1.勇者と呼ばれた凡人①
何が『勇者』だ。
いいことなんて何にもない。
「グルアアアァア‼」
「よう、はじめまして」
目の前には、見上げようとすれば首が痛くなりそうなほどの巨体が鎮座していた。世界広しと言えども、たったひとりでドラゴンに立ち向かえと上司に命じられた人間など、アシエルが初めてだろう。過去にもいたというのなら、平伏して全力で称えたい。
しっとりとした艶のあるうろこは朱色。縦に裂けた瞳孔は深紅に染まり、ぎらぎらと獰猛に輝いている。頭をもたげてアシエルを睥睨するドラゴンには、本能的な畏怖を呼び起こすだけの迫力があった。
しかし、その美しく雄大なドラゴンの口からは、絶えずよだれが滴っていた。ぎょろぎょろと辺りを見回す仕草には、悲しいかな一切の知性が感じられない。
前情報の通りだな、とアシエルは目を細めた。
狂っているのだ。ドラゴンから感じ取れる気配は痛いほどに強く、前に立っているだけで肌が粟立つ。手の施しようもないほどに乱れて荒れた気配が、ただひたすらに痛ましかった。
「……どこかの馬鹿野郎のせいで滅茶苦茶にされちまって、気の毒にな」
語り掛けるのは、憐れみ半分、そうでもしないと立っていられないからという強がりが半分だ。ドラゴンの正面に立つだけで体は竦み、歯の根はがちがちと音を立てている。これで華麗に討伐しろというのだから、上層部は気が狂っているとしか思えない。
勇者。英雄。救世主。
偉大な称号はその人物の能力と功績に応じて周囲から自然と与えられるものであって、能力も人柄も功績もない者に名乗らせても痛々しいだけだ。平民出の一般兵が、なんだって御大層なあだ名で呼ばれてドラゴンの前に放り出されなければならないのか。
「ああ、本当に……何が『勇者』だよ」
敵を変え、場所を変え、時期を変え、何度も自問を繰り返してきた問いに、答えはない。ただひとつ分かるのは、望まれる通りの『勇者』でいられなければ、アシエルは物理的にも社会的にも死ぬということだけだ。
敵を倒さなければ戦死する。特例となった平民が成果を出さなければ始末される。そして、とある『ハリボテ』がばれた時点で、王族貴族と国全体を騙した己は必ず殺される。
震える歯を噛み締めて、アシエルは首元のペンダントに触れた。先端に小さな赤い石があしらわれたシンプルなそれは、アシエルが物心ついた時から肌身離さず身につけている、母の形見であった。
大きく深呼吸をして、戦闘に向けて意識を切り替える。同時に、強くペンダントを握り込み、指の先から髪の先端に至るまで満遍なく、体中にゆっくりと魔力を満たしていった。内側から砕けてしまいそうなほどの濃密な魔力が全身を巡る。
「恨みはないけど、その命、譲ってくれよ!」
言葉の終わりに合わせるように、アシエルは魔力任せの攻撃魔術をドラゴンの鼻先に向けて勢いよく投げつけた。着弾を確認するよりも早く、鋭く息を吐いて大地を蹴る。一歩、二歩と足が進むころには、骨と筋肉の細部まで魔力が行き渡っていた。
新兵でも使える身体強化の魔術。古くから改良が重ねられてきた、簡易で低燃費かつ実用性の高い術式は、筋肉の疲労を軽減し、瞬間的な強い負荷にも耐えられる肉体を術者に与える。
「ガああアあァ‼」
先程投げた光の魔術は、アシエルの狙い通りに幾重にも分かれ、全方位からドラゴンの顔へと向かっていった。光の矢を視界に認めたドラゴンは、ぎょろりと目を動かしたかと思うと、嘲笑うように唸り声を上げる。
たった一度の咆哮が、光をかき消した。
「さすが」
ドラゴンとの距離を加速度的に詰めながら、アシエルは称賛の声を漏らした。
向かい来るアシエルを見咎めたドラゴンは、巨体に見合わぬ俊敏な動きで爪を振り下ろした。けれど、ドラゴンの鋭い爪は、アシエルの体に掠ることなく地面を空しく抉り取っていく。いずれの攻撃も威力は高くとも単調で、地を蹴り空に身をひらめかせるアシエルを捉えることは叶わない。
だが、とアシエルはドラゴンの爪をかわしながら思考する。
それはあくまでアシエルが今と同じ動きを続けられる限りは、という条件付きだ。ドラゴンの癇癪に付き合ってあちらこちらを跳び回り続けていれば、あっという間に体力が尽きる。
首を狙おう。
迷いなく決めたアシエルは、即座に足へ力を込めた。ここでドラゴンを殺せなければ、どの道アシエルは死ぬのだ。長引けば長引くだけ自分が不利になるというならば、だらだらと続ける意味もない。一番自分の体力が残っている今、全力で賭けに出るべきだ。
一か八か。
振り下ろされたドラゴンの腕を足場に、アシエルはドラゴンの巨体を無理やり駆け上っていく。極度の集中状態において、戦い始める直前に感じていたはずの恐怖は遠く、死の淵を覗き込む奇妙な興奮だけがアシエルの中にあった。
跳ね上げられたドラゴンの片腕に照準を合わせ、アシエルは素早く重力の魔術を放った。当たった途端、枝に服が引っかかりでもしたように、がくりとドラゴンの腕が大地に落ちる。アシエルがドラゴンの頭上に飛び上がり、剣を振り下ろすには十分な隙だった。
「らあっ!」
全身の体重を乗せて、両手に構えた剣を大上段から振り降ろす。しかし、刃がドラゴンの肉を裂こうとしたその瞬間、熱気とともにドラゴンのうろこが明るさを増し、橙色に染まった。眩い色を認識したときには、焼けつくような熱気とともに、アシエルの体は吹き飛ばされていた。
舌打ちをした直後、アシエルは目を見開く。一際明るい炎が、ドラゴンの口元に集まっていた。圧縮される熱球の大きさと角度は、アシエルひとりを狙っているようには到底見えない。
当たれば死ぬ。避ければ後ろの部隊に被害が出る。
──止めなければ終わる。
直感に従って、魔術にすらなっていない魔力を投げる。ドラゴンの口元に向かって球状に広がるそれは、結界魔術のなりそこないだ。本来アシエルには到底使えない複雑な魔術は、打ったところで制御を失い、ただ爆発するだけだ。
けれど、それでいいのだ。
ドラゴンが大きく口を開いた。大きく息を吸い込む音が、絶望を煽る。しかし、限界まで輝きを増した炎が射出される寸前で、アシエルの目論み通りに術式は爆発した。
ドラゴンの口に飛び込む形で、力任せに魔力を注いだ術式が破裂する。結果を確認するより先に、アシエルは全速力でドラゴン目掛けて走り出していた。
「ぎアあぁああァ!」
ドラゴンが上げた叫び声に耳を貫かれながら、アシエルは高く跳躍する。先ほどは炎と熱風に阻まれ届かなかった剣が、炎を映して真っ赤にきらめいた。
「落ちろ!」
咆哮し、剣を全力で振り下ろす。逆流したブレスに気をとられ、縦横無尽に体を揺らすドラゴンは、防御行動を取ることすらできずに、アシエルの刃を受け入れた。
鋼鉄よりも堅いはずのうろこは、拍子抜けするほどに容易く刃に裂かれていった。太く丈夫な骨を端まで切り裂いた感触が手に残る。気が遠くなるほどに長く感じられた一瞬の後、ずるり、と奇妙な音がした。
アシエルの視界に、鮮やかなピンク色の、てらてらとした肉が映る。ドラゴンの首が斜めに滑り落ちていくと同時に、視界が真っ赤に染まった。
噴水のような血を真正面から全身に受けたその時、ぎょろり、とドラゴンがアシエルを見据えた。道連れにしてやるとでも言うように、ドラゴンの全身がアシエルに向けて倒れこんでくる。
「嘘だろ」
掠れる声でアシエルは唸った。致命傷を与えることができたというのに、死体に巻き込まれて命を落とすなど冗談ではない。腹筋に力を込めたアシエルは、空中でなんとか体勢を整える。
先に地面へ到達したのは、幸運にもアシエルの方だった。着地と同時に、強く足を踏ん張り、前方へと全力で飛び込んでいく。弾丸のような勢いで飛び出したアシエルの剣と体は、落ちてくるドラゴンの体の心臓を狙い通りに貫いて、そのまま背から空へと抜けていった。
完全に心臓を貫く直前、ドラゴンが咆哮した。叫びから感じられたのはただひとつ、腹が煮え繰り返るような悔しさだけだった。
地に音を立てて、ドラゴンは倒れ伏す。その死体の上に剣を突き立てつつ、アシエルは転がるように着地した。先ほどまで感じていたドラゴンの気配が完全に絶えたことと、動き出す様子がないことを確認し、ほっと息をつく。
──生きている。今回も生き延びた。
剣に縋ってずるずると座り込む。生の実感に、ぞくぞくとした興奮がアシエルの背筋を這い上がっていった。同時に、相反するような暗い声が心のどこかで響く。
──また死に損なった。
ぐるぐると混じり合う矛盾した感情は、引きつった笑みとなって表出した。
ぽたり、と髪の端からドラゴンの血が滴り落ちていく。規則的に落ちる雫を眺めているうち、場違いなほど冷静な思考が脳裏に浮かんだ。
──魔力を補充しないと。魔術が使えなくなったら、バレちまう。
血と炎のちょうど中間の色をした真っ赤なペンダントを、無意識のうちに握り込む。
物心ついたときからアシエルの傍らにあった母の形見には、膨大な量の魔力を溜め込む性質があった。溜め込むだけではなく、引き出して使うこともできる。魔力は血と似たようなもので、本来であれば長期間の保存などできやしないというのに、母の形見はその法則を無視したのだ。
イカサマの種。ハリボテの土台。ただの凡人を英雄に見せかけることを可能にする道具。
アシエルは勇者ではなかった。彼は魔力を持たない。ゆえに魔術などペンダントがなければ使えない。
知恵も知識も乏しい。特別な生まれでもない。五感や身体能力に優れているわけでもない。生き延びるために鍛えている剣の腕だって、せいぜい人より多少優れている程度だ。
つまるところアシエルは、何ひとつ特別なものなど持っていない、ただの凡人だった。
けれども、取り繕うことだけは昔から得意だった。
莫大な魔力で身体を強化すれば、凡才であろうとも力頼みの剣豪に見える。強大な魔術を力任せに打てば、無学な平民でも一騎当千の魔術師になれる。
人間が持てるはずのない膨大な魔力を与えてくれる道具が手元にある限り、周囲を騙すことはアシエルにとってそう難しいことではなかった。平民だろうと、貴族だろうと、──たとえ王族だろうとも。
膝をついて座り込み、返り血を乱暴に拭いながら、アシエルは胸元のペンダントに視線を落とす。中央の石は、見慣れた色よりもわずかに薄れた桃色に変わっていた。
丁寧に首からペンダントを外したアシエルは、厳かにそれをドラゴンの血の海へと浸していく。どくりと脈打つように震えた石は、ドラゴンの血を飲み込むかのように、じわじわと色を深めていった。
数秒もしないうちに、石は戦闘前と同じ深い赤色に染まった。色を確認したアシエルは、剣を引き抜き立ち上がると、ひらりとドラゴンの背から飛び降りる。
物言わぬドラゴンの死体をまじまじと眺めた後、アシエルは通信装置の電源を入れた。
「こちらアシエル。標的の絶命を確認」
『見ていた。お疲れさま、アシエル少尉』
「……んん?」
親しげな声は上司のものではなく、先ほどまで弾道観測をしていたはずの同期のものだ。近くに人影はない。あったとして、部隊の仲間は皆戦闘中であるはずで、見ていたよ、などと朗らかに言う余裕はないだろう。
きょろきょろと辺りを見渡していると、その様子までもどこからか見ているらしい男は、面白がるように言った。
『こっちだよ。さっきの岩場だ』
振り返る。何も見えなかった。
目の前には荒涼とした大地が広がっているだけだ。戦闘による土煙のせいでひどく視界は悪く、道具を使ったところで遠くなどおそらく見えやしない。
けれど、無線の先の彼にはくっきりと、アシエルの表情までが見えるのだろう。
「サボってんなよ。相変わらずセンチネルは便利でいいよな。ゼークラフト中尉」
アシエルは眉をひそめながら皮肉じみた言葉を吐いた。
センチネルとは、発達した五感を持つ、一握りの選ばれた存在だ。異能と呼んでも差し支えがないほどに優れた感覚は、聴覚に発現すれば地獄耳どころか鼓動の音を拾い、触覚に現れれば鋭敏に空気の揺れを感知する。戦場では重宝される存在だ。
一方で、嗅覚に特化すれば、体内の病気さえ一嗅ぎで看過し、味覚に優れた能力者ならば、彼らの繊細過ぎる舌が料理への毒の混入を許しはしない。これらはアシエルとは縁遠い、主に貴族のお抱えとして見かけることの多いセンチネルである。
では視覚に特化すればどうなるか。問いの答えを体現するのは、無線の先にいる男だった。
『サボってなんかないさ。見るのが俺の仕事なんだから。……各位へ、狂竜の絶命を確認。繰り返す。狂竜の絶命を確認。第一小隊は至急十一時の方角に向かわれたし。二十メートル先に鳥型の魔獣を連れた残党が三名潜んでいる。第二小隊は地下の逃げ道を塞げ』
土煙に覆われた施設周辺の状況も、地下の状況も、常人には分かるはずがない。けれども小器用に二種類の無線回路を使い分けている彼には分かるのだ。
アシエルの同期──サイト・ゼークラフト中尉は、視覚に特化したセンチネルだった。視覚のセンチネルの千里眼の前では、距離も障害物も関係ない。
「あとどれくらいよ」
『敵総数は残り十二。佳境だな』
「手伝おうか」
『いや。小隊で動いているから、アシエル少尉が入ると逆に混乱する。そこで待機していてくれ。……ああ、少し面倒な状況になっているみたいだ。指揮に集中するから、悪いけど、後で』
「了解」
ぷつりと無線の音が切れる。ただ立っているのも暇なものだが、ほどなくして状況は終了するだろう。特務部隊の連中は誰も彼もが優秀だ。イカサマをしているアシエルとはもともとの出来が違うのだから。
銃声が響き始める。髪を伝い落ちてくるドラゴンの血を拭いつつ、アシエルは近くの岩山に身をひそめた。
運よく繋げた命を、流れ弾で失いたくはない。




