25.不穏の足音③
「そちらこそどうなんだ」
「質問で質問で返すなって教わらなかったのかよ」
反射的に言い返した後で、変に口ごもる方が余計に気恥ずかしくなると悟ったアシエルは、あえて淡々と言い放つ。
「……良かったよ。だから、巻き込むようなことになって悪かったと思ってるんだ」
「巻き込まれたつもりはない。あの程度、別に寝たわけでもあるまいし」
「寝……⁉ おま、何……!」
直接的にもほどがある言い方に、思わず言葉を詰まらせる。下町でも軍部でも品のない会話は日常茶飯事だが、まさかディズジェーロの口から出るとは思わなかった。単語ひとつで動揺するなんてどこのガキだよ、と内心で己を詰っていると、向かいの男も同じことを思ったのか、肩を震わせながら笑う気配が伝わってくる。
「お前がそこまで物慣れていないとは思わなかった」
「人並みに経験積んできてるっつーの! あんたがいきなりぶっこんでくるからだろうが!」
「決まった相手はいないのか。それとも世慣れした女にしか食指が動かないか? その割には娼館に足を運んでいるところを見たことがない」
からかいの色を隠さないディズジェーロの声に舌打ちを返したあとで、不貞腐れながらアシエルは答えた。
「女も男も関係ねえよ。相手なんていねえし、娼館だって必要がなければ行かない。寝たら情がうつるだろ。相手だって、もしかしたら俺に情をうつしてくれるかもしれない」
「それの何が問題だ」
「俺はあんたとは違うんだよ。感覚だって十人並みだし、力だって……分かるだろ。イカサマしなけりゃ、ただの凡人だ」
その先を言うべきか言わないべきか迷った挙句、アシエルは声を落として囁いた。
「だからまあ、俺は、明日には死んでるかもしれないだろ」
――思い残すことのないように。
美しい微笑をたたえるユリアの声が脳裏に響く。
「未練になりそうなものを持ちたくないんだ。相手の時間だって、もったいない」
言った直後に、思いのほか自虐的に響いた言葉に自分で驚き、慌ててアシエルは空笑いを浮かべた。
「は、はは……何言ってるんだろうな。らしくねえ。あんた、外から来てるからかな。今だけなら……期間限定の付き合いならいいかって、なんか口が滑っちまう」
そのままアシエルはディズジェーロの肩を押し、体を離そうとした。けれど、即座に伸びてきたディズジェーロの手が、痛いほどの力で手首を掴み、アシエルを引き留める。
「……今だけ?」
「え――」
視界がぐるりと回った。年季の入った安い寝台が、ぎしりと耳障りな軋みを立てたときには、アシエルはディズジェーロに押し倒されていた。
会話の途切れた場はいやに静かで、下の階で響く賑やかな話し声が、奇妙なほどにうるさく感じられる。
ずれたフードの端から、ディズジェーロの艶やかな黒髪がこぼれ落ちる。呼吸も忘れて、アシエルは己を見下ろす真っ赤な瞳に見入っていた。初めて見たときから美しい色だとは思ってはいたけれど、激情に色を深めると、同じ人間の瞳だとは思えないほど綺麗に見える。
「私は今だけだとは思っていない。期間限定で終わらせるつもりなど、毛頭ない」
押し殺されたディズジェーロの声には、明らかな怒りが滲んでいた。何がそこまで癪に触ったのか分からず、アシエルはただ目を丸くする。
「ディー? どうしたんだよ」
「言え。なぜお前にとっては『今だけ』になる」
険しい口調でディズジェーロは問い詰める。逃げることも、はぐらかすことも許さないとその瞳が告げていた。決まり悪く視線を泳がせながら、アシエルは言い訳をするようにもごもごと口を動かす。
「……だって、今あんたがイーリスにいるのは、任務だからだろう。ずっとここにいるわけじゃない。大使だって長くて数年で帰るんだから、軍属ならなおさら短いだろ?」
「だから何だと? 転移を使えば距離などないに等しい」
「さらっとすごいこと言ったな今」
当たり前のように言い放たれた言葉に、アシエルは顔を引きつらせる。転移魔術には莫大な魔力が必要だ。そもそもひとりで使える魔術師自体が少ない上に、移動距離が伸びれば伸びるほど、要求される魔力量と技術は爆発的に上がっていく。国境を無視して移動できる魔術師など、存在自体想定されていないだろう。
「密入国は犯罪だぞ」
「罪は知られて初めて罪になる」
一応の良識から苦言を呈したものの、ディズジェーロに悪びれる様子はない。刺すような視線へのせめてもの抵抗として、アシエルは目を伏せる。
「あんたが国境を無視できたとしても、国が変わるわけじゃない。俺はイーリスで、あんたはテンペスタ。開戦間近の国どうしだ。こうして個人的に話してるのだって、先のことを考えれば本当はやめた方がいいくらいだ」
「なぜ」
「なぜって……万が一戦になってみろよ。あんたは後方指揮かもしれないけど、俺は間違いなく前線に出される。間接的か直接的かは別として、俺とあんたは殺し合う仲になるわけだ。わざわざ言わなくたって分かるだろう」
「魔術でどうとでも目くらましすればいい」
「できねえよ。戦場で逃げて、それでどうするんだ。周りから見たら、俺は大量虐殺兵器だぞ。俺が逃げた分だけ何百人、何千人って敵が生き残る。イーリスの兵がその分だけ多く殺されて、街だってきっと壊される」
暗く血生臭い未来を口にするだけで、気分が重くなってくる。想像で終わってくれればそれでいいが、ユリアの口ぶりを思うと、そうなる可能性が低いとは言い切れない。
「望みもしない称号に従って、知りもしない他人のために命を懸けるのか」
「仕方ねえだろ。自分だけ良ければいいとは思えねえよ。勇者だなんだって言われてるのも、元はと言えばユリア様が俺を助けるためにそうしてくれたことだしさ」
ディズジェーロは何も言わなかった。気づまりな沈黙に堪えかね、おそるおそる視線を上げたアシエルは、次の瞬間息を呑む。
透き通ったガラス玉のような瞳が、まっすぐにアシエルを見つめていた。
「お前は戦を望まないのだな、アシエル」
ディズジェーロは、物を知らぬ子どものような、ひどく危うい目をしていた。言葉を間違えれば取り返しのつかないことになりそうな空気に気圧され、アシエルはごくりと唾を飲み下す。
「そりゃ……そうだろ。だって、怖いじゃんか」
軍人が言うべきことではないとは思ったけれど、言葉を飾るだけの余裕もなかった。
「兵器代わりになるのも、下町が荒れるのも嫌だよ。どれだけの人間が死ぬことになるのか、考えただけでぞっとする。のんびり平和に暮らせりゃ、それに越したことはない。誰だってそうじゃねえの? それともあんたは違うのか、ディー」
ディズジェーロはゆっくりと目を伏せる。次に視線が合ったときには、数秒前までの危うい空気は、幻のように消えていた。
「違わない。戦を防ぐために私も動いているのだから」
「ああ、あんたは貴族派って方の……穏健な側の派閥なんだっけ」
頷くディズジェーロの表情は穏やかで、怒りの気配は消えたように思えた。しかし、ほっと息を付く間もなく、ディズジェーロは淡々と問いを重ねてくる。
「それですべてか」
「え?」
「距離の問題と未来の戦禍が回避されれば、お前にとって私は、ただ短いひと時を過ごすだけの者ではなくなるのかと聞いている」
それはたとえば、国を超えた友人になるということだろうか。
テンペスタとの小競り合いがなくなって、後ろ暗い任務からも解放された未来。そんな夢物語のような未来を夢想する。
根無草のアシエルは、きっと変わらずこの宿に居ついているだろう。森の外れにこそこそと転移でやってきたディズジェーロと落ち合わせて、並んでマリーの料理を食べる。時には酒を飲み交わして、語り合う。友人らしい友人などいたことがないが、きっと楽しいだろうと想像できた。
過去を語らい、仕事の愚痴を言い合って、再会を約束して手を振り合う。今より国境の行き来の制限が緩くなるとしたら、互いの国を堂々と案内し合う機会だってあるかもしれない。そうして足並みを合わせて、緩やかに年を取っていく。
眩しくて魅力的な人生だ。そういう生き方も、どこかにはあったのかもしれない。
けれど――。
アシエルはぎこちなく口角を上げた。
「言っただろう。俺は『勇者』なんだって。イーリスとテンペスタの開戦を防げたら理想的だな。でも、問題はそれだけじゃない。季節が狂うくらい気候がおかしくなってる。こんな街中に竜が迷い込んでくるくらい、魔獣の生息域だって変わってる。俺の敵は、別に人間だけじゃない」
それが本音のすべてではない。けれど、決して嘘を言っているつもりはなかった。
「明日には死んでるかもしれないって、そう思って生きてる方が性に合う」
少なくとも、ユリアに示唆された次の任務は、失敗しようと成功しようと、無事では済まない可能性の方が高いのだ。明日死ななくても、一月後にどうなっているかは分からない。
「あんたがどうこうって言うんじゃないんだ。ただ、俺はあんたみたいに本当に強いわけじゃないから。だから――っ!」
言葉も終わらぬ間に、アシエルの腕を抑える手とは逆の手が、するりと蛇のように喉に絡みついてきた。本能的な恐怖に身をすくめたのもほんの一瞬のこと。ディズジェーロの手に冗談とは思えない力が込められていると気付いた瞬間、考えるより先に、アシエルは自分に身体強化の魔術をかけていた。
首を締められれば意識が落とされる。落とされる前に抜け出し相手を制圧しろと、いやと言うほど上司に叩き込まれた。抑えられた腕を力尽くで振り解き、そのまま全身を回転させるようにディズジェーロの体を引き倒す。背に馬乗りになって押さえ込めば、抵抗ひとつしないまま、ディズジェーロは呆気なく全身の力を抜いた。
「何すんだよ、いきなり……!」
「――強いだろうが」
「何だって?」
睨みつけるような視線を向けられて、思わずアシエルは言葉を飲み込んだ。
ディズジェーロのフードは剥がれ、髪は寝台の上でぐしゃぐしゃに乱れている。行儀よく酒を飲んでいた姿を思うと、罪悪感が湧いてきた。押さえつけていた腕を離すと、苛立ったように髪をかきあげながら、ディズジェーロが身を起こす。
「命を脅かすものがあれば、力で跳ねのけられるだけの強さがお前にはある。使えるものは使えばいい。奪って殺して生き延びろ。単純な話だ。違うか」
そういう問題ではない、と言い返す気にはなれなかった。一蹴するには、あまりに真剣な声音だったからだ。
ディズジェーロの手が、再びアシエルの首元に伸ばされる。身構えたアシエルに触れる代わりに、ディズジェーロの手は柔らかな治癒の光を残して離れていった。
「私はお前に生かされた。そのお前が死ぬつもりで生きているというのは、気分が悪い。いつ死ぬか分からないからなどというくだらない理由は、聞きたくもない……!」
歪んだ表情も、恫喝するような低い声も、怒っているというよりは、懇願しているとしか思えなかった。
似合わぬ乱暴な仕草でアシエルの胸ぐらを掴んだディズジェーロは、ほとんど額のぶつかりそうな距離で、アシエルを睨みつけてくる。
「くだらない任務で命を落とすような間抜けなら、死んでいようが引きずり戻してその首をかき切って、己の迂闊さを後悔させてやる。それが嫌なら、初めから死ぬな」
言葉面だけは物騒だが、その言葉は不思議とアシエルの胸に響いた。情けなくも唇の端が引きつって、慌ててアシエルは顔を手のひらで覆う。
いつの間にか出来上がっていた勇者のハリボテの外側は、アシエルの側から見ることは叶わない。勇者ならできて当然だと、信じていると言われても、それは嘘だと誰より自分が知っていた。だからこそ、アシエルが嘘つきだと知っている誰かに、大丈夫だと言ってほしかったのかもしれない。
「……だから、あんたの言い方はいちいち怖いんだって」
「それは失礼。馬鹿でも分かる言葉を使おうと思うと、こうならざるを得ない」
魔王らしい物言いが本当に良く似合う。込み上げた感情を、アシエルはからかい混じりにごまかした。
「冷めたやつかと思ったら意外と熱いのな、ディー。びっくりした」
「私は真面目に言っている」
「分かってるよ」
酒盛りをするはずが、なぜ取っ組み合うことになっているのか。この状況そのものがだんだん面白く思えてきて、いつしかアシエルは本気で笑っていた。
胸ぐらを離されたのをいいことに、アシエルはわざとディズジェーロに向かって倒れ込む。感触のいいローブに耳を当てると、穏やかとは言いがたい心臓の音が聞こえてきた。センチネルではないアシエルには、ここまで近づかなければ心臓の音など聞こえない。忙しなく走る心音に耳を傾けながら、アシエルは静かな声で呟いた。
「……撤回するよ。あんたとは会うつもりもなかったのに何度も会ってるし、世話になってる。神の導きなのかってくらいな。情をうつしたくないだの、すぐに終わる関係だの、今さらだった」
「それでいい」
「偉そうなやつ」
嫌がらせのつもりでわざと体重をかければ、「重い。離れろ」と冷たく突き放される。くだらないじゃれ合いが、楽しくて仕方がなかった。日が落ちる前までの憂鬱な気分など、すっかりどこかへ消えていた。ぱっと酒瓶を掴んだアシエルは、見せつけるようにディズジェーロの前で中身を振る。
「さ、続き飲もうぜ。これ、このまま飲んでもいいけど、コークで割っても結構いけるんだ」
「私はそのままでいい。お前の舌はどうかしている」
本気で嫌そうなディズジェーロの顔が面白くて、吹き出すようにアシエルは笑った。
開けたグラスの数に違いはそうなかったけれど、顔色ひとつ変えていないディズジェーロに対して、同じペースで飲んだアシエルは早々に酔っ払っていた。何がそんなにも嬉しいのかも分からないまま、けらけらと笑っては、互いの話を肴にグラスを傾ける。
テンペスタには人工街灯が発達しているだとか、イーリスの鐘が鳴る時間はそれほど正確ではないだとか、互いの国についての取り止めもない話をしたように思う。特に面白みのある内容でもないのに、肩を並べて酒を飲むのがひたすらに楽しくて、その日飲んだ酒は、今まで味わったどんな酒より美味く感じた。
「弱いならそんなペースで飲むな。お前の好きな不気味なコーク割りにでもしろ」
「弱くねえ」
「それ以上飲むと吐くぞ。そんなところまで嘘を塗り替えなくていい」
「大丈夫大丈夫」
「やめろといっているんだこの酔っ払いが……! 人の話を聞け、アシエル!」
下の食堂から客の声が消えるころになると、しまいには眉間に皺を寄せたディズジェーロにグラスを取り上げられたような気もするが、真偽のほどは定かではない。
気づいたときには部屋は片付けられ、真っ暗な部屋の中、アシエルひとりが寝台に横たわっていた。今夜は新月らしく、窓からは光ひとつ差し込んでいない。開かない目をゆるゆると擦った後で、アシエルは顔だけを上げて、気配だけを頼りにディズジェーロに声を掛けた。
「ディー? 帰んの?」
「ああ」
アシエルからは見えないけれど、センチネルのディズジェーロなら、暗闇でもはっきりと見えるだろう。落ちそうな瞼を無理矢理上げて、へらりと微笑み手だけを振る。
「楽しかった。また飲もうな、ディー」
「……そうだな。いずれまた、アシエル」
おやすみと言う猶予もない。えも言われぬ幸福感に満たされたまま、アシエルはゆるやかに意識を手放した。




