26.不穏の足音④
階段を降りた先の食堂は、入ってきたときとは打って変わって静かだった。夜と朝のちょうど境目の時間帯だけあって、外から聞こえてくる音は少なく、マリーが洗い物をこなす控えめな音だけが暗い店内に響いている。
閉店後の食堂はすでに照明が落とされ、唯一カウンターの奥だけが小さなランタンで照らされていた。忍び寄るような真似をして驚かせるのは本意ではない。わざと足音を立ててディズジェーロが階段の最後の一段を降りれば、軋みを立てたその音に反応するように、マリーはぱっと顔を上げた。
「あら、酒盛りは終わったのかい」
「ああ」
「お皿はそこに置いておいてもらえる?」
空になった大皿とグラスを、言われた通りにカウンターの端に置く。手際よく洗い物を進めながら、くすりとマリーは微笑んだ。
「アシエルは潰れちゃった?」
「寝た。潰れてはいないはずだが、かなり酔っていたから二日酔いになるかもしれない」
「自業自得だね。嬉しかったんじゃないかい、あんたと飲めて。ご機嫌だったもの」
こういう言い方をすると子ども扱いは勘弁してくれって言われそうだけどね、とマリーは苦笑する。
「貴族ばっかりの部隊に配属されてからずっと苦しそうな顔をしていたから、ちゃんと話せる人はいるのかって心配してたのよ。仲の良い相手ができて、よかった」
水音が止まる。洗い物を終えたらしいマリーは、手を拭いながら、「もう帰ってしまうのかい?」と首を傾げる。何気ない口調ではあるが、単純に寝ぐらに帰るのかと尋ねているようには聞こえなかった。意図を測りかねていると、マリーは言葉を足して再度問いかけてくる。
「国に帰るんじゃないのかい」
「なぜ、そう思う」
「商売柄、見送る機会は多いから。なんとなく分かるのさ」
じっと視線を向けられて、悩んだ末に、ディズジェーロは小さく頷いた。
「そうかい。アシエルは悲しむだろうね。あの子、えらくあんたに懐いていたようだから」
「また来る。いつになるかは今の段階では分からないが。だから――」
言葉に迷うディズジェーロに、「あんたが言ってないなら、わざわざ言わないさ」とマリーは助け舟を出した。
「これっきりってんじゃないなら、よかったよ」
そう呟くマリーの表情は、慈しみに溢れていた。
何度も通えば、この店の女将の情が深いことはすぐに分かる。アシエルに対して向ける態度は輪をかけて親しげで、いわゆる母親とは、きっとこういうものではないのかとディズジェーロをして思わせるようなあたたかさに満ちていた。
「アシエルは甥のようなものだと、以前言っていたな」
ぽつりと呟くと、マリーは手拭いを丁寧に畳んで脇に置きながら、「そうだね。何しろあの子が十と少しくらいの時から知っているから」と懐かしそうに答えた。
「アシエルは覚えていないだろうけど、あの子が生まれたばかりのころ、会ったこともあるんだよ。抱っこもしたし、おしめだって変えてあげた」
その言葉に、アシエルが『賢者の石』を母の形見と呼んでいたことを、ふと思い出した。生まれたばかりのアシエルの世話をしたことがあるというのなら、マリーはアシエルの母親も知っているのではないか。
「昔アシエルに会ったというのは、どういった経緯で?」
尋ねてみると、マリーはおやと言うように片眉を上げた。
「あの子の母親が、あたしの友だちだったの。聞きたい?」
「差し支えなければ」
「いいよ。じゃあ、少しばかり昔話に付き合ってくれる? お兄さん」
ディズジェーロが頷くと、マリーは乾燥した黄色い花を棚から取り出し、控えめな香りを立てる茶を二人分、手早く淹れた。勧められるままにカウンターに座った瞬間、「今さらだけど、あたしはマリー」とはきはきとした言葉が飛んでくる。
「お兄さんの名前を聞いてもいいかい」
「ディズジェーロ」
「ディズジェーロさんね。いつもお店に来てくれてありがとう」
アシエルが発音しにくいと言って省略したディズジェーロの名前を、客商売ゆえか、マリーは難なく紡いでみせた。
「あたしとあの子の母親の関係はね、多分あんたたちとちょっと似てるよ」
熱い茶を一気に半分飲み干しながら、面白がるようにマリーは語る。
「あたしは下町育ちでね、若いころからここで店をやってるんだけど、ある時乳飲み子を連れた傷だらけの女が来たの。それがファヴィオラ。アシエルの母親さ」
ファヴィオラ――テンペスタの女性名だ。表情に出さぬよう気を払いつつ、ディズジェーロは耳を傾ける。
「ちょうどあたしと同い年でね。ぼろぼろになっていてもくすまない、きれいな麦穂の色の髪をした女だった。赤子連れで遠くから逃げてきたって聞いてね、あんまり気の毒だったから、『お金はいいから何か食べて行きな』って声をかけたの。あり合わせのシチューを出したら、ぼろぼろ泣き出しちゃって……あの時は本当にどうしようかと思ったよ」
人のいい話だと内心で苦笑する。アシエルの人のよさを育んだ一端は、間違いなくこの女将にあるのだろう。
「生きてきた場所も生き方も全然違う、お互い初対面の知らない女よ。なのに話していたら不思議と馬が合ってね。会ったその日に、あたしたちは友達になった。行く当てがないって言うファヴィオラに、仕事を手伝ってもらう代わりに部屋を貸して……結局、半年くらい一緒にいたかしら。乳飲み子だったアシエルに会ったのも、そのときだね。楽しかったよ。今でも昨日のことみたいに思い出せる。神のお導きだったと、今でも思ってるよ」
「……会ったその日に、友人? 住居まで提供して、半年ともに暮らしたと?」
理解できずに眉根を寄せると、マリーは「変だと思う?」と茶目っ気たっぷりに口角を上げた。
「仲良くなるのに時間なんて、意外と関係ないもんだよ。ディズジェーロさんとアシエルだって、少し前は話したこともなかったでしょうに、今は部屋で酒盛りするほど仲良くなってるじゃない。何十年一緒にいたって分かり合えない家族もいれば、その逆だってあるもんさ」
そういうものかと釈然としない気持ちで頷きつつ、ディズジェーロは話の続きを促した。
「ここを出た後、そのご友人はどこへ?」
「農村へ行ったよ。『罪を犯した自分は、神に近い場所に居るべきじゃない』って言ってね。詳しい事情は聞かずじまいだけど、ファヴィオラは大陸宗教の敬虔な信者だったから、思うところがあったんだろうよ。ファヴィオラが王都を出た後も、あたしたちは手紙のやり取りをしてた。ファヴィオラは手先が器用でね、刺繍だの置き物だの、色々作っては送ってくれたもんさ」
カウンター横に置かれたガラス細工へ、マリーがちらりと視線を向ける。以前、無法者たちが持ち出し、アシエルが取り返した紫色の花細工は、なるほど見事な出来だった。
「綺麗だろ? ファヴィオラの目と同じ色なの。今となっては、形見になっちまったね」
寂しそうに語るマリーの声を聞きながら、ディズジェーロは違和感に眉を顰める。
許可を得て花の置物に指を伸ばすと、ガラスよりもわずかに滑らかな、指に吸い付くような感触がした。
(合成素材……?)
成形に高熱を必要とするガラスと違い、魔力を通すことで硬化する合成素材は、テンペスタではそこまで珍しい素材でもない。ファヴィオラがテンペスタ出身だというなら分からなくはないが、趣味で成形できるほどの知識と技術を持っていたとなると、経歴が気にかかった。
考え込むディズジェーロに気づいているのかいないのか、茶を一口飲んだマリーは、続きを語り始める。
「ファヴィオラから手紙の返事が来なくなったのは、気候がおかしくなり始めたころだったかしら。何かあったのかと気を揉んでいたところに、ファヴィオラによく似た金髪の、細っちい子どもが来たの」
「……アシエルか」
「そう。今とは全然違って、無口で無愛想な、土気色の顔をした子どもだったよ。『食うために軍に入りたい』って言ってね。農村で口減らしされそうになったところを、王都まで逃げてきたって言うんだ。はじめはファヴィオラの子だと気づかなかった。一晩泊まったはいいけど、部屋にこもりきりでね。夜も朝も、飯を食ってる様子がなくて……お節介だとは思ったけど、気になって声をかけたら、金がないから水でいいなんてふざけたことを言ったのよ。だからあたしは――」
「シチューを出したのか」
「よく分かったね」
からからとマリーは笑うが、慈善事業のようなことばかりしていて、経営は成り立つのだろうか。アシエルが進んでこの女将の手伝いをしたがる理由も、察せられるというものだ。
「アシエルはね、きれいな赤い石のペンダントをつけていたの。今も付けてるでしょう? ファヴィオラが肌身離さずつけていたものと、同じだった。ピンと来て母親の名前を聞いたら、案の定さ」
二度目の神のお導きだね、とマリーは感慨深げに呟いた。
「あの子があたしの宿に来てくれて良かったよ。ファヴィオラにはもう会えないけど、アシエルにはまだ何かをしてあげられる」
歯を見せながら、はにかむようにマリーは笑う。アシエルとよく似た笑い方だった。朗らかな話し方といい、他人にためらいなく手を差し出す性質といい、顔立ちも髪色も違うのに、マリーとアシエルの間にはどこか近しいものを感じる。
「……あなたとアシエルはよく似ている」
「あたしが? 初めて言われたよ、そんなこと」
「ただの感想だ」
湯気のおさまった茶を喉に流し込む。乾燥花を煮出した茶は薄く、決して上等ではないものの、素朴で穏やかな香りは悪くない。空になったカップをその場に残し、ディズジェーロは音を立てずに立ち上がった。
「興味深い昔話をどうも。店仕舞いの時間に失礼した」
「とんでもない。またいつでもおいで、ディズジェーロさん。これからもアシエルと仲良くしてやってちょうだい」
手を振るマリーに小さく礼をして、ディズジェーロは静かに宿を後にした。
古びた建物を、名残惜しく振り仰ぐ。店も料理も中に住まう人々も、あたたかいものばかりの好ましい場所だった。見返りもなく人を助けるアシエルも、友人の子を何年も見守り続けるマリーも、ディズジェーロにとっては理解の及ばぬ存在だ。
己が生きる場所とは、まるで違う。陰謀に塗れた冷たくおぞましい場所とは、比べるべくもない。
小さく息をついたディズジェーロは、暗がりへと足を踏み出した。




