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閑話 コーク瓶

 日の暮れかけた道を速足で進む。人の少ない時間帯を選んで外に出ているとはいえ、街は目に痛いほど鮮やかな色に溢れていた。いくら任務とはいえ、イーリスの街はディズジェーロにとって好んで滞在したい場所ではない。震える空気を感じ取り、ディズジェーロは構えるように奥歯を噛んだ。

 遠く、音が聞こえた。高く低く幾重にも響き渡るそれは、教会が鳴らす鐘の音だ。耳障りにならないぎりぎりの調和を保った清廉な鐘の音は、朝と夜の二度、時間きっかりに鳴らされる。

 上は王族から下は貧民まで、文化と根強く絡んだ信仰が行き届いている宗教国家イーリスにおいて、祈りの鐘が街全体に鳴らされることには何の疑問もない。けれど、どこにいようと逃げられない爆音で鳴らす必要は果たしてあるのだろうか。毎日聞いているだけで精神を病みそうだった。

 吐き気にも似た感覚をこらえながら、ディズジェーロは厚いフードを被り直す。

 ようやく鐘の音が鳴りやんでも、人の声は消えてはくれない。距離も障害物も関係なく、あちらこちらから会話が聞こえてくる。

 

『あの店、朝起きたら人っ子ひとり残ってなかったんだとよ』

『再開発地区に行けば武器がもらえるって』

『井戸の調子が悪いんだ』

『西の村が潰れたって本当?』


 いつも以上に制御が効かない感覚に、ディズジェーロは苦々しく耳を押さえる。

 外交が表から国と国との関係を調整する仕事であるとするならば、ディズジェーロの今の任務は、イーリスとテンペスタの崩壊寸前の均衡を裏から支えることだ。単純な戦闘任務とは異なり、センチネルの力を使う機会が必然的に増えるせいか、この国に来てからというもの、自分自身の感覚に苦しめられる頻度が、急激に増えていた。眠ろうにも眠れず、体は重くなるばかり。生まれ持った力に蝕まれて死ぬというのも皮肉な話ではあるけれど、この煩わしさから解放されるのならば、さっさと命を手放してしまいたいとさえ思う。

 痛む頭を押さえながら、ディズジェーロは下町の一角に足を向けた。大通りを僅かに逸れた位置にある古びた宿は、敵地に留まるディズジェーロにとって特別な場所だ。ひとえに、そこを拠点としている存在に会えるという意味で。


「いらっしゃい。……あら、お兄さん!」

 

 テーブルを拭いていた女将が、ディズジェーロの姿を確認して愛想良く微笑む。夕食には早い時間帯もあってか、客は他に見当たらなかった。

 

「この間はどうもありがとうね。さ、どうぞこっちに座ってちょうだい。今日は何にする?」

「シチューと――」

 

 言いかけたところで、ディズジェーロはつい先日、アシエルがうまそうに飲んでいた飲み物を思い出す。


「……コークを頼む」

「はいよ。少し待っていて頂戴ね。すぐに用意するから」

 

 にこりと微笑んだ女将は、カウンターの奥に消えていく。

 数分と待たないうちに、ディズジェーロの前には、ミルクとチーズの香りを漂わせるシチューと、武骨なコークの瓶が並んでいた。ほかほかと湯気を立てるシチューをひとさじ口に運ぶと、冷えた体に心地よい熱さが舌の上に広がった。ごく普通の下町料理ながら、静かな店で味わう素朴な味は、悪くない。

 この店の女将は料理上手なのだと自慢げに語っていたアシエルを思い出しながら、ディズジェーロは泡を立てるコークの瓶を手に取った。唇をつけ、かすかに瓶を傾けると、途端に薬くさい液体が流れ込んでくる。炭酸の刺激が舌をちくちくと痛めつけ、くどい甘みが吐き気を誘う。記憶にある通りの、最悪な味だ。なぜアシエルはこれをうまそうに飲めるのか理解できない。

 口にしたことを後悔しながら項垂れていると、小ぶりな赤い果実の盛られた皿が、さっとディズジェーロの前に差し出された。

 

「お客さん、フラゴラは好き? 店の裏で育てたものなんだけど、よかったら食べていって」

 

 あまりにタイミングよく与えられた口直しに、ディズジェーロは深く感謝した。水っぽいフラゴラは酸味が強く、決して質の良い果実ではなかったけれど、少なくとも気分の悪い甘みからディズジェーロを解放してくれた。


「コークは苦手かい?」


 笑い混じりに、女将が水を差し出してくる。礼を言って受け取りながら、「そのようだ」とディズジェーロは顔を顰めた。


「あたしもあんまり好きじゃないの。甘ったるい上に、匂いも薬っぽいでしょう。アシエルは気に入ってるみたいだけど、あたしはあんまり飲みたくないね」

「同感だ」

 

 深く被ったフードの下で、ディズジェーロはそっと唇を綻ばせた。

 お人好しの『勇者』を思い出す。戦場ではこれが最期とばかりに張り詰めた顔をするくせに、下町に戻ればへらへらと真意の取れない笑みを浮かべる、おかしな男。休日に巻き込まれただけの事件に首を突っ込み、わざわざ無法者の話にさえ耳を傾ける甘さは度しがたいけれど、好ましく思えるのもまた事実だった。

 ふと、空気に鉄くさい香りが混じる。女将が調理に使っているものとは異なる、生臭さの強い匂い。魔獣の血の香りだ。どんどんと強まる匂いに眉を顰めた瞬間、騒がしい音を立てて扉が開いた。

 

「ただいま! マリーさん、今日の日替わり定食、何? 大盛りで頼むよ」

 

 店に入ってきたのは、今まさに思い出していたアシエルその人だった。カウンターに座るディズジェーロに気づいた途端、アシエルは決まり悪そうに口を閉ざす。


「来てたのか」

「悪いか」

「いや、別に」


 視線が合っていたのも束の間のこと。女将がカウンターから顔を出すと、アシエルの視線はすぐにそちらに流れていった。

 

「おかえり、アシエル。今日はきれいなのね」

「俺はいつだって小奇麗だろ? 顔も、体も」

「おだまり。服の話だよ。任務の後、あんただいたい血まみれじゃない」 

「今日のは弱かったんだよ。でも、昼にろくなもの食ってないから、腹が減って倒れそう」

「はいはい。座って待ってな」

「大盛りで頼むよ」

「二回言わなくたって分かってるよ」

 

 テンポよく交わされる会話に耳をそばだてつつ、ディズジェーロはフードの間からアシエルを窺い見た。

 ひとつ空席を挟んで隣に座ったアシエルは、いかにも任務帰りといった風体だった。髪は金というよりくすんだ土色で、顔には疲労の色が濃く滲んでいる。さらに言えば、返り血こそ見当たらないが、頭が痛くなりそうな血の匂いを全身に纏わせていた。怪我でもしているのかと眺めていると、突如としてアシエルはディズジェーロに視線を向けてくる。

 

「なあ、それ飲まねえの?」


 アシエルが顎で指したのは、飲みかけのコークだ。

 

「飯食い終わってるのに、全然減ってなくねえ?」

「それは……」

 

 気の迷いで頼んだはいいが、苦手な味だったと馬鹿正直に告げるのも気が引ける。「喉が乾いていない」と苦しい言い訳をすると、途端にアシエルは「いらねえならもらっていい?」と目を輝かせた。

 口を付けたものを他人に渡すのは抵抗がある。しかし、本人が気にしないなら、良いのだろう。一口飲んだだけのコーク瓶を躊躇いつつも手渡すと、アシエルは「ありがとう」と笑ってコークを一気に呷る。

 ごくごくと気持ちの良い音を立てながら、みるみるうちにコークが消えていく。信じられないことに、本気でアシエルはこの人工的な味の液体を好んでいるらしい。満足そうに口元を拭う様を、ディズジェーロは唖然としながら見守った。

 湯気を立てる料理を厨房から運んできた女将は、早々にコーク瓶を空にしたアシエルを見て、咎めるように口を開く。

 

「人の物を取るんじゃないよ。行儀の悪い」

「貰ったんだよ。疲れてるときにはやっぱりコークだよなあ」

「甘いものが特別好きってわけでもないだろうに、何をそんなに気に入ってるんだか。ほら、ご飯だよ」

「やった、シチューの日! ありがとう、マリーさん」


 子どものように目を輝かせたアシエルは、スプーンを手に取るなり脇目も振らずに食事をかき込み始めた。まともに咀嚼しているのか疑わしいくらいのがっつきっぷりは、見ているこちらが不安になってくるほどだ。成人前から軍にいたようだから、早食いが癖になっているのかもしれない。

 しばしアシエルを眺めていたディズジェーロは、女将が出してくれたフラゴラをゆっくりと味わったあとで、席を立った。


 * * *

 

 店を出たはいいものの、なぜか後ろに続くようにアシエルが付いてくる。速足でディズジェーロを追い抜いたアシエルは、くるりと振り返ると、親指で細い路地を示して見せた。まるきりごろつきが喧嘩に誘うかのような仕草に困惑しつつ、ディズジェーロはアシエルの背を追った。

 いつぞやと同じ場所で足を止めたアシエルは、握手でも求めるかのように手を差し出してくる。

 

「ん」

 

 金でも要求されているのかと一瞬悩むが、幸いにもディズジェーロが懐を探るより前に、アシエルが急かすように口を開いた。

 

「察しが悪ぃな。コークの礼だよ。調律する」


 予想しなかった言葉に、ディズジェーロは視線を泳がせる。

 

「元々処理に悩んでいた。礼を受け取る筋合いはない」

「何でもいいよ。俺が礼って言ったら礼なんだ。前に顔合わせてからそんな経ってねえのに、何したらこんなドブみたいな気配になるんだよ。気になってゆっくり飯も食えやしねえ」

「ドブ?」

「こっちの話だ。ほら」

 

 眉をひそめるディズジェーロに構うことなく、焦れたようにアシエルはディズジェーロの手を掴んできた。剣を扱う者らしく、ごつごつとした固い手だ。決して整った手ではないけれど、ディズジェーロの知る誰よりあたたかい。

 何度もこの手に救われた。昔も今も、ひとり野垂れ死んでしまおうかと思うたび、ディズジェーロの手を取り、命を繋いでくれた。


「大丈夫」

 

 記憶と寸分違わぬ穏やかな言葉が耳に届くと同時に、包みこむようなあたたかさを感じた。肌を優しく撫でられるような感覚が全身に広がり、心身にこびりついた苦痛が、ゆっくりと取り除かれていく。繋がり、受け入れられて、自らでさえ労りようのないところにある精神を慰撫される。形容しようのない心地良さに、ディズジェーロはほうとため息を零した。

 示し合わせたようなタイミングで、同時にアシエルが息を吐く。暗がりだろうと、ディズジェーロの目には昼も夜も関係ない。伏せられたアシエルの瞳が、苦しげに歪む様子がはっきりと見えた。調律の負担もあるのだろうが、根本の原因は、服の下に隠されている怪我のせいだろう。


「もう十分だ、アシエル。飲みかけの飲み物一本に対価が過ぎる」

 

 繋いだ手をそっと解いて、距離を取る。なぜか、名残惜しそうな表情を浮かべたのはアシエルの方だった。

 

「……気分は」

「楽になった」

 

 体に纏わりつくだるさこそ変わらないけれど、いつか死ぬなら今死にたいと願うほどの気分の悪さは消えていた。

 

「あんたさあ、合う相手見つけて定期的に調律した方がいいぞ、ほんと」

「善処する」

 

 心にもないことを言えば、それを察したかのようにアシエルは強い視線を投げつけてきた。けれど、その視線は長くは続かない。アシエルはぐしゃぐしゃと自らの頭をかき回すと、苛立った様子でヘッドバンドを目深に下ろしてしまった。

 隠された目元に浮かぶ感情は、ディズジェーロには分からない。分かることといえば、びっしょりと汗ばんだ肌を、こちらに見えないようにと拭っていることくらいだ。

 ガイドというガイドが匙を投げたディズジェーロの調律に、負担が掛からないはずがない。それなのにどうして、アシエルはディズジェーロに手を差し伸べてくれるのか。心底不思議に思う反面、アシエルの与えてくれる温かさに触れるたび、歓喜する気持ちが存在することも確かだった。

 

「感謝する。アシエル」

「どういたしまして」

 

 わずかに緩んだアシエルの表情を眺めながら、ディズジェーロは指先に治癒の魔術を纏わせた。

 

「傷を放置するのが趣味なのか?」


 そっとアシエルの肩口に手を伸ばせば、瞬きのうちに魔術は効果を発揮する。


「これから手当てしようと思ってたんだよ。でも、ありがとう。センチネルには隠せねえな」

「隠す必要があるとは思わない」

「気分的な問題だよ。毎度毎度傷作ってんのもだせぇだろ」


 決まり悪そうに肩口を押さえながら、アシエルは目を伏せた。

 

「よく治癒魔術なんて使えるよな。難しくねえ?」

「さあ。特にそう感じたことはない」

「そりゃすごい。治癒師ってわけでもないんだろうに、全然痛くなくなるもんな。俺にも治癒の魔術が使えたら、良かったんだけど」

 

 過去の記憶とまったく同じ言葉を、まったく同じ口調でアシエルが口にする。

 傷を負わなければいいだけの話なので、ディズジェーロ自身は特に治癒魔術の必要性を感じたことはなかった。あの日アシエルが呟いていた言葉が耳に残っていたから習得しただけだ。

 生傷の絶えない目の前の男を見ていると、習得した意味はあったとは感じるけれど。

 気怠げに宿に戻るアシエルの背を見送りながら、ディズジェーロはそっと目を細めた。

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