19.怨嗟に狂った研究者⑤
万全とはほど遠い体に鞭打って、かすかな痕跡と勘を頼りに通路を走る。全力疾走を強いられた先には、他の場所よりもやや開けた、ロビーと思わしき空間が広がっていた。
「何だ、これ……」
鉄臭い匂いが鼻を刺す。口元を覆いながら、アシエルはぐるりと周囲を見渡した。
見渡す限り一面に、血の海が広がっていた。床どころか、壁や天井までもが血で赤黒く染められている。命の気配が消え失せた惨状の現場には、悲鳴ひとつ残っていなかった。
視線を落とせば、うつろに目を見開いた人間の頭部が、いくつも床に転がっていた。流れ出した黄色い脳漿が、赤黒い海にさらに残酷な色を添えている。
単純に命を奪うことだけが目的とは思えない、嬲られ苦しめられた痕跡がどの死体にも伺えた。職業柄、惨状を見慣れているとはいえ、ここまでの虐殺現場を目にした経験はアシエルにもない。
目の前の惨状に気を取られるあまり、ディズジェーロが血の海の端に佇んでいることにすら、数秒経つまで気づかなかった。まさかディズジェーロがこれをやったのかと息を呑んだ直後、その考えを否定するように、ゆらりと血の海から何かが立ち上がる。
モーガンだ。斧を片手に携え、血塗れの白衣を纏った男は、恍惚と笑顔を浮かべて振り向いた。
「やあ。騙すなんてひどいじゃないか、アシエル。その薄汚い体を嬲ってやろうと思っていたのに、許可もなくどこへ行っていたんだい」
ぴちゃりと粘ついた足音を立てながら、モーガンは一歩、二歩と距離を詰めてくる。湧き上がる嫌悪感に耐えきれず、アシエルは無意識のうちに背後へと後退っていた。
「なんで……生きてるんだ。首の骨、折ったよな?」
「あは、うふ、ひひひっ」
モーガンは狂ったように笑い出す。全身を真っ赤に染め、ひゅうひゅうと息を詰まらせながら笑い転げている様子は、うすら寒い狂気を感じさせた。
「骨なんて関係ないよ。僕はもう人間を超えたんだ。魔力の大きさだけでもてはやされる低能のくせに、僕に逆らったことを後悔させてあげよう」
涎をだらだらと流しながら死体の海の中央で哄笑するモーガンは、とても正気とは思えなかった。言葉を失ったアシエルと入れ替わるように、それまで沈黙を貫いていたディズジェーロが口を開く。
「お前の上司はどこにいる。施設を取りまとめていた者は」
「上司? ああ、これのことかい」
けひゃけひゃと幼子のように笑い声をあげたモーガンは、血の海の中から長い糸の束を持ち上げた。原型を失ったそれが人の頭部なのだと、数秒かけてようやく理解する。元の色さえ分からぬ髪の先には、骨と肉の欠片が無残にぶらさがっていた。
「施設長は指示ばかりして、ずっと僕の能力を正当に評価してくれなかった。いつか殺してやろうと思ってたんだ。生意気なテンペスタ人どもと一緒になって逃げ惑う様は、無様だったなあ。すっきりしたよ」
目の前の惨状に狼狽える様子ひとつなかったディズジェーロは、モーガンの言葉を聞いて、気怠そうに目を伏せた。
「……面倒なことをしてくれたな」
「何か文句があるのかい? そもそも君は誰なんだい。見覚えのない顔だ」
モーガンの好色そうな視線を無視して、ディズジェーロは淡々と問いかける。
「『賢者の石』という言葉を耳にしたことは?」
耳慣れぬ言葉に、アシエルはぴくりと片眉を上げる。モーガンには聞き覚えがあるらしく、「例の古臭い研究だろう?」としたり顔で頷いていた。
「テンペスタ城の研究室で二十年くらい前にやってたとかいう、立ち消えになったプロジェクト。いつだったか施設長が酔っぱらったときに零していたよ。御大層な名前を戴いているくせして、ろくな成果物も出せなかったゴミ研究だっていうのに、皇族直属のチームの一員だったことが余程嬉しかったんだろうね。いつまでも昔のことを語って、まったくみっともないったら――」
「知らないのだな」
ぺらぺらと語られる言葉を、容赦なくディズジェーロは遮った。
「ここに逃げ込んだ研究員たちを、お前は私怨で死体に変えた。残るお前も、知っているのはプロジェクトの名前だけ。相違ないか」
「だったら何だい、生意気な男だ」
不機嫌そうに顔を歪めたモーガンを一瞥して、ディズジェーロは用は済んだとばかりに、体の周囲にゆらりと魔力を立ち上らせた。
「――結構。おかげで予定を変えずに済む。指定の資料は廃棄した。あとはお前と、この場所を消せばそれで終わりだ」
会話の内容から察するに、死体となった施設長とやらが、ディズジェーロの探し人ないし標的だったのだろう。用がなくなった今、早々に施設ごと破壊するつもりらしい。今にも魔術を打ちそうなディズジェーロを見て、慌ててアシエルは口を挟む。
「おい待て。まだ俺の用事は済んでねえ。……答えろモーガン。俺のペンダント、どこにやりやがった!」
「どこ、何、なんでって、うるさいねえ」
モーガンはわざとらしく耳を塞ぐ。煩わしそうな言葉面とは裏腹に、アシエルが焦りを見せたことで、モーガンの声音には隠せぬ愉悦が滲んでいた。
「そんなにあの首飾りが大事かい、勇者殿」
「やっぱり取り上げたのはテメェか。知ってるんだな。答えろ、クソ野郎」
「平民の言葉は耳障りでいけないな。ほら、お探しの物はこれだろう」
ポケットから、モーガンはもったいぶった仕草で小さな装飾具を取り出した。周囲の血にも劣らぬ濃い赤色の宝石が、モーガンの手の上で妖しく煌めく。
「美しい色だ。昔から君の首にずっとぶらさがっていたよねえ。平民には分不相応な宝石だと、ずっと思っていた」
「返せ」
「どうせ盗んだものだろう? 僕が正しく使ってあげよう」
「返せと言った。渡さないなら、力づくで取り返す」
「出来るものならやってみなよ。……あー、む」
長い舌で、モーガンはれろりと赤い石を舐め上げた。アシエルに見せつけるように、モーガンはペンダントの飾り紐を歯で引きちぎると、そのまま宝石を自らの口の中へと押し込んでしまう。
ごくりとモーガンの喉仏が上下するのを見て取って、アシエルは顔を引きつらせた。
「この野郎……!」
「ひ、ひっひひ! いい顔だ。大切なものだったのだろう? なくなってしまったねえ。可哀想に」
これ見よがしに舌なめずりして見せたモーガンは、アシエルの顔を見て、気が狂ったように笑い出す。
「ろくなことしねえな、本当」
がりがりと頭をかいたアシエルは、次の瞬間、声を低めてモーガンを睨みつけた。
「……でもまあ、腹をかっさばけば済む話だよな!」
アシエルの手には、ディズジェーロから渡された軍用ナイフがあった。猛獣を相手にするには心許なくとも、人ひとりの命を奪うには十分な代物だ。くるりと一度ナイフを回したアシエルは、右手で強く柄を握って、勢いよく地を蹴った。
天を仰いで笑っていたモーガンは、突進するアシエルに気づくと、向かい打つように斧を振り上げた。しかし、振り下ろされるより前に、大斧はけたたましい音を立てて地に落ちる。
モーガンの腕は、痙攣でも起こしたかのようにがくがくと震えていた。
「あ、あれ?」
からくり人形のようにぎこちない動きで首を傾げるモーガンは、隙だらけだった。さらけ出された喉を、アシエルは一思いに短剣で突く。そのまま力を込めてナイフを引きずりおろせば、切れ味の良い刃は、モーガンが悲鳴を上げる間もなく、彼の胸と腹とを容赦なく切り裂いていった。
切れ目からピンク色の肉が覗く。それなのに、一滴たりとも血は出なかった。
「な……っ」
「ひ、ひひ! つーかまえたっ」
違和感を覚えたときには時遅く、モーガンの両腕は、アシエルの体にがっちりと回されていた。
「くそっ、離せ!」
「嫌だよ」
絡みついた腕が容赦なくアシエルの体を締め上げてくる。なまじ体格に差があるせいで、締め付けられ、足を浮かせられると、なす術がなかった。人間とは思えない異様な怪力は、その腕を振りほどくことどころか、身じろぎひとつアシエルに許してはくれない。
「く、ふ、ふふふ。こんな刃物、きかないよ。頭が悪いねえ」
哄笑とともに、アシエルの目の前で、ふたつに裂けたはずの肉が粘糸を引いて繋がっていく。あまりの不気味さに、アシエルの全身が一瞬で粟立った。
――目の前にいるこれは、一体何だ。
「ぐ……っ!」
「ほうら、いい子、いい子。どう苦しめてあげようねえ」
嗜虐的な声がアシエルの耳を犯していく。徐々に強まる腕の締め付けに、ついには呼吸さえできなくなった。掠れかけた視界いっぱいに、モーガンの顔が広がる。
瞳孔の開き切った目に、血の気のない土気色の顔。とても生きている人間だとは思えない顔をアシエルに向けながら、モーガンがじっとアシエルの目をのぞき込む。
――死体が動いている。
言いようのない恐怖がアシエルの全身を満たしていく。視界がぐらぐらと揺れていた。
意識が飛びかけた瞬間、刃の閃きが見えた。
息を吸えるようになると同時に、アシエルの体は勢いよく血の海へと落とされる。切り離されたモーガンの腕が隣に落ちると同時に、視界に黒い軍靴が入り込んできた。
「ろくに動けぬ状態なら前に出るな」
「ぐ……、げほっ、悪い」
腕を掴んで、ディズジェーロはアシエルを引き起こす。隣に立ったディズジェーロを中心とするように、冷気が辺りを満たしていた。吐いた息さえ瞬時に凍る低温の世界で、音もなく足元の血の海が氷に覆われていく。アシエルの目の前で痙攣し続けるモーガンもまた、うわ言を呟きながら氷に包まれていった。
「あ、あれ? うで、僕の、腕が」
「……口を開くな。気色が悪い」
ディズジェーロは、モーガンが物言わぬ氷像になるのも待たず剣を抜くと、無造作に振り下ろす。アシエルよりも容赦のない攻撃は、表層の肉を割くだけではなく、モーガンの頭から股の間までを真っ二つに切り裂いた。――はずだった。
「がく、がく、学習しないねえ」
悪夢のような光景だった。縦に切り裂かれたはずのモーガンが、音を立てて氷をはぎ取りながら、人の形を取り戻していく。




