からない。
あくびをかみ殺したそのとき、ぱたりと本を閉じる音が聞こえてきた。
「退屈そうですね、アシエル」
どきりとしつつ、慌ててアシエルは姿勢を正す。アシエルの返事を待たず、エヴァンジェリンは「休憩がてら話でもしましょうか」と言うと、手際よく本を脇に寄せてしまった。
「どうぞ。お座りなさい」
「……失礼します」
護衛が座るのはどうなのかとは思ったものの、視線の圧力に負けて、アシエルはおずおずとエヴァンジェリンの向かいに腰を下ろす。ぴんと伸びた背筋といい、一分の隙もない佇まいといい、エヴァンジェリンは貴族女性というよりも、まるで訓練兵の教官のようだった。集中力が切れたところを見逃してはくれないあたりなど、特に。
そんなことを考えていると、表情に出ていたのか、「……何か?」と訝しげにエヴァンジェリンが眉を顰める。
「いえ、その……先生って、こういう感じなのかなと思いまして。学校に通ったことはないので想像ですけど」
貴族の子女は家庭教師を招いて知識を学びつつ、一定の年齢に達すると学び舎に通うと聞いたことがある。しどろもどろに伝えると、エヴァンジェリンはわずかに表情を和らげ、頷いた。
「間違いではありませんね。わたくしは、教育にも携わっていますから」
「教えているのは魔術ですか? それとも、作法の先生でしょうか」
「ガイドの教育です。安全性の高い調律の方法や、ガイドとしての心構えを教えています。あなたに昨日したように、不慣れなガイドへの手解きをすることもありますよ」
「……どうりで」
暴走に対しても冷静に対処できる技量からして、経験豊かなガイドだろうとは思っていたが、専門の教師だというのなら納得がいく。
「学校に通っていないということは、あなたの調律の方法は、独学で身につけたものですか、アシエル」
お返しとばかりに、エヴァンジェリンは探るような目を向けてきた。「そうですね」と苦笑しながらアシエルは頷く。
「自己流です。部隊にはセンチネルの同僚が多いので、実践の機会には事欠きませんでした。でも気休めみたいなもので、きちんと勉強した本職のガイドのようにはできません」
本職のガイドを前に未熟を晒すのは、どうにも尻の座りが悪かった。しかし、そんなアシエルを叱りつけるように、エヴァンジェリンは「卑下することはありません」と言い放つ。
「あなたの調律を見れば、重ねた経験も、試行錯誤も分かります。あなたはセンチネルの心に寄り添うことを知っていた。ガイドとしてもっとも大切なことをすでに身に着けています。自信を持ちなさい」
「……はい。ありがとうございます」
「調律といえば――」
ふと、エヴァンジェリンは思い出したように頬に手を当てた。
「昨日のあなたの調律の仕方は、少し危ういように感じました。少しやり方を変えれば、さらに高度な調律もできるようになると思いますよ」
「高度な調律?」
アシエルの脳裏に浮かぶのは、死にそうな顔をしたディズジェーロのことだった。表面的な調律もどきでさえ、ああも感動してくれるほどなのだ。己の技量不足のせいでいつも中途半端にしか調律できないけれど、叶うことなら、一度でいいからディズジェーロに本当の調律をしてやりたかった。
「俺にもできることでしょうか」
「ええ、もちろん」
身を乗り出したアシエルの目を見つめ、エヴァンジェリンは力強く頷いた。
「あなたはセンチネルの心を、海と表現しましたね。調律するとき、あなたは海の水を自分の中に取り込んでいるように感じました。どちらかといえば、相手の中に入り込む――海に潜る、とイメージする方が、センチネルとの繋がりも深めやすくなりますし、安全性も高くなると思いますよ」
「『潜り込む』のと『受け入れる』のって、そんなに違うものですか?」
「違います。『潜り込む』とき主体はガイド側にありますが、『受け入れる』場合にはむしろセンチネル側が主体となります。ガイドの負担も、調律中に不測の事態が起こるリスクも、必然的に上がるでしょう。もちろん、リスクに見合う利点もないわけではありませんが……」
「利点って、どんなものがあるんですか?」
踏み込んで尋ねる。他のガイドに教えを乞う機会など、滅多にあるものではない。この機を逃す手はないだろう。
「ガイドが負担を多く担う分、センチネルの側からすれば、調律の違和感が大きく軽減されます。暴走しかけたセンチネルや、力の強いセンチネルのような、通常の方法では干渉できない相手であっても調律できる可能性は高まるでしょう」
「それは……利点の方がずっと大きくないですか?」
調律はセンチネルのためのものであり、他者の精神に干渉する以上、どうしたってガイドのリスクはゼロにはなりえない。ならば、センチネルにとっての利点が大きい方がいいのではないか。
そう首を傾げるアシエルに、エヴァンジェリンは「考え方によるでしょうね」とぎこちなく微笑んだ。
「ガイドの調律がなければ日常生活すらままならないセンチネルと違って、センチネルの調律をしなくても、ガイドは生きていけるのです。受けずとも良い負担を引き受けてまで他者を救いたいと、誰もが思うわけではありません。――けれど」
その先を口にするのを躊躇うように目を伏せたエヴァンジェリンは、やがて泣き笑いのような表情を浮かべると、真っ向からアシエルを見据えた。
「けれど、そう思える方だからこそ、あなたはディズジェーロを調律することができたのでしょうね」
「知り合いなんですか?」
思いがけず出た知り合いの名に驚いて、目を見張る。エヴァンジェリンは笑みを深めて頷いた。
「家系図上、わたくしは彼の義姉に当たります」
「家系図上? えっ? あいつ、結婚してるんですか?」
さらりと紡がれた言葉に、さらに混乱が増した。
家系図上。義理の姉弟。と来れば、真っ先に思い浮かぶのは、婚姻相手の家族だ。
知らず、アシエルの眉間には皺が寄っていた。
死にそうになりながら日々を生きていること。物騒な仕事を与えられていること。見かけるたびいつもひとりでいること。どれもこれも自分と似ていると親近感を覚えていたのに。
なんだよ、と不貞腐れながら、アシエルは記憶の中のディズジェーロを罵る。妻帯者だからどうという話でもないけれど、なんとなく裏切られた気分だった。
口を閉ざしたアシエルを見て、慌てたようにエヴァンジェリンは首を横に振る。
「違います! そういう意味ではないのです、アシエル」
動揺をありありと滲ませながら、エヴァンジェリンは釈明するように早口で言い募る。
「血の繋がらない家族という意味です。どうか誤解なさらないで! ディズジェーロは独り身です。彼は昔から人間不信が酷くて、特定の誰かと親しくしていたことすらありません。友人のひとりすら見たことがありませんし、誰に対しても他人行儀で……その、わたくしは義弟の恋路を邪魔する気などまったくなく――いえ、その表現は適当ではないかもしれませんが――とにかく、違うのです。お分かりになって!」
「わ、分かりました。違うのは、分かりましたから。落ち着いてください、エヴァンジェリン様」
あれこれとまくしたてるエヴァンジェリンの姿には、先ほどまでの涼やかな雰囲気の残り香もない。勢いに押されるように両手を挙げつつ、アシエルは彼女を宥めにかかった。
突如として音量の上がった会話に、司書が心配そうにこちらを伺う気配がする。何でもないから、と引きつった笑顔とともに身振りで示しつつ、アシエルはエヴァンジェリンに向かって頭を下げた。
「申し訳ありません。言葉の意味を取り間違えてしまったみたいで。よく考えりゃ、ディー……ディズジェーロは子どものころに貴族の養子になったって聞いた覚えがあります。そういうことですよね?」
「ええ、そういうことです。わたくしも、お見苦しいところをお見せしました。……話を戻しましょうか」
気を取り直すように眼鏡の位置を直したエヴァンジェリンは、こほんと軽く咳払いをする。表情こそ平静を装っているものの、頬にばっちり赤みが残っているところが微笑ましい。
「わたくし、彼を調律したガイドに会ってみたいと思っていたんです。ディズジェーロはほとんど何も教えてくださらなかったけれど……久々に顔を合わせてすぐ、あの毒霧のような気配が薄らいでいると気づいて、わたくしがどれほど驚いたことか」
分かるでしょう、とでも言うように視線を向けられて、アシエルは深々と頷いた。ディズジェーロの力の乱れ具合は、ガイドならば皆、感じるものがあるはずだ。
でも、とアシエルは自嘲するように口角を上げた。
「調律と呼べるほど、整えられてはいません」
あれを調律と呼ばれてしまうと、表面を整えることしかできない己の力不足があまりにも情けない。
「あなたはご自分のなさったことの意味を理解していません」
それ以上のアシエルの言葉を遮るように、エヴァンジェリンは語気を強めて言い切った。
「あの方は、いつも死にそうな顔をして、淀んだ気配を振り撒いているでしょう? 昔からそうなのです。二十年以上前から」
『あの方』とは、姉弟にしては随分とよそよそしい呼び方だ。聞くからに単純ではなさそうな家族関係は、酒の席でディズジェーロ本人から聞こうとして聞き損ねた覚えがある。本人がいない場で聞くことに罪悪感はあったが、好奇心が勝った。
「ディズジェーロのこと、子どものころから知っているんですね」
「ええ。どこの誰とも知れない幼い子どもを、『今日からお前の弟になる』と紹介された時からの付き合いですから。顔だけは怖いくらいに綺麗でしたが、何を考えているのか分からない、不気味な子でした。まあ、今も大して変わりませんけれど。昔から、あの方は身が竦むような恐ろしい気配を纏っていました」
「恐ろしい、ですか?」
引っ掛かりを覚えて、アシエルは口を挟んだ。
「今にも死んじまうんじゃないかって怖くはなりますけど、身が竦むっていうのは……?」
「やはり、あなたとは感じ方が違うようですね。わたくしには、ディズジェーロの気配は『今にも殺されそうな気配』に感じられます」
「……物騒ですね」
同情を込めてアシエルは呟いた。
人それぞれセンチネルの力の感じ方は違う。毒霧のような気配やら、恐ろしい気配やら、強い言葉を使わずにはいられないほど、エヴァンジェリンにとってディズジェーロの気配は辛く感じられるのだろう。
「それほどに、ディズジェーロは力の強いセンチネルなのです。それこそ、調律できるガイドが見つからないほど」
「エヴァンジェリン様でも無理なんですか?」
「不可能です。子どものころ、あまりにも顔色の悪い彼を見ていられず、幼い正義感で調律を試みたこともありましたが、ディズジェーロはその場で嘔吐しましたし、わたくしも一週間ほど寝込む結果となりました」
無知の罪ですね、と言って、エヴァンジェリンは恥じるように目を伏せた。
「己の分も弁えずに手を出して、余計にあの方を苦しめた挙句、周囲にも散々迷惑をかけました。不甲斐ないことですが、それ以来、体に恐怖が染み付いてしまって、余計にディズジェーロの気配を恐ろしく感じるようになりました」
「それはまた……」
アシエルは言葉を失い、顔を歪める。いくらガイドとセンチネルには相性があるとはいえ、そこまで調律に悪く影響する例は初めて聞いた。
「五感に優れたディズジェーロは、テンペスタにとって有用な人材でした。彼を死なせないために、両親は何人ものガイドを連れてきましたが、ひとりとして合う者はいませんでした。何人ものガイドの命を削り、彼自身も調子を崩した上で、辛うじて命を繋いできたようなものです」
もはや相槌の打ちようもなかった。軽い気持ちで聞いたことを後悔するほど、悲惨な幼少期だ。
「命令であれ善意であれ、あの方の調律を試みた者はことごとく失敗しました。ガイドの中には精神を病んでしまう者もいれば、苦痛のあまり彼を責める者もいました。わたくしのように彼の力に対する恐怖が染み付いて、彼自身を避けるようになる者もいたでしょう。当然、あの方はガイドを嫌うようになりましたし、他人との関わり自体を厭うようになりました。姉弟など形ばかりで、わたくしはあの方がやつれ、年々死に近づいていく様子を、ただ見ていることしかできませんでした」
淡々とした語り口とは裏腹に、エヴァンジェリンの表情は、告解をする罪人のごとく暗く沈んでいた。手の甲に食い込むほどに強く組み合わされた彼女の指先を、アシエルはじっと見つめる。
暴走を起こしたセンチネルの心の中で、エヴァンジェリンは躊躇いなくアシエルを助け、フィラー伍長へと慈悲の手を差し伸べた。けれど、エヴァンジェリンが本当に救いたい相手は、別にいたのだろう。それも、ずっと近くに。
「だから、ガイドの教師になったんですか」
アシエルがぽつりと問いかけると、エヴァンジェリンは虚を突かれたように顔を上げた。




