21.怨嗟に狂った研究者⑦
力の入らぬ体でアシエルが母の形見を回収している間にも、魔獣たちは穴から沸き続ける。しばらくは真面目に剣を振っていたディズジェーロも、きりのない仕事に嫌気がさしたらしい。煩わしそうに目を細めたかと思うと、大掛かりな魔術を組みだした。
低く囁くような詠唱とともに、赤色に煌めく魔法陣が、目の前で次々と重ねられていく。ディズジェーロの声が止まると同時に、朱色の炎が地面を舐めるように広がった。
魔獣たちが這い出てくる大穴に容赦なく流れ込んだ炎は、数分と立たぬうちに、景気の良い爆発音を響かせる。忍ぶ気のなさそうな派手な魔術を目の当たりにして、アシエルは地面にぐったりと座り込んだまま、顔を引きつらせた。
これだけの音が響けば、さすがに警備が駆けつけてくるはずだ。この場に残るべきか、それとも先に部隊の仲間にも連絡を取るべきか。考えたいのに、思考がうまくまとまらない。
体の奥底から這い上がってくるような痺れに耐えかねて、アシエルは震える息を吐いた。気が抜けたせいなのか、立つことすらできないほどに薬が回っていた。報告や状況説明どころか、人に会うことすら満足にできるかどうか疑わしい。
仕掛けた魔術が起動したことに満足したのか、穴をのぞき込んでいたディズジェーロが剣を納めて戻ってくる。座り込んだままディズジェーロを目だけで見上げて、アシエルは決まり悪く口を開いた。
「なあ、散々世話になった挙句に悪いんだけどさ、肩貸してくれねえ? 宿……はまずいか……血まみれだし……。どこでもいいからさ、ここから遠くで、人の来なさそうなところに置いてって欲しいんだ。知り合いのよしみで、頼めねえかな――」
つらつらと言い連ねたところで、知り合いのよしみという割にはディズジェーロの名前すらまともに呼んだことがないことに思い至った。気だるい体に鞭打って顔を持ち上げ、アシエルはじっとディズジェーロの瞳を見上げて頼み込む。
「ディー。でぃず、ジェーロ。だめか?」
回らぬ舌で名前を呼ぶ。貴族らしく洗練されたふるまいを崩さないディズジェーロには珍しく、小さな舌打ちが聞こえたような気がした。
「質が悪い」
「え? ……うわっ」
荷物のようにアシエルを肩の上へ抱え上げたかと思うと、ディズジェーロはひらりと屋根に跳び上がった。
肩を貸してくれとは言ったが、そういう意味ではない。耐えるように目を固く閉じたアシエルは、荒くなる息を殺しながら、ひとりになれるその時を祈りながら待っていた。
どこをどう動いたのか把握する余裕もないまま連れてこられたのは、薄暗く小綺麗な部屋だった。こじんまりとした作りの部屋は宿の一室のようにも見えるが、安宿とは違う手入れの行き届いた内装は、どこぞの屋敷の一室と言われた方が違和感がない。礼を告げるよりも先に浴室に放り込まれたアシエルは、着衣のまま容赦なく湯を被せられていた。
鼻の良すぎる男曰く、「血の匂いが鼻につく」らしい。
「その辺、の……路地に、捨ててってくれれば……良かったんだけど」
「そこまで非情ではない」
「感謝はしてる、けど……ここまで、連れてくる方が、人情に欠ける……っ、と、思わねえ? 俺の状態、分かるよな。薬打たれてるんだって。あやしいオクスリを。しばらく、ひとりに……してくれねえかな」
「どうぞ。お前はお前で好きにしてくれて構わない。私はただ、気分が悪くなる匂いを洗い落としているだけだ」
「好きに、って……、は……」
思いがけず丁寧な手つきで髪を梳かれたかと思えば、アシエルの頭に再度大量の湯が降り注いだ。赤黒く染まった水が、浴室の白い床を流れ落ちていく。なんとなしにその光景を眺めながら、アシエルは震える手をそっと握り込んだ。
わざとやっているわけではないのだろうが、ディズジェーロの手がふとした拍子に触れるたび、肌がざわめく。繋ごうと思っているわけでもないのに、肌が触れるだけで、調律時のように精神が繋がってしまうのだ。己の精神を守るための盾がうまく機能していないのか、ディズジェーロの高揚がそのまま自分のもののように感じられて、目が回りそうだった。
湯を掛けられる拍子に、ディズジェーロの手が頭皮を掠る。思わず肩を震わせて、直後にアシエルは、羞恥をごまかすように舌打ちした。
悪気はないと分かっていても、じわじわと内側から熱を高められているような現状は、アシエルにしてみればただの拷問だった。肌を滑る湯さえ妙な官能を呼び起こすのだから、腹立たしくなる。
「……出てってくれねえ?」
「気にしないと言っている。離れたところでどうせ筒抜けだ」
「だから、そういうこと言わない方がいいって」
「それは失礼」
いっそ憎らしくなるほどディズジェーロの声音は冷静だった。
すっかり血も汚れも雪がれたアシエルの髪を、仕上げとばかりに撫でつけて、ディズジェーロの手はアシエルの額から頬へ、そして首元の動脈を辿るように降りていく。急所に触れられる恐怖と、触れた肌から微弱に流れ込むディズジェーロの力に、アシエルは全身をぶるりと震わせた。
「さわ、るな……」
「面白いな」
伸ばされた手はアシエルの首を包み込み、戯れのように血管を締め付けてくる。首を絞められるのではないかと息を呑んだ瞬間、くつりとディズジェーロが喉を鳴らした。
ただでさえ熱い体が、余計に昂る。そう錯覚したのは、流れ込む力に紛れ込むディズジェーロの感情のせいだろう。
好奇心。興奮。愉悦。言葉にするなら、そんなところだろうか。悪だくみでもしているかのような顔には似合わず、流れ込んでくる感情は子どものように純粋だった。
他者と触れ合い、精神を繋ぐのは気持ちがいい。ぴりぴりと全身を巡る力に堪えかねて、アシエルは縋るように自らの首に手を伸ばすと、ディズジェーロの指を弱々しく握りこんだ。
ディズジェーロが小さく首を傾げる。艶のある黒髪が頬に落ちる様が、妙に新鮮だった。なぜそう思うのかと考えて、普段隠されている顔がむき出しになっているからだと思い至る。女だろうが男だろうが、イーリスだろうがテンペスタだろうが、美しいものは美しい。アシエルは、ぼんやりとディズジェーロに見惚れていた。
「これは、お前の力か? アシエル」
形の良い唇が、ゆっくりと言葉を刻む。
「ちから……?」
「お前の調律は心地いい。受け入れられて、整えられる。それが分かる。お前が教えてくれた。……お前だけが、教えてくれた」
熱に浮かされたようにディズジェーロが呟く。言葉の意味が理解できず、アシエルは眉根を寄せた。
「今は、調律してねえけど」
「されている。繋がっている。そうだろう?」
首に添えられていたディズジェーロの指が、アシエルの指先を掬い取る。ひやりと冷たい手は、体中どこもかしこも熱を増したアシエルにとっては、ひどく心地よかった。指の一本一本を絡めるように、ゆっくりと隙間なく手を繋いだ瞬間、アシエルとディズジェーロは示し合わせたように、同時に息をつく。
「……これは何だ? 何をした? お前の体を満たす感覚も、感情も、手に取るように理解できる。経験のない感覚だ」
同じ感覚を共有しているのだと、聞くより前に理解した。
ディズジェーロの目の奥には、奇妙な熱が灯っていた。真っ赤な瞳に映る己もまた、目の前の男とまったく同じ表情を浮かべているような気がした。
アシエルは何もしていない。薬のせいで、流れ込む力を拒めなくなっているだけだ。本来アシエルが一方的に覗いて共有していただけの感覚が、盾が弱まっているせいで双方向に感じ取れるようになっているのだろう。弱く細く流れ込むディズジェーロの力はアシエルの体を巡り、繋いだ手を通じてディズジェーロに返っていく。
力に互いの感情と感覚を乗せて、巡り合う。
ディズジェーロの言う通り、経験のない感覚としか表現の仕様がなかった。体に燻る興奮がアシエル自身のものなのか、ディズジェーロのものであるのか、その境界がひどく曖昧で、力と感情が流れ込んでくるたびに、全身が甘く痺れた。意思とは無関係に呼吸が弾み、瞳の潤みが増していく。ディズジェーロがうっとりと目を細める様が、いやに鮮明に見えた。
「気分がいい。アシエル」
「俺も、いいけど……これ、なんか、変な癖になりそうだな」
モーガンの力をねじ込まれかけたときの気持ち悪さとは、比べるべくもない。互いの熱に煽られて、際限なく気分が高ぶっていく。
思えばディズジェーロを調律するときに、乱れの強すぎる力に負担を感じこそすれ、受け入れる力自体に違和感を感じたことはなかった。多分、相性自体は悪くないのだろう。
センチネルとガイドの相性が良いほど、調律時に互いの負担が減るとは知っているけれど、一歩踏み外せばこんなことになるとは聞いていない。形容できない感覚に、頭がおかしくなりそうだった。
――もっと、深く。
惹かれ合うように、こつりと額どうしを控えめに合わせる。接触する場所が増えたことで、わずかながら繋がりが深まった。その些細な変化さえ心地よいのか、ディズジェーロはほとんど目を閉じながら、表情を緩めている。
まるきり猫のような仕草には、つい先程まで見せていた恐ろしさなど、見る影もない。
「く、くく……何やってんだ」
「分からない。何を、しているのだろう」
「あんたに分からねえことが俺に分かるかよ……あー……これ、ほんと、まずい……」
ただの知り合いにしては、近すぎる距離だ。頭では分かっているのに、強い酩酊感のせいで、やめられない。酒に酔うことすら比べ物にならないほど、気分が良くてたまらなかった。
目が合うと、思わずふっと笑い混じりの息が溢れる。
「なんで、あんた、が……そんな顔してんだよ」
「顔?」
「気持ちよさそうな顔」
「気分は、いいが……なぜ、こんな……?」
無感情だったディズジェーロの声は、今や官能を帯びて掠れていた。赤らんだ怜悧な目元が、えも言われぬ色気を醸し出している。ゆるりと上がった唇は、無意識の調律による快楽を得ているためか、それともアシエルの感覚に同調しているためか。いずれにせよ、見ているだけで煽られる。
ただでさえ正常ではない思考が余計におかしくなっていく。見ていられなくなって、アシエルは顎をディズジェーロの肩に乗せ、視線を逸らした。
抱き合うような体勢になると、相手の体の状態がよく分かる。
「……あんたもつられたか? やらしいな」
「お前に言われたくない」
「俺は、オクスリ打たれてんの。だから、仕方がないんだよ」
相手の感じている快楽が、そのまま自分の快楽になる。味わったことのない感覚に、期待と恐怖の両方が湧きあがってきた。
けれど、その感情の動きさえ心地良い。
これ以上知れば後戻りできなくなる。薄々そう予感しながらも、アシエルは止まれなかった。
「ディー。あんたも、一緒に……」
ひとりでは決して味わえない、精神を繋いでいるからこその酩酊感が気持ち良くてたまらない。
甘えるような真似は、普段であれば決してしない。いつ死ぬかも分からない状況で、他人と深く関わりたくないからだ。
けれど――。
「アシエル?」
ディズジェーロの声に応えぬまま、アシエルは目の前の体に腕を回す。
ディズジェーロは、助けて得があるわけでもないアシエルを助けてくれた。魔術が使えない理由も聞かずに、魔力を分け与えてくれた。
だから、うっかり気が緩んでいたのだろう。快感に理性を溶かしたまま、アシエルはそろりと伺うようにディズジェーロを見上げる。
「ディー。なあ……、ぁ……?」
誘いを口にしかけた瞬間、視界がぐらりと歪んで揺れた。眠くなどないのに、勝手に瞼が降りていく。不自然な眠気を、跳ね除けることができない。
「悪……何、か……急に、眠く……?」
「……眠るといい。宿には届ける」
先程までの熱に浮かされた声とは違う、一切の感情を押し殺したようなディズジェーロの声が、耳元で聞こえた。
繋がりが途切れる。突如として空に放り出されたような心もとなさに、アシエルは細く声を震わせる。
――何だよ。
さっきまではたしかに繋がっていたのに。同じ気分で、同じ熱を分け合えたと思ったのに。
不満ひとつ発せられぬまま、アシエルの意識はそこでぷつりと途切れた。




