24.不穏の足音②
目的地もないまま、ひたすら街を練り歩く。冷えた体を温めたかったというのもあるし、何よりも沈む気分を落ち着けたかった。
酒でも飲もうかと町並みを眺めてみたけれど、人の出入りが激しい店に入る気分ではない。かといって静かな場所でひとり飲んでも、余計に気分が沈むだけだ。宿に戻って馴染みの客を相手にカード遊びでもすれば、気晴らしになるだろうか。
そんなことを考えながら歩いているうち、気づけば夕方の祈りの鐘が鳴っていた。聞き慣れた穏やかな鐘の音に、アシエルはぼんやりと耳を傾ける。
夕方の鐘が鳴るのは、昼の人々が街から消えて、華やかな夜の喧騒が街を満たすまでの、ちょうど狭間の時間帯だ。帰る場所がある人々も、夜の準備に追われる人々も、皆が忙しなく通りを過ぎていく。こだまする鐘の音が心細さを駆り立てるのは、アシエルに行き場所がないせいだろうか。
ふと、知った気配のざわめきを近くに感じた。ゆらゆらと不安定に揺れる気配は、鐘の響きが消えていくと同時に安定していく。立ち止まったアシエルは、ほんの数秒考えてから、それまで歩いていた方向と真逆に足を向けた。
口実ならばいくつでも用意できるから。心のどこかがそう囁いたときには、アシエルは気配を辿って駆け出していた。
人気のない細い路地の先に、影に紛れて歩く男の姿を見つける。頭から足先まで、全身をすっぽりと黒いローブに包んだ長身の姿を目にした瞬間、知らずアシエルは口角を上げていた。
弾む息を隠しつつ、「そこの兄さん」と呼びかける。訝しげに振り返ったディズジェーロに笑いかけ、アシエルは客引きの口振りを真似ながら駆け寄った。
「夕食まだならうちに寄っていかない?」
「……うち?」
「いや別に俺の家じゃねえけど。宿の食堂」
「なぜ」
表情が見えずとも、ディズジェーロの困惑が伝わってくるようだった。あえて気づかぬふりをして、アシエルは軽い口調で問いかける。
「なんだよ、仕事中か?」
「いや」
「ならいいだろ。酒飲もうぜ。昨日の礼代わりに良いやつおごるからさ。どうよ?」
我ながらなれなれしいとは思ったが、ディズジェーロには散々世話になっているのだから今さらだろう。アシエルの勢いに押されるように、ディズジェーロは一歩後ずさる。
「……何だ、いきなり」
「飲む相手を探してたところに、あんたを見つけたから。考えてみれば一緒にメシ食ったことはあっても飲んだことはなかったし、ちょうど良いかと思っただけだよ」
言いながら、昼にマリーが言っていたことを思い出したアシエルは、「それに」と片眉を上げながら言葉を足す。
「俺、あんたのところで潰れるまで酒を飲んだことになってるらしいじゃないか。いつ俺たちが仲良く酒盛りしたんだ?」
「他にそれらしい説明が見つからなかった」
ディズジェーロがふいと視線を逸らす。気まずそうな態度に、ほんの少し気分が良くなった。
「別に文句を言いたいわけじゃない。どうせなら嘘を本当にしちまわないかってことだよ。さすがに吐くまで飲む気はないけどな。用事がないなら、付き合ってくれよ」
「そういうことなら……いいだろう」
「決まりな。行こうぜ、ディー。ここからならあっちの通りに出た方が早い」
笑みを深めたアシエルは、ディズジェーロの肩を叩いて先を急かす。
燃えるような夕焼けの下、隣に並び、軽やかに歩く。先ほどまで感じていた寄る辺のなさは、嘘のように消えていた。
宿についたときには、日はすっかりと暮れていた。薄暗闇の中、橙の外灯に照らされた扉をくぐる。軽やかな鈴の音が響くと同時に、香ばしい料理の香りが鼻腔をくすぐった。
「いらっしゃい。あら、おかえりアシエル」
「ただいま。マリーさん、酒ある? 上等なやつ」
開口一番酒を求めたアシエルを見て、グラスを磨いていたマリーは不思議そうに首を傾げる。
「いきなり何だい。酒なら山ほどあるけど、あんたどれのことを言っているのさ」
「ほら、あれだよ、いつだか味見させてくれた、辛めの――」
そこまで言ったところで、はたとアシエルは隣のディズジェーロを仰ぎ見る。そういえば、まだ酒の好みを聞いていなかった。
「ディーは酒、強い方か?」
「弱くはない」
「辛いのと甘いの、好みは?」
「おかしな雑味が少ない酒なら、なんでも」
「じゃあ多分いけるだろ。マリーさん、秋の収穫祭の時に飲ませてくれた綺麗な橙色の酒って、あれだよな?」
カウンターに身を乗り出して、細く角ばった瓶を指さす。「あれは琥珀色っていうんだよ」と苦笑したマリーは、棚から透明なグラスを二つ取り出した。
「琥珀?」
「そう。古い時代の虫や葉っぱが、その時代のまま時を止めて、こういう色の宝石になるんだって。幸福の象徴さ。すぐに用意するから、待ってな」
「ありがとう。あ、瓶ごともらってもいいかな? あと、つまみも。腹にたまりそうなやつがあれば欲しい」
「……瓶? なあに、もしかして部屋で飲むの? ふたりで?」
ぴたりと動きを止めたマリーは、アシエルとディズジェーロを交互に見て、確かめるように問いかけた。
「あんたが? 部屋で?」
「まずいかな」
「そんなことはないけど……珍しいこともあったもんだ。アシエルが部屋に誰かを連れてくるなんて、初めてじゃない。あんたにもようやく友達ができたみたいで、嬉しいよ」
「友達って――」
その言い回しはどうなのか。悩んでいる間にも、「あら、そういうことでしょう?」とマリーは琥珀色の酒の瓶をアシエルに押し付けてくる。
「昨日の今日で酒盛りするくらいには、気が合うってことでしょう。いいことじゃない」
「別にそういうんじゃないって。単に飲みたい気分なんだよ。最近寒くなってきたし」
「そんな照れなくてもいいでしょうに」
くすくすと笑いながら、マリーが微笑ましそうな視線を向けてくる。黙ったままのディズジェーロが、フードの下から向けているだろう視線も痛い。どうにも居たたまれなくて、アシエルは逃げるように階段へ足を向けた。
「とにかく、料理はあとで取りにくるよ。……ディー、こっち。部屋は上にあるから」
ごゆっくり、と笑い交じりに告げるマリーの声を聞きながら、アシエルはディズジェーロを宿の部屋へと連れて行った。
狭い宿の一室に、客が座れる場所は当然ない。寝台にディズジェーロを座らせつつ、アシエルは備え付けの机をベッドの隣に寄せた。マリーが作ってくれたつまみを机の上に並べて、グラスに酒を注げば、無骨ではあるが酒盛りの場の完成だ。
ベッドの上で行儀悪くあぐらをかきながら、アシエルはなみなみと酒を注いだグラスをそっと掲げる。
「乾杯」
視線で催促すれば、無言でディズジェーロもグラスを掲げた。味を確かめる程度に酒を含んだ後は、多めに用意してもらったつまみに手をつけ、空腹を訴える胃を慰める。腹にたまるものばかりを選んで次々と口に運ぶアシエルとは対照的に、ディズジェーロは食べ物よりも酒を飲む気分なのか、香りを楽しむようにゆっくりとグラスを傾けていた。
「物のない部屋だな」
部屋の中を見渡したディズジェーロが、思わずといった様子で呟いた。
趣味と言えるほどの趣味を持たないアシエルにとって、私物と呼べるものは使い古しのカードくらいだ。そもそもとして、明日をも知れぬ身の上で、物を増やす気にはなれない。
「人のことが言えるのかよ。あんたの部屋だって似たようなもんだったろ」
「あれは仮宿だ」
「ならテンペスタの本宅は物に溢れてるって?」
「それなりに。肌に触れるものを選り好みしていると、勝手に増えている」
その言葉に、アシエルはディズジェーロのローブの滑らかな感触を思い出す。触覚のセンチネルが感触にこだわることは珍しくはないが、あの質の衣服なり寝具なりが必要だというのなら、たしかに物は増えそうだ。
「羨ましいね。あんたの寝床は、さぞかし寝心地がいいんだろうな」
言いながら、アシエルはまたひとつ塩の振られた芋を口に放り込む。思いのほか熱かった芋にアシエルが眉を寄せる横で、ディズジェーロはグラスを置いて、居住まいを正した。
「話したいことがあったのではないのか」
「ん? ああ……」
単純に酒を飲みかわすだけでも良かったけれど、言われてみれば、昨日のことを話すのにこれ以上の機会はない。注いだばかりの酒を景気づけにと一気に煽る。ほてる体を感じながら、アシエルはディズジェーロに向かって、深々と頭を下げた。
「昨日はありがとう。改めて礼を言いたかったんだ」
「礼を言われるほどのことはしていない」
「してるさ。何回も命を救われた。あんたがいなかったら、俺はあそこで死んでたよ。助けてくれて、本当にありがとう」
真面目な顔で礼を告げるアシエルにたじろぐように、ディズジェーロは視線を泳がせた。
「……あの程度、お前ならばどうとでもなっただろう」
「ならない。気づいただろう?」
何を、とはあえて言わなかった。グラスを置いたアシエルは、ぐっと身を乗り出してディズジェーロの目を覗き込む。首元にぶらさげたペンダントを見せつけるように指で持ち上げれば、ディズジェーロは今度こそ言葉に迷った様子で目を逸らした。
「なんで何も言わないんだ。ディー」
「……地下に施設など存在しなかった。あの場で起こった出来事も、存在しない」
声を低めて追及すると、渋々と言った調子でディズジェーロは答えた。分かりにくい言い回しだが、要するに見なかったことにしてくれると言っているようなものだ。じわじわと、泣きたくなるような安堵がアシエルを満たしていく。
「気にならないのか。自意識過剰かもしれないけど……俺、こんなんでも勇者なんて呼ばれてるんだぜ? テンペスタにとって役に立つ情報かもしれないのに」
「今は職務時間外だ」
「なんだそりゃ」
いつかも聞いたような言葉に、アシエルはくしゃりと顔を歪めて笑った。ディズジェーロがどこまでアシエルの事情を察しているのかは分からない。それでも、ディズジェーロの迂遠な言い回しに含まれた気遣いが嬉しかった。
「あんたも大概、人がいいよな」
「生まれて初めて言われた評価だ」
褒めたつもりが、気味悪そうな顔をされてしまった。
「今まで何を言われてきたんだよ」
「真逆の評価を」
「そ、そうか……」
咳払いをしたアシエルは、「そういえば」とやや強引に話題を変える。
「なんで魔王なんて凶悪なあだ名を付けられてるんだ? いや、あんた怖えから似合うけどさ」
「生まれつき魔力が多くて、感覚も鋭かった。それだけでも周りから見れば不気味だっただろうが、こんな仕事を長く続けていれば、人からどんな目を向けられるかは、語らずとも分かるだろう」
「まあ、なんとなくは」
護衛に戦闘、魔物の討伐。センチネルなら諜報や潜入、暗殺あたりも含まれてくるだろうか。今のアシエルがさせられているような仕事を、さらに遠慮なく進化させたような業務になるのだろう。
もっとも、身分が違えば状況も違うのかもしれないが。
自分のグラスに酒を継ぎ足すついでに瓶を向ければ、ディズジェーロは優雅な動作で酒を受けた。グラスひとつ傾ける所作からして、生まれ育ちの差を感じる。
「血生臭い仕事は下っ端がやるもんかと思ってた。あんた、貴族じゃねえの? 将官だよな?」
「書類上は」
「引っかかる言い方するよなあ」
「竜を殺した結果、お前は王族付きの勇者になったのだろう。根本は同じだ。利用価値があったから、貴族の養子に迎えられた。首輪代わりに、額面上の地位を寄越された。それだけのことだ」
酒が口に合ったのか、早々に酒を飲み干したディズジェーロは、「とにかく」と素っ気なく話を切った。
「私はお前が思うような人間ではない。人がいいと感じるのなら、それはお前に対してだけだ」
「んん? 俺、なんかしたっけ」
「私はお前に救われた」
フードの奥から覗くディズジェーロの眼差しは、向けられたこちらが怯むほど真剣な色を宿していた。
「救われたって……テスの町での調律か? 貸しひとつにどれだけ返してくれるんだよ。俺の方が借りっぱなしじゃねえか」
ディズジェーロは否定も肯定もしなかった。かといって、他に思い当たることもない。頭を悩ませたアシエルは、迷った挙句にグラスを置いて、手を差し出すことにした。
「礼になるかは別として、そんなに気に入ったんなら、調律でもしておくか?」
「礼はいらないと言った」
「借りっぱなしは落ち着かねえんだって」
言い募れば、根負けしたようにディズジェーロは手を持ち上げた。酒精で火照ったアシエルの手とは違って、ディズジェーロの手はさらりと乾いて冷たいままだ。差し出された手を握りながら、アシエルはきまり悪く呟いた。
「こんなことくらいしかできないけど……馬鹿のひとつ覚えで悪いな」
「私にとっては、こんなことと言うほど小さなことではない。救われたと言ったはずだ」
「……そうかよ」
世辞だろうと、悪い気分ではなかった。
瞼を下ろし、精神を繋ぐ。回数を重ねるたびに慣れは増し、ディズジェーロの力を受け止める負担は減っていた。とはいえ、この規格外の力を調律するのは骨が折れる。他のセンチネルを相手にするとき同じやり方では、満足に調律しきれない。もっと効率よく力を受け入れることはできないかと考えて、ふとアシエルは閃いた。
「あんた、触られるのは嫌な方?」
「何の話だ」
「昨日、手じゃなくても繋がったなと思ってさ。触ってる範囲が広い方がやりやすいのかなって――うわっ!」
言った側から膝立ちになったディズジェーロが、アシエルの服の間に手を突っ込んできた。調律の負担のせいでじっとりと汗をかいた脇腹に、ひたりと冷たい手が触れる。
「これでいいのか」
「やる前に言えよ。俺、腕あたりを試しに触らせてもらおうと思ってたのに」
「同じことだろう」
目的だけを考えれば同じではあるが、だからといって腕と腹では大きな差がある。とはいえ、提案した己が言えた義理ではない。ため息をついたアシエルは、再び自身の内部へと意識を集中させた。
触れる場所が増えた分、一度に受け入れられる力が量を増す。狙い通りに調律の効率は上がったが、その分アシエルにかかる負担も、生半可なものではなかった。こめかみに浮かんだ汗が、次から次へと頬を伝い落ちていく。体の内側から精神を圧迫されるような感覚に、息が上がり始めていた。
言い出しておいて何だが、思ったよりもきつい。目眩を起こしかけた瞬間、ディズジェーロはそれを察したかのように、アシエルを自分の肩にもたれかからせる。遠慮なく体重を預けながら、アシエルは苦々しい思いで顔を歪めた。
乱れを多少整えることはできても、やはり健康な状態までは調律し切れない。アシエルの能力と比べて、ディズジェーロの力が大きすぎるのだ。
「……ここまでだ。もっと調律が上手ければ、ちゃんと整えてやれるのに。悪いな」
「十分だ。お前の調律は好ましい、アシエル」
柔らかさを増した声で、「とても、気分がいい」とディズジェーロが囁いた。昨夜を思い起こさせるような気の抜けた声と、服越しに伝わる体温に、不本意ながら体の火照りが増す。
「なあ、ディー」
ディズジェーロの肩に額を預けたまま、アシエルは躊躇いつつも口を開いた。顔が見えない方が、話しやすいこともある。
「昨日、嫌だったか」




