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リザベルの部屋で、朝からバタバタと騒がしい音がする。日付が変わるまで勉強させられていた寝不足の子供を労わる様子など微塵も感じられない、わざと鳴らしているのではないかと疑いたくなるほどの大きな音だった。リザベルがゆっくりと体を起こすと、それを見つけた侍女が「いつまで寝てるのよ!」と金切り声を上げる。寝起きでまだぼんやりしている頭に、キンキンと響く声だ。
「早く立ちなさい!今日が何の日だか分かってるの!?」
「はーっ面倒くさっ。何で朝からアンタなんかの身なりを整えなきゃいけないわけ?意味分かんない」
「疲れたーもうやだー寝たいー」
好き勝手騒ぐ侍女達に、何が何だか分からない様子のリザベル。日付を確認するように視線が動いて、やっと気付いた。今日は俺の弟の誕生日だ。フィルマが出るのだから、当然その婚約者であるリザベルも出席である。その準備の為に騒がしかったのだ。それにしては横暴だしやる気もないし煩いけれど。
「いつまで寝てんのよ!早く来なさい!」
「…っ」
リザベルの細腕が強引に引っ張られ、掴まれた周囲が真っ白になるほどの強さで握り締められる。それに文句を言うこともせず、リザベルは引き摺られるように浴槽へ運ばれた。一応リザベルへの評価が自分達の評価になると理解しているのか、こういったところでのリザベル磨きには余念がない。薔薇の香が焚かれた香油をたっぷりと用い、傷だらけの肌に隙間なく塗り込んでいく。その黄疸や青痣に構うことなく揉み込んでいく。鏡に映ったリザベルの顔が苦痛に歪むが、気にした様子もなくただ手順に沿ってリザベルを飾り立てていく。白粉で露出部分の傷を隠し、メイクを施し、俺というより王宮から贈られたドレスを身に付けていく。
終わったと同時に今度は両親が現れ、侮蔑の視線で指示を出し、リザベルを連れて外に出る。不仲であることを隠そうともせず、リザベルを仕切りのように真ん中において馬車に乗る。その間リザベルは居心地の悪そうに身を縮め、一言も発することなく王宮への到着をただひたすら待っていた。
普段より豪華絢爛に飾られた王宮の中へ入り、一家ごとに与えられた部屋に通される。侯爵家であるカービネナ家は身分相応の豪華な部屋で待つことになり、その間も険悪な雰囲気は続いたままだ。ソファの端で身を隠すように縮こまるリザベルの耳に、コンコンとノックの音が届く。呼び出されたのはリザベルで、従者と共にフィルマが現れた。
「やぁ、こんにちは」
「こんにちは」
反射的に淑女の礼を返したリザベルに、にこにこしたままフィルマは挨拶する。婚約者という立場上共に入場する必要があるため、別の控え室に呼びに来たらしい。そんなこともあったなぁ、と無意識に記憶を辿る。
「カービネナ侯爵、侯爵夫人。リザベル嬢は責任を持って私が預かります」
「まぁ、うふふ、宜しくお願い致します」
「リザベル、気を付けるように」
「はい、お父様、お母様」
いつの間にかリザベルの後ろに立って笑顔で娘を見送る両親は、先程まで口の一つも聞いていなかったとは思えない程に朗らかである。リザベルもその変わりように困惑することなく返すものだから、当時の俺はカービネナ家の仲を全くと言っていいほど疑っていなかった。リザベルの手を取って、長い廊下を歩いていく。王家の待機場に連れて行き、リザベル用に用意された椅子に腰掛けるよう促す。その後のフィルマとの会話の中で、俺ははたと一つのことに気が付いた。
当時は全く気付いていなかったが、リザベルは許可を出されたら動くということを繰り返しており、飲み物も軽食も、言われなければ自分から手をつけることはなかった。好みではないというより、戦々恐々としている様子だ。気付かない馬鹿は、菓子を手に取る度に味や銘柄を説明して勧めてくる。それでリザベルも不自然にならない程度には食べているのが、良かったのか良くなかったのか。
「今日は来てくれてありがとう、リザベル。弟も君に会えることを喜んでいたよ」
「こちらこそ、招待頂きありがとうございます」
「それじゃあそろそろ行こうか。手を」
呑気な顔が腹立つ。といってもこれは俺の主観かつリザベルの境遇を見た後での対比的な感想なので、客観性を大きく欠いていることは分かっている。側から見れば、一応、本当に一応はエスコートが出来ていると映るのかもしれない。俺は認めないが。
そうして入場する頃にはもう既に貴族が全員揃っており、俺はリザベルと並んで王家側に立った。国王が高らかに開始を宣言して、生誕祝いという名の社交が始まる。
王家というだけあって上位の者から挨拶回りにやって来る。公爵、侯爵、辺境伯、伯爵、子爵、最後に男爵だ。男爵達に至ってはパーティの終わりギリギリに挨拶が交わせれば良い方で、前半の貴族に時間が取られてしまえばほとんど一瞬で終わることもある。
「フィルマ様、リザベル様。本日はご招待ありがとうございます」
早い段階で声を掛けて来たのは、ネーガルー公爵家現当主である。隣に控えている、当時の年齢で26歳を迎える息子に近々当主の座を譲るようで、その顔見せも含めていると説明してくれた。朗らかな笑顔は親子そっくりで、フィルマとリザベルは緊張しつつも笑顔で返す。ネーガルー公爵家は俺とリザベルの婚約発表パーティでも1番に挨拶に来てくれた。その時は公爵夫人も一緒に来ていたが、今日は欠席のようだ。
「リザベル様もますます美しくなられて」
「ありがとうございます」
そんななんてことのない会話の中で、一瞬だけ息子の目が眇められる。フィルマはネーガルー公爵と話している為気付いていないようだが、リザベルの視界には瞬き程の間だけ映ってしまった。
「自慢の婚約者ですよ」
「仲睦まじそうで結構。それでは私達はこれで」
「えぇ、本日は弟の為にわざわざありがとうございます」
典型的な挨拶を交わしながら、ネーガルー公爵とその息子は去って行く。その背を見送っていると、リザベルが重なるようにフィルマの左肩の後ろに下がった。同時に、ネーガルー公爵とその息子の姿が視界から外れた。
「? リザベル?」
「…何でもありません。少し緊張しただけです」
「あぁ。実は俺も緊張していた。何か飲むか?」
「いえ、大丈夫です」
視線を向ければいつもの落ち着いた笑顔を浮かべ、次に現れた貴族にも慣れた挨拶を返す。少し気になったが、終わる頃には綺麗さっぱり忘れていた。
その後も数えるのが面倒な程にたくさんの貴族達と挨拶を交わす。貿易商として成功したマリノフ伯爵や、軍部に所属しているクランベル伯爵、大人しく物静かなホープラン子爵など、名前と顔を一致させるのが大変だ。今回は俺達がメインではないのでまだ長話は避けられているが、主役である弟の方を見れば擦り寄りたい貴族達の世間話に見せ掛けた自慢や打診に困っているところだった。優しい性格なので邪険にも出来ず、戸惑っているのだろう。助けたいのは山々だが、あまりやると教育係に怒られるので手を出せない。本当に辛そうだったら間に入ろうと決意して、視線を会場に向けた。優雅な音楽が生演奏で奏でられ、それに掻き消されない程度の音量で姦しく噂話が行き交っている。この距離でも耳に届く噂の一つに、最近話題の画家失踪事件について話が上がっていた。カクテルグラスを揺らしながら、派手な色味のドレスに身を包んだ女性達が騒いでいる。
「聞いた?今度はルートヴィッヒ・クカルセニー様がいなくなってしまったんですって」
「えぇ!?本当に?困ったわ…あんなに腕の良い画家、他にいないのに」
「最近多いわよね。前は誰だったかしら」
「イディ・レージルコン様でしょう?」
「あら、ツァイダ兄弟も行方不明だそうよ」
「次は誰が狙われるのかしら」
「ピーコック様はやめてほしいわ…あの方、とっても美白に描くのがお上手なのよ」
「本当?わたくしも頼んでみようかしら」
画家の名前には詳しくないが、ルートヴィッヒ・クカルセニーは俺でも知っている有名な肖像画家だ。そういえばこの画家連続失踪事件は、先程名前が出て来たカイト・ピーコックも含め被害が相次ぎ、けれど犯人は見つからないということで迷宮入りとなっていた。確かこの事件から国で画家の保護政策が行われるようになり、以降失踪者は格段に減ったのである。犯人不明という後味の悪い結果を残しつつも、現在民の記憶からは忘れ去られつつある事件だ。
また次の貴族が挨拶にやって来た。フィルマもリザベルも疲労を隠しながら笑顔で対応し、また捌いていく。パーティが終わる頃には2人ともすっかり疲弊して、くたくたになっていた。