27.悔恨する教師①
冷えた空気と優しい日差しが、火照った体に心地良い。訓練で汗だくになった首元を拭いつつ、アシエルは喉を鳴らして水を飲んだ。
一度は花火や悪戯だと噂されていた王都地下爆発事件は、王女が言うところの『事件が終わったという確証』が得られるや否や、勇者の美談へとなり替わっていた。
曰く、身を挺して幼い公爵令嬢を庇った勇者は、勇敢にもひとりで犯人を追い、地下に潜んでいた犯罪組織を範囲魔術で一掃したらしい。
竜を殺し、スタンピードから神事を守っただけでは飽き足らず、王都を脅かす事件までもを解決したという勇者の名は、高まるばかりだ。幼い時分より過ごしてきたはずの下町でさえ、尊敬と畏怖を交えて物珍しく眺められることが増えてきた。
結果、アシエルは王宮の訓練場に入り浸っていた。
休暇を与えられてはいたものの、特に行きたい場所もない。でっちあげられた功績を賞賛されるよりは、貴族の中に混ざる平民として、悪い意味で視線を集める方がまだマシだ。訓練すれば頭を空っぽにできる上、肉体まで鍛えられて、いいこと尽くしである。休憩を終えて立ち上がったその時、ばたばたと忙しない足音が近付いてきた。
「ここにいたか、アシエル少尉!」
「ゼークラフト中尉? どうしたんだ、そんな慌てて」
息を切らせた同僚に、何事かと首を傾げる。焦りを隠さぬゼークラフト中尉は、「とにかく来てくれ!」とアシエルの腕を掴んで走り出す。
「センチネルの新兵が暴走を起こした。軍付きのガイドが捕まらなくて……あのままだと死んでしまう!」
「新兵? 暴走って、なんでまた。調律受けてなかったのか」
「分からない。演習場の割り振りに手違いがあったらしくて、知覚訓練の最中に、いきなり近くで魔術部隊の訓練が始まったんだ。多分、そのせいで……」
憐れむようにゼークラフト中尉が顔を歪めた。
暴走とは、能力を制御できなくなったセンチネルが陥る急性の精神異常だ。能力に目覚めたばかりの不安定なセンチネルや、適切な調律を受けていないセンチネルに起きやすく、ガイドによる処置が遅れれば、自身の感覚に蝕まれた挙句、狂って死ぬ。
「暴走起こしたセンチネルなんて、相手にしたことないぞ。俺で調律できるかどうか」
理性をなくしたセンチネルの力は、言うなれば濁流そのものだ。触れたガイドの精神までをも道連れにしかねない。本来ならば、教育を受けた専門のガイドが担当するべき案件だ。
濁流のような力といえば。
ゼークラフト中尉の背を追って走りながら、アシエルはディズジェーロの力を思い出す。ディズジェーロの力も、そう考えると暴走したセンチネルと似たようなものなのかもしれない。こちらの精神が壊されそうなほど激しい力に対して、アシエルにできたのは力をいなして逃がすことだけだ。何度かディズジェーロの力を調律する機会があったとはいえ、今なお応急処置的に整えることが精一杯で、本当の意味での調律はできていない。
そんな自分が向かったところで、苦しみ死にゆくセンチネルを見守るだけになりやしないだろうか。重圧を感じながら、アシエルは訓練場に足を踏み入れた。
「ああああっ」
探すまでもなく、地面でのたうち回る若い新兵の姿が目に入ってきた。倒れた男の周囲には人が集まり、必死で声をかけている。
「しっかりしろ、フィラー伍長!」
「触らない方がいいんじゃないか? 刺激しない方が……!」
「そんなこと言ったって、押さえておかないと、自殺しかねない! くそっ、ガイドはまだ来ないのか!」
「痛い! 痛い! うああああっ」
悲鳴を上げるフィラー伍長は、皮膚が抉れてもお構いなしに、自身の肌を掻きむしっていた。周囲の人間が慌てて押さえつけようとするが、他人の手が触れるたび、悲鳴の悲惨さは増していく。
触覚のセンチネルだろう新兵の顔には、見覚えがあった。テスの神事のときにも体調を崩していた、目覚めたてのセンチネルだ。泣き叫ぶフィラー伍長に、アシエルは急ぎ足で近づいていく。
助けを求める声が聞こえた。ざわめく周囲の兵士たちの声でもなく、フィラー伍長の絶叫でもない。悲痛で哀れな、恐怖と混乱に満ちた声なき声だ。
――助けてくれ!
全身が、今にも壊れそうな力をびりびりと感じ取っていた。暴走したセンチネルから漏れ出た力が、触れるまでもなく感情を伝えてくる。強すぎる感覚に溺れ、助けを求める声なき声が、アシエルの足を竦ませた。
こんなもの、調律できるのだろうか。助けるどころか、下手に手を出したら、死を早めるだけなのではないか。
強張る足を叱咤して、アシエルはフィラー伍長の隣にしゃがみ込む。顔面をかきむしっていたフィラー伍長は、涙に濡れた目でアシエルを見上げてきた。
――くるしい。たすけて。ころして。
苦痛に染まった声に、横面を張られた気分だった。ハリボテだ何だと嘆くなら、自分が本当に持っている力くらい、使えなくてどうするのだ。
「腕、握るぞ。ごめんな。痛いだろうけど、我慢してくれ」
覚悟を決めて、暴れるフィラー伍長の腕を無理やり掴む。触れた肌越しに精神を繋いだ瞬間、アシエルは頭の後ろを殴りつけられるような衝撃を感じた。
「ぐ……っ!」
荒れ狂っているどころの話ではない。嵐に呑まれたかのように精神の波が渦巻き、覗き見ているだけのアシエルが溺れそうなほど、フィラー伍長の精神は乱れていた。ディズジェーロの力の乱れも悲惨ではあったが、ここまで無秩序ではない。力を受け入れようにも、乱れがひどすぎて、どこから手を付ければいいのかさえ分からない。手を触れれば、こちらまで波に呑まれてしまう。
「あああ! ……ひ、ひひ……!」
フィラー伍長が上げる悲鳴に、引きつった笑い声が時折混じる。ひくひくと引きつる口元からは涎が零れ、体は痙攣を起こしたかのように震えていた。
急がなければ手遅れになる。焦燥感に背を蹴られ、アシエルは手当たり次第にフィラー伍長の力を受け入れることを決めた。
目を閉じて、フィラー伍長の精神の海に手を浸す。途端に、鉄砲水のような勢いで、汚染された力が流れ込んできた。
目が回り、一気に吐き気が込み上げる。心を隠し守ることさえ忘れてしまったセンチネルの恐怖と絶望が、直接アシエルの心に流れ込んでくるのだ。自分の感情ではないと分かっているのに、アシエルまで悲鳴を上げたくなる。
「く、そ……! こんなん、どうすりゃ」
思わず弱音が口をついて出る。通常の調律でさえ自己流なのだ。暴走を起こしたセンチネルの調律方法など知るわけもない。
「あ、あっは、ひ、いああああ!」
「落ち着け! 今、助けるから……!」
荒れ狂った力をアシエルの中に受け入れるまではできる。けれど問題は、必死の思いで整えた力を、フィラー伍長の中へ返せない点にあった。
感覚の制御を失い、周囲の言葉も届かなくなった現状を映すように、フィラー伍長の中で渦巻く海は辺りを破壊するばかりで、アシエルの干渉を受け入れてはくれない。
「む、りだ」
フィラー伍長の感情が、アシエルの感情と同化していく。自他の境界が分からなくなり、絶望に心が塗りつぶされていく。叫び出したくなるような混乱がアシエルを飲み込もうとしたその時、ふと、背に優しく手を添えられた。
「――大丈夫。手を貸します。そのまま彼との繋がりを解かないでください」
布越しに伝わるぬくもりが、ほんのわずかにアシエルを落ち着けてくれる。この手の持ち主もガイドなのだと直感的に理解した。
「心を強く持ちなさい。調律は、体という殻を超えて心に触れる行為そのものです。自分が溺れているとき、誰が折れそうな枝を掴みたいと思いますか。ガイドが心を揺らしていたら、センチネルは疲れ切った心を誰に預ければいいのです」
耳に聞こえるようにも、心に直接響いているようにも聞こえる、不思議な声だった。
「潜ってください。もっと深く。彼は溺れているのです。浅瀬から眺めていても埒があきませんよ」
潜れという指示に、アシエルはより一層意識を内側に集中する。手のつけようもないほど荒れ狂った海の中に、手招きをする女の姿が見えた。調律するための道などないように思えたのに、水色の髪の女は、乱れた精神の流れの中を苦も無く進んでいく。
見ず知らずの女に導かれるまま、アシエルはフィラー伍長との精神の繋がりを深めていく。流れ込む力の奔流に怯みそうになるたび、女はアシエルの手を引き、海の奥へと誘った。
周囲の乱れも、センチネルの感じている恐慌も、彼女はまるで意に介さない。この人についていけばいいのだと無条件で信じさせる背中は、ガイドがガイドと呼ばれる所以を体現しているように思えた。
やがて女は、荒れ狂う渦潮の中央で足を止める。元の色すら分からぬ流れの中に、薄膜に包まれた真っ白な空間が沈んでいた。膜の中には、不安定に明滅するガラス玉が無防備に置かれている。
周囲とは明らかに違う空間に興味を惹かれ、アシエルは手を伸ばす。柔らかな弾力を持つ薄膜は脆く、ところどころが破れていて、押しただけですんなり中に入り込むことができた。
「ここは……?」
「センチネルの心の中央部とでも言いましょうか。盾が壊れているのが分かるでしょう? まずはここをなんとかしなければ、整えようがありません」
「盾? こんな、ぼろぼろの膜が……?」
先ほど通り抜けた脆い薄膜が、本来他者から精神を守るための盾の成れの果てだという。だとすれば、膜の内側に置かれたガラス玉は、精神の核のようなものだろうか。
センチネルと精神をつなぎ、感情を盗み見たことはあれど、ここまで深く潜るのは初めてだ。他人のむき出しの精神の核が手の届く範囲にあると思うと、ぞっとしないものがある。
表層の荒れ狂う流れが嘘のように、精神の核の周囲は凪いでいた。それが余計に恐ろしい。この静けさは、薄氷が弾け砕ける直前の、不自然な静寂そのものだ。今この場で調律に失敗すれば、この心の持ち主であるセンチネルともども、アシエルたちは濁流に呑まれて塵となる。待ち受けるのは廃人への一本道だ。
冷たい恐怖がぞっと背筋を駆け抜けた。
アシエルの心を見抜いたかのように、女が視線を動かした。事実、センチネルを介してアシエルと女の精神もまた繋がっているのだから、感情そのものが伝わっているのだろう。心を揺らすなと、冷たい視線に叱責されたような気がした。
アシエルの前に歩み出た女が、心の核に手を伸ばす。今にも弾き飛びかねない精神の核にそっと両腕を回しながら、女は静かに目を伏せた。
「――怖かったでしょう」
聞いているだけで縋りつきたくなるような、優しさに満ちた声だった。ほっそりとした手が、幼子の頭に触れるようにガラス玉を撫でる。
「痛かったでしょう。つらかったでしょう。苦しいのにどうしたらいいか分からなくて、どれほど恐ろしかったことでしょうね。もう大丈夫ですよ、キース」
聞き慣れぬ名だが、それがフィラー伍長の名前なのだと、この空間が教えてくれる。呼ばれた名に呼応するように、膜の外側で濁流がうねりを増した。
「あなたには、キースの精神がどのように感じられていますか、アシエル」
振り向かぬまま、女は問う。名乗ってもいない名を当然のように呼ばれたことに若干の動揺を感じながら、アシエルは見たままの光景を口にした。
「海のように見える。前も後ろも分からないほど、濁って荒れた、ひどい海だ。俺たちは今、海の底で、ぼろぼろになった膜の中にいる。あんたは、ちかちか光る大きなガラス玉を抱きしめている」
「そう。あなたにはそう感じられるのですね。ならば、そうですね……」
考え込むように数秒口を閉ざした女は、やがて滑らかに語り出す。
「あなたが感じる音は、彼の悲鳴。周囲を乱れ狂う流れは、キースの感覚そのものです。わたくしたちは、キースの心が海の藻屑とならぬよう、この膜を修復せねばなりません」
「修復っていったって……」
「今から教えます」
ぴしゃりと言い放ち、女は冷静な視線をアシエルに向けた。
「こちらへおいでなさい、アシエル」




