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28.悔恨する教師②

 導かれるがまま、アシエルは女の隣に並び立つ。


「触ってください」

 

 今にも壊れそうなガラス玉を目で示され、思わず怯む。

 これはフィラー伍長の心そのものだ。触れ方を間違えれば、その瞬間あの年若い新兵は死ぬだろう。良い印象のない相手とはいえ、仲間の命を自分が握ると思うと、身が竦んだ。

 深呼吸して、目を閉ざす。途端に、幼子のように泣きじゃくる声が耳に届いた。


 ――たすけて……。


「そんなに叫ばなくても、聞こえてる」

 

 覚悟を決めて、ガラス玉に手を伸ばす。明滅する核に触れた途端、息ができなくなるほど強烈な衝撃が、アシエルの全身に襲い掛かった。


「う、あ……!」

 

 痛い。熱い。苦しい。怖い。

 皮膚という皮膚を剝がされ、炙られているかのようだった。痺れているようにも、炎で焼かれているようにも感じるし、無数の虫が体中を這いまわっているようにも思える。咄嗟に背を丸めたアシエルは、自分で自分の体を抱き込もうとした。

 しかし、ガラス玉から手が離れかけた瞬間、女は咎めるようにアシエルの腕を掴む。

 

「それはあなたの感覚ではありません。共感しすぎないで」

「あ……、そうか、そうだよな」

 

 指摘されてようやく冷静になる。ここはフィラー伍長の精神の中であって、アシエルは潜り込んでいるだけだ。自他の境を意識して、痛みを他者のものとして切り離す。

 

「こいつは……こんなに苦しい思いをしているのか」

「ええ。苦痛が強すぎて、外からでは声も届きません。寄り添えるのは、ガイドだけ。どれだけ彼ら(センチネル)が自分を見失っても、わたくしたちなら、手を引いて導いてあげられる」

「どうすればいい?」

 

 問いかければ、女はアシエルの腕を掴んだまま、核を慎重に胸に抱き込んだ。

 

「センチネルの負担を一時的にわたくしたちで引き受けます。その間に、彼に呼びかけて正気に戻します。理性さえ戻れば(シールド)は修復されますから、その隙に手早く調律してしまいましょう。できますか」

「ああ」

 

 頷いたアシエルは、目を閉じ、意識を深く集中させた。引きずられないよう注意しながら、フィラー伍長の感覚にゆっくりと同調していく。苦痛に顔を歪めながらも、アシエルは必死に呼びかけた。

 

「フィラー伍長、聞こえるか。平民のガイド風情に憐れまれたくないなら、とっとと起きろ」

 

 アシエルの声に答えるように、核がふるりと震える。

 

「気持ちが悪ぃよな。よく分かるよ。肌に意識を向けられるか? 感覚を閉じるんだ。大丈夫。俺も手伝うから」

 

 声をかけながら、アシエルはフィラー伍長の感覚に、さらに深く意識を寄り添わせた。引き受けられる限りの苦痛を引き受けて、少しでもセンチネルの負担が減るように、歯を食いしばる。

 変化が訪れるまでの時間は、一瞬のようにも、何時間も経ったようにも感じられた。不意に、手に触れる核の感触が変化する。泡のように儚い感触が生まれたかと思えば、みるみるうちに弾力を帯びて、ガラス玉の周囲を取り囲むように一気に膨らんでいく。広がる透明な膜に押しやられるがまま、アシエルと女は海の表層へと浮かび上がっていった。

 

「これでいいのか」

「ええ。(シールド)さえ戻れば、差し当たっては問題ないでしょう。そのまま調律できますか」

「ああ。平気」

 

 先ほどまでとは違い、辺りを満たす水の流れは落ち着いており、前後不覚に陥るほどの乱れはない。ディズジェーロと比べれば、フィラー伍長の力の規模はごく一般的なものだ。手早く整えてやるだけで、水の色は十分に改善した。

 悲鳴はもう聞こえない。

 安堵した瞬間、アシエルとフィラー伍長を結ぶ精神の繋がりは、ぷつりと途切れた。


「はっ、はーっ、はあっ」

 

 荒い呼吸の音がする。今にも死んでしまうのではないかと不安になるような、切実な呼吸音だ。

 ――次から次へと、今度は誰だ。

 目を開いた瞬間、とめどなく伝い落ちる汗が目に映る。乱れた呼吸は自分自身のものなのだと気づいた瞬間、一気に体が重くなった。

 汗が吹き出て止まらない。視界がちかちかと瞬き、血の気が引いていく。

 

「あー、きっつ……んだ、これ……」

 

 ぐるぐると目の前が回り、座っていることすら辛かった。ぐらりと横倒しになりかけた瞬間、隣から伸びてきたしなやかな手が、アシエルの両肩を力強く支える。

 

「……悪い」

「構いません。あなたの疲労は、深く精神を繋げた弊害です。普段の調律でも少なからず負担はあるでしょう? 程度が増しただけですから、少し休めば治まります」

 

 涼やかな声に視線を向ける。眼鏡をかけたドレス姿の女性は、介抱するようにアシエルを座り直させてくれた。

 年の頃はアシエルよりも一回り上、おそらくはユリア王女と同年代だろう。きっちりと結い上げられた水色の髪と、つり目がちの同色の瞳が、冷たく知的な印象を醸し出していた。飾り気のないロングドレスは一見質素だが、細部に目を向ければ質の高い作りであることが一目で分かる。

 会ったことはないけれど、知っている。先ほどまでアシエルを隣で助けてくれたガイドだ。

 

「エヴァ……さん?」

 

 繋いだ精神を通じて知った名を、呼んでみようとしたけれど、うまく舌が回らない。

 

「愛称で呼ばれるほど親しくなった覚えはありません。エヴァンジェリンです。はじめまして、アシエル」

「ああ、はじめまして」


 先ほどまで行動を共にしておいて、今さら初対面の挨拶をするのもおかしなものだ。ぼんやりと言葉を返した後で、慌ててアシエルは頭を下げた。明らかに貴族である相手に、なんて口を利いてしまったのか。

 

「エヴァン……ジェリン、様。助けてくださって、ありがとうございます」

「手を貸しただけです。調律したのはあなたでしょう」

 

 そっけなく言う彼女の内心が、その実慈しみと労りに満ちていることをアシエルは知っている。繋いだ精神を通じて、互いの心の一部を共有したからだ。


「テンペスタからのお客人ですか?」

「ええ。イーリスの方には発音しにくい名前でしたか」

「少し。でも、きれいな響きですね」

 

 話している最中に、呻き声が下から聞こえてきた。苦しげな声を聞き取るや否や、アシエルたちは同時に口を噤む。周囲の兵士たちからも、息を呑んでフィラー伍長の様子を伺う気配が伝わってきた。

 

「う、あ……?」

「よかった。気がついたか」

 

 目を開き、のろのろと周りを見渡すフィラー伍長の様子は、少なくとも先ほどまでとは違い、正気に見えた。誰からともなく、ほっと安堵の息を吐く。


「調子はどうよ、フィラー伍長」

 

 アシエルが軽く声を掛けたが、フィラー伍長はぼんやりと空を見上げるばかりで、何も答えられないようだった。調律は終えたはずだが、問題があったのだろうか。やがて、フィラー伍長はぼろぼろと大粒の涙をこぼし始めた。

 

「おい、大丈夫か。どうした」

「も……け、……りま……せん」

「……何だって?」

 

 散々絶叫していたせいか、フィラー伍長の声はほとんど枯れており、何を言いたいのかも分からない。耳を近づけて問い返せば、しゃくりあげるような呼吸に混じって、真摯な謝罪が聞こえてきた。

 

「申し訳……ありませんでした、アシエル少尉。いえ、勇者殿。私は、何ということを――」

「……本気で大丈夫か? 記憶、混乱してるんじゃないか」

 

 らしくもなくしおらしい言葉に、アシエルは顔を引きつらせる。

 貴族の集まりである特殊部隊の面々は、一部の例外を除いて、基本的に平民を見下している。特別彼らが傲慢というわけではなく、イーリスならばごく普通のことだ。フィラー伍長も例に漏れず、テスの町への任務でアシエルに対して面倒な反応を見せていた記憶があった。

 真面目に頭の調子が心配になったが、アシエルの問いかけに対して、フィラー伍長は弱弱しく首を横に振った。

 

「真っ暗な地獄の中で、あなたの……あなた方の声が聞こえたのです。ガイドの調律とは、こういうものなのだと……心を預かってもらうことなのだと、はじめて……心の底から理解した。どうか、これまでの無礼を許していただきたい」

「いや、それは別に気にしてねえけど」

「命を、救われた。あなたは私の英雄、いえ、勇者だ」

「大袈裟だな」

 

 崇拝するような視線に困り果て、アシエルは頬をかく。

 フィラー伍長が何を言いたいのかは分からないが、死の入り口を垣間見て、思うところでもあったのだろう。


「何でもいいけど、今度からちゃんと定期的に調律受けろよ」


 適当に話をまとめて、アシエルは身を離す。

 

「……『勇者』?」

 

 小さな声が、ぽつりと響いた。振り向けば、考え込むように顎に手を当てたエヴァンジェリンが、まじまじとアシエルを見つめていた。

 

「平民。男。ガイド。忠誠に縛られる……」

「あの、エヴァンジェリン様……?」

 

 頭のてっぺんからつま先までを観察するような視線に、さすがに居心地が悪くなる。何か気になることがあるのかと尋ねようとしたその時、ざわざわと辺りが急に騒がしくなった。

 

「ユリア殿下だ」

「なんで訓練場に……?」

 

 周りの視線を辿っていくと、訓練場の入り口に、眩い金の髪を揺らして歩くユリアの姿が見えた。護衛を引き連れたユリアは、誰かを探すように視線を左右に動かしている。


「ああ、やっと見つけた」

 

 アシエルたちを見つけるや否や、ユリアは一直線に訓練場の中を突っ切ってきた。慌てて姿勢を正す兵士たちに倣って、アシエルもさっと立ち上がる。皆に倣って起き上がろうとしたフィラー伍長を、ユリアは「よい。体調が悪いなら無理をするな」と手のひらで制した。

 

「こちらにいたのか、エヴァンジェリン。客室に戻る途中で姿が見えなくなったと聞いて、心配した」


 知り合いなのだろうか。エヴァンジェリンを見て、ほっとしたようにユリアは表情を緩めた。

 

「あら、申し訳ありません。侍女に言付けを残しましたが、伝わっていませんでしたか」

「いかに王宮付きの侍女といえども、『暴走(ゾーンアウト)したセンチネルの気配がする』という一言だけでは行き先は分からない」

「それは失礼。急を要する事態でしたゆえ、お許しください」

「悪いなどと思っていないくせに」

 

 気心知れた様子で言葉を交わす二人を、もの珍しい思いで見上げる。神の教えを尊重しないテンペスタを、てっきりユリアは全面的に嫌っているものだと思っていた。国を越えた友人がいるなど、初耳だ。


「アシエルもいたのか。休暇を与えたと思ったけれど」


 ユリアがついとアシエルに視線を向ける。慌ててアシエルは目を伏せた。


「いえ、その……申し訳ございません。体を動かしている方が気分転換になりまして」

「そうか。気が合うね。私も休みは好きではない。仕事をしている方が落ち着くよ」


 そう言って微笑むユリアに、「仕事中毒も大概になさいませ」とエヴァンジェリンが呆れたような顔を向ける。かと思えば、次の瞬間、彼女は面白がるようにアシエルへと視線を滑らせた。


「こちらの彼は、ユリア様の私兵ですの?」

「アシエルか? そうだな。私兵と言えば私兵になる」

「でしたらちょうどよかった。滞在期間中、彼を護衛にお借りできませんか?」

「構わないが……近衛に不手際でもあったかな?」

「いいえ。ただ少し、興味が湧きまして」


 己の意思に関係なく決まる貸し出しを、アシエルは頬を引きつらせながら見守った。訓練場に来ている時点で休暇は返上したようなものだが、これはさすがに予想外だ。


「今日は晩餐会があるから……明日から数日間、彼女の護衛を頼めるか、アシエル」

「仰せのままに」

 

 どの道、時間を持て余していたのだ。仕事をしていた方が、かえって気が紛れてありがたい。休暇は後日別に取らせるから、と気遣うユリア王女の申し出をやんわり断りつつ、アシエルは静かに頭を下げた。

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