22.怨嗟に狂った研究者⑧
力の抜けたアシエルの体を、ディズジェーロは丁寧に両腕で抱きとめた。アシエルが意識を失ったためか、つい数秒前まで共有していた底なしの欲求は、波が引くように消えていく。そのことに安堵しながら、ほっと息をついた。
膝の上に乗せたアシエルの体を抱き寄せ、寝息にそっと耳を寄せる。
あたたかかった。頬にかかる吐息も、腕の中にある体も。
直前までしていた行為のせいもあるだろうが、そうでなくともアシエルの体温はもともと高い。初めて会った時から、そうだった。
アシエル本人は、きっと覚えてすらいないだろう。けれど、みじめに死にかけていた十一年前の冬の日、アシエルが与えてくれたあたたかさを、ディズジェーロが忘れたことは一度もない。母に抱かれた記憶すらなく、悪意と私欲に囲まれて生きてきたディズジェーロにとって、何の見返りも求められずに与えられた救いなど、それが初めてだった。
新緑よりも眩しい瞳も、「大丈夫」と言い聞かせるように囁く声の優しさも、強引にこちらの手を掴んで離してはくれなかった手の熱さも、自らでさえ労りようのないところにある精神を慰撫される、形容しようのない心地良さも、すべて鮮やかに、昨日のことのように覚えている。
早く死にたい、死ねば楽になれると、そればかりを望んで生きてきた。――あの日、アシエルに救われるまでは。
アシエルという人間を知れば知るほど、興味を惹かれることを止められない。
一時の快楽など、欲しくない。そんなものでは満足できない。ディズジェーロは、あの日己に与えられた、あのぬくもりそのものが欲しいのだ。
素朴なシチューを口にしながら、アシエルと交わす会話を好ましく思う。感情をむき出しにして詰られるのも、悪い気分ではなかった。叶うことなら、アシエルが宿の女将や仲間たちに向けるものと同じ気安さで、心を交わしてみたかった。
快楽が手段として有効だというのなら、使ってもいい。けれど、正気の本人と合意の元で行為に及ぶならまだしも、衝動に身を任せた挙句、これまで詰めた距離までも開けられるようなことになれば、本末転倒もいいところだ。
それに――。
「お前は、体よりも情で絆す方が効くだろう?」
囁きながら、ディズジェーロはそっとアシエルの頬を撫でた。
まるきり拷問を受けた後のような有り様で、ふらふらと機密施設の中を歩いていたアシエルを見つけた瞬間、湧き上がった感情を正確に言い表す言葉をディズジェーロは持たない。犬のように使われる面倒な単独任務を、厭わしく思わない日はないが、今日に限っては実行者が己であった事実を初めて天に感謝した。
肌に触れても、アシエルは深い寝息を立てたまま、目覚める気配がない。元々の疲労もあるだろうが、だまし討ちのようにかけた睡眠の魔術が、恐ろしいほどによく効いているのだ。二つ名に相応しい強大な魔力を、アシエルが真実その身に宿していたならば、決して効くはずのない初歩的な魔術が。
重苦しい気分で、ディズジェーロはアシエルの軍服を慎重にはだけた。上着の左側を探れば、記憶通り、気味が悪いほど赤い宝石が、内ポケットに仕舞いこまれていた。命と天秤にかけるほど大切な物ならば、仕舞うところを無防備に他人へ見せるなと、よほど言ってやりたかった。
「……警戒心が足りない」
血の色の石を手のひらに乗せ、魔力を流す。どくりと脈打つように明滅した石は、当然のようにディズジェーロの魔力を吸い取った。逆方向に魔力を動かせば、己のものだけではない、混ぜこぜになった魔力が身の内に流れ込んでくる。
薄々勘付いてはいたが、当たって欲しくなかった予想が当たってしまった。石の機能を確かめるや否や、ディズジェーロは苦々しく顔を歪める。
「なぜ、よりにもよってお前が持っている。アシエル……」
無防備な寝顔を晒しているアシエルを見下ろしながら、ディズジェーロは呻くように呟いた。
これまでに違和感はいくつもあった。ディズジェーロに匹敵するほどの膨大な魔力を扱う割には、アシエルの放つ魔術は力任せもいいところで、魔術師ならば当然会得しているはずの基礎さえ粗い。だから簡単に他人に魔術を砕かれるし、緻密な制御が苦手になる。技術が魔力量にまったく釣り合っていないのだ。
不気味な赤色の石に視線を落とす。ディズジェーロの考えが間違っていなければ、それは『賢者の石』と名付けられた人工石だ。
無尽蔵に魔力を貯蔵できる奇跡の兵器。製法の複雑さゆえ、完成品はこの世にただひとつしか存在しない。関係者と研究資料の廃棄をディズジェーロが命じられた、テンペスタの機密研究のひとつだ。国から消えて二十年以上が経過し、もはや回収は絶望的だとされていた研究の産物が、今ディズジェーロの手の内にある。
痛む頭を押さえたい気持ちをこらえつつ、ディズジェーロは手早くアシエルの衣服をはぎ取った。血の匂いが薄くなるまで身を清めてから、ひとまずアシエルを寝台に運ぶ。数秒悩んだ後で、赤色の石を適当な紐に括りつけたディズジェーロは、持ち主の首元にペンダントを返すことにした。
知っている者すら一握りの、消えたとされている道具を、わざわざ掘り起こす必要はないはずだ。非合理にもほどがある思考だという自覚はあったが、アシエルがあれだけ大切そうにしていたものを、取り上げる気にはなれなかった。
眠り続けるアシエルを眺めたあとで、ディズジェーロは寝台のそばを静かに離れた。締め切った部屋には光は届かない。窓の目張りの隙間から漏れ見える朱色だけが、辛うじて今が黄昏時であることを教えてくれた。
アシエルに掛けた眠りの魔術は、短くとも数時間は解けないものだ。一通り警備の混乱が落ち着いた頃合いを見て、下町の宿に運べばいいだろう。
簡単に身なりを整えたディズジェーロは、手のひらに収まる小さな魔道具を懐から取り出し、起動した。魔術と科学を組み合わせたテンペスタ製の最新の道具は、国を跨いだ長距離の通信をも可能にする。魔力消費が激しいため未だ実用化段階にはないものの、報告には便利な代物だ。
「エヴァンジェリン様」
『――はい』
呼びかけると、魔道具の真上に、空中に浮かび上がるようにしてひとりの女性の顔が映し出された。きっちりと結い上げられた水色の髪に、眼鏡をかけた女性――書類上の姉であるエヴァンジェリンは、ディズジェーロとよく似た無表情で応答する。
『お待ちしていました。首尾はいかがですか、ディズジェーロ』
「施設、人員ともに廃棄は完了、該当資料は破壊済みです。軍部への報告書も、そのように」
『それでよろしいでしょう。それ以外には、何か?』
「殺しても死なない奇妙な存在を確認しました」
『……皇帝陛下にも困ったこと』
通信機器の向こう側で、エヴァンジェリンが深々とため息をついた。
『得体の知れない研究を、わざわざ隣国に根を張って行うなど。いえ、イーリスは結界の中心地ですから、そこでなければ行えない研究があるという事情は理解できますけれど』
「理解できかねます」
『理解してください。まあ、それは別としても……グレゴリオ陛下がなさっていることは、大陸宗教への背信行為そのものですよ。とんでもないことです』
ディズジェーロの言葉も耳に入らぬ様子で、エヴァンジェリンは苛立ち混じりに嘆く。
『イーリスに知られれば、それ自体が開戦の引き金になりかねないというのに』
「そうですか」
『興味がなさそうですね。わたくしは時々、あなたが皇帝派なのか貴族派なのか、分からなくなります』
「私は軍人です。上が貴族派ならば、それに従います」
機械的なディズジェーロの返答は、求められている反応ではなかったらしい。不機嫌そうにエヴァンジェリンが目を細める。
沈黙が落ちたその時、緊張感を帯びた空気を砕くように、寝返りをうつ音が背後から聞こえてきた。
「んー……」
寝息混じりのアシエルの声を聞き取った瞬間、険しい顔をしていたエヴァンジェリンは、虚をつかれたように目を丸くする。
『あら。あなた、ひとりではないのですか? まあ、どなた? 仮の住処とはいえ、人間不信のあなたが寝室に他人をいれるなんて』
面白がるようにエヴァンジェリンが身を乗り出す。無表情が常である義姉がこのように表情をほころばせるところなど、見たことがない。
『ご友人? それともまさか、心を通わせた方? テンペスタから連れて行ったのかしら? イーリスで出会ったの?』
「いえ、そういった者ではありません」
『義姉にも教えてくれないのですか、ディズジェーロ?』
喜色を隠さぬ声に、ディズジェーロは困惑する。書類上では姉弟でも、ベイグラント公爵家の正統な娘であるエヴァンジェリンと異なり、ディズジェーロは養子に過ぎない。親しくしてきた覚えもないし、そもそも彼女は、ディズジェーロの力を恐れ、疎んでいたはずだ。
「……軍部への報告書をまとめねばなりません。そろそろ失礼いたします」
『つれないこと。――ああ、ディズジェーロ』
再び落ち着いた声音に戻ったエヴァンジェリンは、通信を切ろうとしたディズジェーロを呼び止める。
『あなたには儀式調査の名目でイーリスに留まってもらっていましたが、皇帝陛下の周囲が騒がしくなってきています。近いうち、テンペスタへ帰ってきてもらうことになるでしょう』
「承知しました」
『では、また。息災を祈っています』
ぷつりと音を立てて、魔道具は停止した。
小さくため息をついたディズジェーロは、足音を立てぬように寝台に近寄ると、浅く腰を下ろす。
アシエルは、腹を上に向けた危機感のかけらもない姿で寝入っていた。ヘッドバンドで前髪を抑えつけていないせいか、それとも眠っているからなのか、普段よりも幼く見える。むき出しになった腹にぎこちなく毛布を被せながら、ディズジェーロは項垂れた。
命令はいつも突然で、一介の軍人に否と返せる権利はない。それでも今は、もう少しだけこの日々が続いて欲しいと願った。




