『ファンディスク』しかやってない乙女ゲームに転生したので攻略情報が役に立ちません
貴族学園に入学したその日、私――公爵令嬢アリスは前世の記憶を取り戻した。
そして、理解してしまったのだ。
この世界が前世で存在した『乙女ゲーム』の世界であるということに!
……と、ここまではよくある話だ。小説や漫画で履修済みの展開である。
だが、私には一つだけ致命的な問題があった。
……私がプレイしたの、本編じゃなくてファンディスクだけだ!
理由は単純だ。
ゲームショップの店頭で、なぜかファンディスクだけが無料配布されていたからだ。
タダより安いものはない。私は迷わずそれを持ち帰ってプレイした。
意外と面白かった。後日談やミニゲーム集。
満足した私は本編を買うことなく生涯を終えたのである。
つまり、私はこの世界の本編を知らない。
どんな事件が起きるのかさっぱり分からない。
極めつけは、私自身の立ち位置だ。
――アリスなんてキャラ、ファンディスクの後日談には影も形もなかった!
考えられる可能性は二つ。
作品には登場しない、名もなきモブ令嬢。
あるいは――本編終了時には既に駆逐され、ファンディスクの世界線には存在すら許されなかった悪役令嬢。
……後者の可能性が高そうで、背筋が凍る。
そんな心許ない知識しかない状態で、これから始まる学園生活、ひいては乙女ゲームの本編期間を乗り切らなければならないのだ。
不安しかない。
そんな私の前に、一人の男性が現れた。
「アリス。高位貴族たるもの、勉学で後れを取ることは許さんぞ」
眉間に深い皺を刻み、ピリピリとしたオーラを放つ金髪の美少年。
私の婚約者であり第一王子のジャック様だ。
あ、この人は知ってる。
ファンディスクに出てた人だ……。
でも、何かがおかしい。
私の記憶にある「ジャック様」と、目の前の「ジャック様」は、あまりにもキャラが違いすぎる。
ファンディスクでの彼は田舎の領地で大公として隠居生活を送っていた。
麦わら帽子を被り、ヒロインであるホリーちゃんと共に穏やかに汗を流す。
『土と共に生きる系愛妻家キャラ』
それが私の知るジャック様だ。
『土の匂いはいいな。これが俺の生きる道だったのかもしれない』
なんて穏やかな笑顔で語っていた彼と、目の前で「高貴なる者の義務」だのと捲し立てる彼。
どう見ても別人である。
王子が若くして田舎で隠居生活。
……普通に考えて、何かあったに決まっている。
王位争いに敗れたか、あるいは何か致命的な失態を演じて中央から追放されたか。
今の彼の張り詰めた糸のような態度。野心と義務感でパンパンに膨れ上がった自尊心。
これが原因に違いない。
きっと彼はこの後、本編のストーリー中で野心に溺れて暴走し、結果として田舎に押し込められるのだ。
私も巻き添えで処刑されてしまったとすれば辻褄が合う。
ならば、どうすればいい?
一つの仮説を立てる。
ファンディスクの彼は言っていた。「土と共に生きる」と。
ならば早いこと農業をさせて、あの穏やかな精神状態へ持って行ってあげたらどうか?
その方が彼自身の精神衛生上も、私の安全上も全て丸く収まるはずだ!
「……というわけでジャック様。畑を作りましょう」
「は?」
放課後。
私はジャック様を学園の裏庭にある、今は使われていない荒れ地へと連れ出していた。
当然だがジャック様は不審そうな顔をしている。
「アリス、お前は何を言っているんだ? 私はこれから生徒会室で書類の確認をせねばならんのだが」
「書類なんて後でいいのです! それよりも重大な責務が高位貴族にはあります!」
「重大な責務だと?」
怪訝な顔をするジャック様に、私は用意していた詭弁を早口でまくし立てた。
「我が国の食料自給率は低く国防の観点から非常に危うい状態です!」
「それは確かに憂慮すべき問題だが……」
「ならば次代を担う私たちこそが率先して農業への理解を深めるべきです! これぞ高位貴族の義務です!」
「何をわけの分からないことを……!」
「さあこの鍬を持って荒れ地を耕すのです!」
私は半ば強引に、園芸部から借りてきた鍬を彼に握らせた。
彼は戸惑いながらも私の剣幕に押されて鍬を振り上げる。
「高位貴族が土いじりなど……」
そう言って流されるままに畑を耕す彼はちょっぴり可愛らしかった。
最初はへっぴり腰だった。
だが、三十分もすると様子が変わってきた。
黙々と鍬を振るうその背中から迷いが消えていく。
美しい金髪が汗で額に張り付くのも構わず、彼は一心不乱に土を掘り返し始めたのだ。
種芋を植える手つきも、見る見るうちに洗練されていく。
……才能だ。
やはり彼は、王座に座るよりもトラクターに乗る方が似合う男だったのだ!
ファンディスクの記憶は正しかった。
気づけば空は茜色。
入学初日の放課後を、すべて畑仕事に費やしてしまった。
「ジャック様、そろそろ終わりにしましょう。日が暮れます」
私が声をかけると、彼はハッとしたように顔を上げた。
泥だらけの手。土で汚れた頬。
けれど、その瞳は朝会った時のピリピリとした険しいものではなかった。
「もう少しだけ。……あともう一列だけ、植えてもいいだろうか」
彼は名残惜しそうに耕された畑を見つめた。
「ふふ、熱心ですね」
「いや……なんだろう。無心になれるんだ。雑念が消えて、ただ生命と向き合っているような……不思議な充実感がある」
そう言って一瞬笑った彼の横顔を見て、私は息を呑んだ。
――あ、この顔だ。
私の記憶にある、ファンディスクのジャック様。
ヒロインのホリーちゃんに向けられていた、あの優しくて誠実な笑顔。
それが今、泥だらけになりながら畑を耕す彼の顔と重なった。
まだピリピリオーラが全部消えたわけではないけれど。
でも、今のこのジャック様は。
「……悪くない、かも」
胸の奥が小さく跳ねた気がした。
本編のストーリーも何も知らないけれど、案外なんとかなるかもしれないと思えた。
「ふふっ。分かりました。では私もお手伝いします」
「ああ……頼む」
◇
それから一ヶ月、二ヶ月と月日は飛ぶように過ぎた。
私とジャック様の『秘密の課外活動』こと畑仕事は順調に進んでいた。
最初は私の剣幕に押されて鍬を振るっていたジャック様だが、最近では放課後になると私よりも早く裏庭に現れる。
マメに雑草を抜く姿はベテラン農夫の貫禄すら漂っていた。
そして、植えた野菜たちも収穫ができるようになってきた。
だが問題はあった。
学園内でのジャック様の態度が軟化しないのだ。
「おい、そこの二人。学園の風紀を乱すような私語は慎みたまえ」
相変わらずピリピリとしたオーラを撒き散らしては生徒たちを威圧する。
畑で見せる穏やかな顔はどこへ行ったのか。
どうやら彼は『王子の仮面』と『農夫の素顔』を完全に使い分けてしまっているらしい。これでは意味がない。
……もう少しテコ入れが必要か。
そう判断した私は収穫した野菜を前に次なる行動を起こすことにした。
「ジャック様、作った野菜は売るまでが農業です!」
「……売る?」
ジャック様がきょとんとした顔をする。
「ええ。市場の厳しさを知らずして真の農業従事者とは言えません。変装して下町の朝市へ向かいますよ!」
週末の早朝。
私たちは粗末な麻の服に身を包み、変装して下町の市場に立っていた。
目の前には木箱に入った泥付きの野菜たち。
「へ、へい……らっしゃい……!」
ジャック様の声が小さい。蚊の鳴くような声だ。
無理もない。第一王子が市井の民に向かって頭を下げて商売をするなど前代未聞の事態である。
「屈辱だ……。なぜ私がこんな真似を……」
「ジャック様、スマイルです! お客様は神様です!」
「神は教会にいるだろう……」
ぶつぶつと文句を垂れるジャック様だったが、転機はすぐに訪れた。
客足が途絶えた頃、一人のお婆さんが重そうな荷物を抱えて通りかかった時だ。
「おや、新鮮な野菜だねぇ」
「ああ。今朝採れたばかりだ。味は保証する」
ジャック様はぎこちなく答えると、ふとお婆さんの手荷物に目を留めた。
「……その荷物、重そうだな。駅馬車の停留所まで運ぼうか?」
「いいのかい? 悪いねぇ」
ジャック様は「構わん」と短く言うとひょいと荷物を担ぎ上げた。
戻ってきた時には、お婆さんからお礼にリンゴをもらっていた。その時の彼の顔はなんだか誇らしげだった。
それからだった。彼の雰囲気が変わったのは。
「お兄ちゃん、これなぁに?」
小さな子供が野菜を指差して尋ねてくる。
ジャック様はポケットから小刀を取り出し、売り物にならない人参の切れ端を器用に削り始めた。
「これはウサギだ」
「わぁ! すごい!」
あっという間に出来上がったオレンジ色のウサギに、子供が目を輝かせる。
それを見たジャック様がふっと笑った。
その笑顔を見た瞬間、私の心臓がドクリと跳ねた。
――やばい。
これだ。これこそが私の知っているジャック様だ。
ファンディスクの画面越しに見た慈愛に満ちた表情。
二次元の尊さが三次元のリアリティを持って目の前に顕現した瞬間だった。
まるで大好きなアイドルのプライベートに遭遇してしまったような背徳感と高揚感!
あまりにも尊すぎて直視できない……!
私が一人で胸を押さえて悶えていると、ふとジャック様がこちらを振り返った。
視線が絡む。
「――何をぼうっとしている、アリス」
ぶっきらぼうな声。
けれど、その口元はほんの少しだけ緩んでいた。
「……あ」
学園での厳しいジャック様とファンディスクの穏やかなジャック様が私の中で重なる。
今まで別人のようだった二つの像が一つに溶け合った気がした。
ドキドキが止まらない。
あれ……?
でも、この鼓動はさっきの「推しへの興奮」とは何かが違う。
ファンディスクの「あの顔」を見たからじゃない。
今、私を見て、私だけに向けて笑ってくれたから?
……やばい、これ普通にやばくない?
◇ ◇
しかし、冷静になった次の日。
私は深い自己嫌悪と悩みに沈んでいた。
私、調子に乗りすぎじゃない……?
ファンディスクの知識があるからといってジャック様を連れ回し、あまつさえ彼からの笑顔にときめいてしまった。
でも、冷静に考えてほしい。
私はアリス。ファンディスクには存在すらしなかった女。
十中八九、モブか、あるいは破滅する悪役令嬢。
そんな私が主人公の座を奪っていいはずがない。
ジャック様にとっての本当の幸せは、ヒロインであるホリーちゃんと結ばれることなんじゃないか?
ファンディスクであんなに幸せそうに笑っていた二人の未来を、私が歪めてしまっているのではないか?
そう考えると、急に怖くなった。
私が彼に関わるほど、彼の「本来の幸せ」が遠のくような気がして。
「……軌道修正、しなきゃ」
私は決意した。
やはり彼はホリーちゃんと結ばれるべきなのだ。私はあくまで彼を農作業に導くためのチュートリアルキャラでいい。
そう思い定めた私は、放課後の畑に強引にホリーちゃんを連れてきた。
「アリス様、急にどうして……」
「ほら、ホリーさんも一緒に作業してください! 土に触れるのは素晴らしいことですよ!」
私は戸惑うホリーちゃんをジャック様の隣に立たせた。
「ジャック様、ホリーさんにジャガイモの植え方を教えてあげてください。私はちょっとあっちで草むしりをしてきます!」
「おい、アリス?」
呼び止める声を無視して、私は二人に背を向けた。
畑の端まで移動し、雑草を抜きながらこっそりと二人を盗み見る。
夕日に照らされた畑で、美少年と美少女が並んで作業している。
まるで一枚の絵画のように美しい光景だ。
これぞファンディスクで見た光景。
本来あるべき正しい世界の姿。
これでいいのだ。
二人はこうして幸せになる。私はモブとして静かにフェードアウトすればいい。
――なのに。
「……っ」
雑草を握りしめる手に力が入る。
どうしてだろう。胸がこんなに苦しいのは。
数日後。
私の作戦は順調に進んでいる……ように見えたが、どうも様子がおかしかった。
ホリーちゃんは農作業自体を嫌がっていない。
だが、なぜかジャック様を避けるような素振りを見せるのだ。
ジャック様が声をかけると、ビクッとして後ずさりする。
作業中も彼とは反対側の位置に移動しようとする。
なぜ?
ファンディスクではあんなに仲睦まじかったのに。
居ても立ってもいられなくなった私はホリーちゃんを呼び出した。
「ホリーさん、単刀直入に聞きます。王子と一緒に作業をする時、なぜか距離を取ろうとしていませんか?」
私が詰め寄ると、彼女はおずおずと口を開いた。
「そ、その……」
「嫌いなんですか?」
「いえ! 滅相もありません! ただ……」
彼女はもじもじと指先を合わせながら、消え入りそうな声で言った。
「学園でのジャック王子殿下はいつもピリピリしていて……正直、少し恐れ多くて。近くにいると、怒られるんじゃないかってビクビクしてしまうんです」
――なるほど。
やはり学園での「ピリピリ王子」の印象が強すぎて、畑での彼を見ても警戒心が解けないのか。
私がそんなことを考えて黙り込んでいると、ホリーちゃんの表情がふっと明るくなった。
頬をほんのりと朱に染め、夢見るような瞳になる。
「……実は私、他に気になる方がいるんです」
「えっ」
予想外の言葉に、私の思考が停止する。
他の攻略対象のルートに入った?
「下町の市場で、偶然出会ったんです。野菜売りのお兄さんに」
ドクン、と心臓が跳ねた。
「お兄さん……?」
「はい。目深に帽子を被っていてお顔はよく見えなかったんですけど……。子供に優しく接していて、その時の笑顔がとっても素敵だったんです」
ホリーちゃんはうっとりと語り続ける。
「お話しても楽しいし、少し不器用だけど誠実な方で……。最近、週末になると野菜を売りに王都に来るようになったみたいで、私、つい会いに行ってしまって」
待って。
それ、どう考えてもジャック様(変装バージョン)じゃない!?
「私、実はああいう飾らない笑顔が素敵な人が好きなんです!」
なんてことだ。
彼女は「王子としてのジャック様」に怯え、「野菜売りのジャック様」に恋をしているのだ!
本編でも市井にお忍びで通うのだろうか?
「うちの家は元平民でしょう? 父の事業が成功して男爵位を買ったようなもので、『成金』と言われることもあります」
「ええ、まあ……」
「それに私は一人っ子なんです。だから、お婿さんをもらって家を継いでもらわなきゃいけないんです」
彼女の言葉に、私はハッとした。
――彼女の実家事情。
ファンディスクでは詳しく語られていなかったが、彼女には「家を継ぐ」という事情がありそうだ。
「その点、あの野菜売りのお兄さんなら父の商会で扱っている農産物とも相性がいいと思うんです。彼を婿養子に迎えられたら、どんなに素敵だろうって……」
ホリーちゃんの瞳は本気だった。
彼女は野菜売りの青年に、本気で将来を見据えた恋をしている。
私は呆然と立ち尽くした。
あれ……?
じゃあ、どうやってファンディスクの世界線で、ジャック様とホリーちゃんは結ばれるの?
王子とホリーちゃんの身分差は大きすぎる。
だが。
だが、彼が王族でいられなくなるような「何か」が起きれば話は別だ。
犯罪、汚職、あるいは王位継承争いでの敗北――。
ジャック様がホリーちゃんと結ばれるためには、彼が厳罰を受けなければならない――それが「正史」なのかもしれない。
背筋がぞっとした。
私は彼に穏やかな心を手に入れてほしいと思っていた。
――けれど、その行いがゲームシナリオを捻じ曲げているとしたら?
私は今やっていることが正しいのか、分からなくなってしまった。
◇ ◇ ◇
ある晴れた週末の市場。
この日も私とジャック様は野菜を売りに来る。
私は在庫の追加分を取りに裏の荷車へ戻っていたのだが、戻るタイミングを見失っていた。
なぜなら荷車の向こう側で、ホリーさんがジャック様に想いを告げていたからだ。
「……私、あなたと一緒に生きていきたいんです!」
彼女の透き通るような声が雑踏の中でもはっきりと聞こえた。
物陰で息を潜めながら、私は自分の胸の奥が冷たく凪いでいくのを感じていた。
ああ、やっぱり。
これが「正史」なのだ。
身分を隠した王子と、健気なヒロイン。障害を乗り越えて結ばれる恋。
ファンディスクで見た幸せな未来はこうして始まるものだったのだ。
そして、同時に理解してしまった。
――ああ、そうか。私はジャック様のことが好きなんだ。
今更気づいても遅い。
ジャック様は、きっとこの手を取る。
「野菜売りの彼」としてホリーさんの気持ちを受け入れる。
だって、それがこの世界の正しい結末だから。私が知っている「一番幸せな彼」の姿だから。
でも。
でも、私は。
あの笑顔をもっと、一番近くで見ていたかった。
欲張りだって分かってる。
モブかもしれない私がヒロインの幸せを奪うなんて許されるはずがない。
私は溢れそうになる涙をこらえ、静かにその場を去ろうとした。
――しかし。
「……すまない。その気持ちには応えられない」
聞こえてきたのは、予想外の拒絶の言葉だった。
え? と足を止める。
「どう、して……? 身分の差なら気にしません! 実家だって説得してみせます!」
「いや、そうじゃないんだ。……君が好意を寄せてくれている『俺』がいるとすれば、それはアリスが俺を人間らしくしてくれたからなんだよ」
私の名前?
心臓がドクリと跳ねた。
ガタガタと木箱が鳴る音。
次の瞬間、彼は私の手首を掴んで強引に引き寄せた。
驚く私を見下ろして、ジャック様は深く被っていた帽子を取り去った。
輝く金髪が陽光に晒される。
変装用の伊達眼鏡も外す。
「アリス様!? それに、その髪……!」
ホリーさんが驚愕に目を見開く。
無理もない。目の前にいるのは、憧れの「野菜売りのお兄さん」ではない。
第一王子ジャック殿下その人なのだから。
ジャック様はホリーさんに真っ直ぐな視線を向けたまま言った。
「見ての通り、俺は第一王子ジャックだ」
「そ、そんな……」
「だが、君が市場で見た俺もまた、俺の一部だ。……王子として肩に力が入っていた俺を畑で無理やり働かせたりしたのはこのアリスだ」
繋がれた手に力がこもる。
「彼女は俺を王子としてではなく、一人の人として見てくれる。……俺が誰かに優しく笑えるようになったのも、全部アリスのおかげだ」
ジャック様の言葉の一つ一つが、私の胸に染み込んでいく。
ホリーさんは呆然と私たちを見ていた。
やがて彼女の瞳が潤み、けれど優しく微笑んだ。
「……そう、だったのですね」
彼女は何かを納得したように頷いた。
「あなたが市場で見せていた優しい笑顔は……」
ホリーさんは涙を指先で拭うと、凛とした顔で私を見た。
「王子様を『素敵な人』に変えられたのは、アリス様なのですね」
彼女は一歩、私たちに歩み寄ると、私の空いている方の手を取った。そして、そっとジャック様の手と重ね合わせた。
「私が好きになった人を作ったのはアリス様ですから。……逃げないでくださいね?」
悪戯っぽく、けれど精一杯の強がりを含んだ声でそう言うと、彼女は踵を返した。
本来のヒロインが舞台から去ってしまった。
私はどうしていいのか分からず、ただ呆然と立ち尽くしていた。
頭の中がぐちゃぐちゃだ。
ファンディスクの知識も、私の予想も、何もかもが崩れ去ってしまった。
「……アリス」
静かな声が私の意識を引き戻す。
恐る恐る見上げると、そこには私が一番好きな、穏やかで優しい瞳があった。
「え、あ……その」
「俺はもう、君なしでは笑うこともできないかもしれない」
彼は私の手を両手で包み込み、祈るように額を寄せた。
「愛してる。アリス」
その言葉を聞いた瞬間、私の目から涙が溢れ出した。
嬉しい。どうしようもなく嬉しい。
――でも、モブかもしれない私がこの手を取って、本当にいいの?
けれど、今は彼の温もりが愛おしくてたまらない。
私は涙ながらに、震える声で答えた。
「……私も、好きです。大好きです、ジャック様」
市場の喧騒の中、私たちは強く抱き締め合った。
まるで、世界に二人きりしかいないかのように。
こうして、私とジャック様は結ばれた。
元々が婚約者同士だったのだ。
彼が王位継承権を持つ第一王子であり、私が公爵家の令嬢であることを考えれば、貴族社会の中では極めて順当な結果に落ち着いたと言える。
学園での彼も変わった。
以前のようなピリピリとした空気は消え、厳格さの中にも余裕のある理想的なリーダーとして生徒たちから慕われるようになった。
もちろん放課後の畑仕事は継続中だ。
すべてがハッピーエンド。
誰もが祝福する、完璧な大団円。
……のはずだった。
「アリス、見てくれ! 今回のトマトはよくできたんだ!」
夕暮れの畑。
トマトを掲げるジャック様が笑顔で私に駆け寄ってくる。
愛おしい。本当に、心からそう思う。
けれど同時に——胸の奥の深い場所がチクリと痛むのだ。
……ごめんなさい、ホリーさん。
そんな懺悔が呪いのように頭をもたげる。
私は転生者だ。
ファンディスクという「未来の知識」を使って、本来のヒロインであるホリーちゃんを押しのけ、彼を奪ってしまった。
その事実は消えない。
あの時、ホリーちゃんは笑って譲ってくれたけれど。
もし私が余計なことをしなければ、二人は運命に導かれて恋に落ち、このトマトを二人で笑って収穫していたはずなのだ。
私は盗っ人だ。
ヒロインの座を、幸せな未来を掠め取った、卑怯な泥棒猫だ。
「……アリス? どうした、顔色が悪いぞ」
私の表情の陰りに気づいたのか、ジャック様が心配そうに覗き込んでくる。
その優しさが、今は少しだけ痛い。
「……本当に立派なトマトですね!」
私は慌てて笑顔を作った。
いけない。私が暗い顔をしていたら、彼まで不安になってしまう。
私は誓った。
彼を奪ってしまった代償として、ホリーちゃんと結ばれるよりも彼を幸せにしてみせると。
そうでなければ、私がここにいる意味がない。
私は必死に動いた。
次期国王として公務で忙殺されるジャック様のために、裏で根回しを行い、スケジュールを調整し、彼が愛する畑いじりの時間を捻出した。
彼の負担を少しでも減らそうと駆け回った。
それが私の贖罪であり、愛の証明だと信じて。
「……少し、働きすぎではないか?」
ある日の執務室。
書類の山に埋もれていた私を労ってくれる。
「君のおかげで仕事は順調だが……最近の君は何かに追われているようだ」
「そんなことありません! 私はジャック様の力になりたいだけです!」
「アリス」
彼は優しく私の肩を抱き寄せた。
「無理はしないでくれ。俺は、君がただ隣で笑っていてくれるだけで十分なんだ」
「……はい」
「ちゃんと休めているかい?」
その言葉の温かさに、涙が出そうになる。
幸せだ。本当に幸せだと思う。
でも、頭の片隅で、冷徹な私が囁くのだ。
——本当は、ホリーさんに向けられるべき言葉だったんじゃないの?
——本当は、その優しさは「本来のヒロイン」のためのものだったんじゃないの?
疑念が黒いインクのように滲み出し、私の心を侵食する。
……笑わなきゃ。
私は口角を持ち上げる。
彼に心配をかけないように。
選んだ相手が私で間違いなかったと思ってもらえるように。
――固くならずに笑い返せただろうか。
◇ ◇ ◇ ◇
学園を無事に卒業してしばらくした頃、一通の手紙が私の元に届いた。
差出人はホリーさん。
そこには彼女が故郷に戻り、田舎の幼馴染と結婚することになったと記されていた。
幼馴染……?
はて、そんな攻略対象いたかしら。
けれど、文面から溢れる彼女の幸せそうな様子に私の胸は少しだけ軽くなった。
私は彼女の運命を狂わせてしまったけれど、それでも彼女は彼女なりの幸せを見つけたのだ。
「おめでとう、ホリーさん……」
私は心からの祝福と共に、招待状への返事を書いた。
そして結婚式当日。
私は彼女の故郷を訪れていた。
挙式前の控え室。純白のドレスに身を包んだホリーさんは、以前よりもずっと大人びて息を呑むほど綺麗だった。
「アリス様! 遠いところ、本当にありがとうございます」
「いいえ。とっても綺麗よ、ホリーさん」
手を取り合って再会を喜ぶ。
すると、ホリーさんがふと真剣な眼差しになり、周囲を憚るように声を潜めた。
「あの……アリス様。実は私、新郎の彼に愛の告白をされた時に……不思議な感覚があったんです」
「不思議な感覚?」
「はい。実は前世の記憶みたいなものを思い出して……。私が主人公のおとぎ話みたいなものの夢? を見て……」
彼女は言葉を選びながら慎重に話している。
けれど、同じ境遇にある私には分かってしまった。
彼女が思い出したもの。
それは間違いなく、この世界が『乙女ゲーム』であるという知識だ。
――ああ、ダメだ。
彼女が思い出してしまったということは、気づいてしまったということだ。
本来ならば自分が王子様と結ばれるはずだったという「正史」に。
そして、それを私という異物が奪い取ってしまったという事実に。
不意打ちの告白に、私の張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れた。
今まで必死に蓋をしてきた罪悪感が決壊し、涙がポロポロと溢れ出して止まらなくなる。
「わ、アリス様!? どうしたんですか!?」
「っ……ごめんなさい、ホリーさん……!」
私は嗚咽混じりに叫んだ。
「実は私にも乙女ゲームの記憶があるの! だから分かってるの、本当ならあなたがジャック様と結ばれるはずだったって……! 本当に結ばれるべき人を私が奪って……ごめんなさい……っ!」
私は子供のように泣きじゃくった。
ずっと言いたかった。ずっと謝りたかった。
たとえ許されなくても、この罪を告白せずにはいられなかった。
しかし。
そんな私を見て、ホリーさんはきょとんとした顔で首を傾げたのだ。
「……何言ってるんですか?」
予想外の反応に、私は涙目で顔を上げる。
「え? だって、ファンディスクではホリーさんがジャック様と結ばれてて……あんなに幸せそうで……」
「ああ、ファンディスク……」
彼女は何かを納得したようにポンと手を打った。そして、信じられないことを口にした。
「アリス様。この乙女ゲームは、私の前に『攻略対象っぽい人』がたくさん出てくるのに、結局一本道で幼馴染と結ばれるという異色のゲームですよね? ジャック王子殿下は最初から婚約者のアリス様と結ばれる設定でしたし」
「…………は?」
私の思考が停止する。
涙も引っ込んだ。
「い、一本道……?」
「はい。選択肢を選んでも選んでも、なぜか最終的に幼馴染エンドに収束するという……伝説のゲームでしたよね?」
ホリーさんは苦笑しながら続けた。
「ファンディスクは、本編で他のキャラと結ばれなかったことへの非難があまりに多かったから、運営が慌てて出した『IFの物語』ですよ? 無料で配られたのも、お詫びの品だったからです」
そこまで言って、彼女は目を丸くした。
「……まさかアリス様、本編を知らなかったんですか?」
私は今度こそ、溢れる涙を止められなかった。
――ずっと抱えていた重荷が、音を立てて崩れ落ちていった。
【結婚式の帰り道】
ガタゴトと揺れる馬車の中で、私は隣に座るジャック様の肩に、こてんと頭を預けた。
あまりの衝撃と、そこからくる安堵、そして盛大な泣き疲れで、もう指一本動かせそうになかった。
「……どうしたんだ、急に。甘えるなんて珍しいな」
ジャック様が驚いたように、けれど優しく私の髪を撫でてくれる。その大きく温かい手のひらの感触に、また涙腺が緩みそうになる。
私は彼の腕にしなだれかかったまま、ずっと胸につかえていた本音を口にした。
「……私、ずっと……怖かったんです」
「何が?」
「あなたの本来あるべき幸せを、私が奪ってしまったんじゃないかって。私が余計なことをしたせいで、あなたの運命を狂わせてしまったんじゃないかって……ずっと、思ってて……」
言葉にすると、なんて馬鹿げた悩みだったのだろうと思う。
けれど、私にとっては世界の理に関わる大問題だったのだ。
ジャック様は私の言葉を聞くと、ふっと息を吐いた。
そして、もう一度滲んできた私の目元の涙を指先で丁寧に拭うと、愛おしそうに笑った。
「馬鹿だな、アリスは」
「……馬鹿で悪かったですね」
「ああ、大馬鹿者だ」
彼は私の肩を抱き寄せ、確信に満ちた声で告げた。
「君がいない世界で、俺が幸せになれるわけがないだろう。……君こそが、俺の幸せなんだから」
そう言ったジャック様を、私はまた泣いておろおろさせてしまった。
――ああ、私の涙腺は壊れてしまったらしい。
結局、馬車が王城に着いても、私の涙腺が治るまでにしばらくの時間がかかってしまった。




