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 学園内で奇妙な噂が流れるようになる。リザベルが男をたらしこんでいるという不埒な噂だ。俺も在学中に耳に挟んだことがあるが、馬鹿馬鹿しいと一蹴していたあの噂。しかしこの噂は何処から出て来たのだろうか。最初は突拍子もないと突き放されていたというのに、いつの間にかその噂を信じ話す者が増えていた。不自然なほどに、噂は確かなものとして伝播する。

「カービネナ様、放課後にあの伯爵令息と…」

「嘘、侯爵様って…」

「平民を自室に招いたって…」

 ひそひそヒソヒソ。ひそひそひそ。

 下世話な話で盛り上がる。リザベルに憑依した俺が断言するが、そんなことは一切ない。放課後いなくなるのはいつも通り王妃教育を受けるためであり、時々王妃に招かれて茶会に出席しているためである。いつもが座学ならこれは実技のテストと言えるだろう。毎日毎日そんな学びを繰り返し、王妃となるべく励んでいる。そんな努力を踏み躙るような馬鹿げた噂に、俺は心が燃えるような怒りを抱いた。今すぐその根も葉もない噂で笑う口を押さえ付けて、引っ叩きたい衝動に駆られる。本人不在で広がる噂は、まるで誰かに扇動されるように広がっていった。


「殿下、カービネナ様のことですが…」


 それは、当時のフィルマにまで届いた。

 ぴたり、とリザベルの足が止まる。ぼんやりと少し遠くにある床のタイルを眺めていた視線がぐるりと動き、庭園のベンチへと向いた。そこにいたのはベンチに腰掛けるフィルマ・セクルグと、高位貴族の面々。この距離でも聞こえる声は、どうやらリザベルの根も葉もない噂について話しているらしい。

「はぁ…?」

 侯爵家の娘であり第一王位継承者の婚約者である彼女を責める言葉を、彼らは論う。まるで不安そうに、労わるように、フィルマの味方だと紡いだその口でリザベルを貶める。本を閉じたフィルマは深くため息を吐いて、「噂だ、噂」と簡潔な言葉を答えた。彼らに聞こえる程度の大きさで放たれたその言葉は、何故かリザベルの耳にまではっきりと届いた。彼らの話は両断され、早々に話題が変わる。一瞬だけ向いたリザベルの視界の中で、フィルマは呆れた顔をしていた。


 "リザベルを見ていれば分かるだろう"


 それが当時の、俺の感想だった。あんな噂を信じる要素など何処にもないのだ。リザベルが厳しい王妃教育を受けていることも知っていたし、男遊びに精を出すことなど許されないとも理解していた。少しでもそんな素振りがあれば王家に報告が来るだろうし、教育係のディアンとすら扉を閉じた状態で2人きりになることなど許されない。分かりきったことだった。

…王妃教育があんなに苛烈で虐待じみているとまでは、知らなかったけれど。

 だからどうでも良かった。真実も確認せず憶測で動き苦言を呈してくるなど、もう少し頭を回したらどうかと聞きたくなる程度であり、気にしていなかった。リザベルとの仲はあまり良いとは言えなかったが、暴力についての見解に不安なところなどはあったが、それでも噂は荒唐無稽なものだと理解していたつもりだった。

 けれどいつの間にか噂は、馬鹿馬鹿しいと一蹴していた俺どころか、国王や王妃の耳にも届く程に広まっていた。噂に最も近しい生徒から親から、果ては学園に通う子供のいない者にまで届いていた。彼らから、事実確認と次期王妃の再検討が申し立てられる。それにより国王と王妃も噂の元を調べざるを得なかった。今思えば専用の調査部隊を使うべきだったと思う。けれど彼らは試練のつもりだったのか、息子であるフィルマに「噂について確認せよ」と一言告げるだけだった。それは噂の出所を突き止めよという命令のつもりだったのかもしれない。けれど正式な書類もなく、夕飯時にさらりと一言言われただけのそれを命令だと思う脳はなかった。

 それにそもそもその調査は不必要だと思ったのだ。そんな調査に掛ける時間があるのなら、他の施策に掛けるべきだと。だから馬鹿(フィルマ)は、リザベル本人に聞いたのだ。リザベルの口から否定を聞けば、ほれ見たことかと手短に済ませられるから。リザベルがそんなことをするわけないと思っていたから、そう自分に言い聞かせていたから。

 リザベルを信じている自分というのを、自分で信じたかっただけだったのかもしれない。心の何処かでは、自分のことを何一つ話さない婚約者を疑っていたのかもしれない。歩み寄らなかったのは自分なのに、気付かなかったのは俺の方なのに。何とも自分勝手な思い込みだ。フィルマは、久しぶりのリザベルとの茶会で早々に話を切り出した。

「リザベル。最近君についての噂をよく耳にするのだが、心当たりはあるか?」

 リザベルは紅茶を置いて、真っ直ぐフィルマを見つめる。リザベルはいつも、俺の話はしっかり目を合わせて聞いてくれた。一字一句逃さぬよう、耳を傾けてくれていた。当たり前になりすぎていて、当時の俺はリザベルの細やかな気遣いに気付いていなかった。

「どんな噂ですか」

 震えもしない、凛々しい声。この憑依状態の俺の耳にも届いて来たのだから、リザベルが知らない筈がない。何の話か見当をつけた上で問い掛けたのだ。

 ふと、この部屋にある大きな鏡が視界に入る。そこから見えるリザベルの瞳は、ほんの少しだけ何かを期待するように揺れていた。憑依してから見たことのない、いつもと微妙に異なった輝き。昔、婚約を調印した時のワクワクした様子の瞳に、少し似ているような気がした。


 もしかして、期待してくれたのか。

 俺が馬鹿馬鹿しいと一蹴するのを。

 君はそんな人じゃないと知った顔をするのを。

 「死にたい」とまで言った君の中で、俺は少しでも希望になれていたのだろうか。


 心臓が早鐘を打つ。ごめんと謝罪してその通りの言葉を掛けたい。それなのに、目の前にいるフィルマはリザベルの様子に気付くことなく、空中を見つめながら指折り数えて、噂内の悪行を一つ一つ述べ始めた。


 血の気が引いた。


 馬鹿か。

 お前は一体、どんな教育を今まで受けて来たんだ。


 根も葉もない噂を本人に詳細に話すなんて、嫌がらせも良いところだ。それを悪意なくやってのけるなんて、愚かにも程がある。フィルマが意図せず(あげつら)っている間、鏡越しに見たリザベルは手を震わせ、泣きそうな目をしていた。その若草色の瞳からは段々と光が消え、諦めたような様子に移り変わる。この時、フィルマは本当の意味でリザベルから見限られたのだ。

 フィルマは言い終えた後、問い掛けるようにリザベルに視線を移した。けれどその視線すらリザベルにとっては針を全身に突き立てられるような嫌な感覚。曖昧に微笑んだ後、スッと立ち上がって完璧な淑女の礼(カーテシー)でその場を流すことにした。それは話の中断と、全ての希望が打ち砕かれた絶望からの逃避によるもの。何も気付いてくれない婚約者への一縷の望みも断たれたリザベルの、最後の自己防衛。

「申し訳ありません。気分が優れないので、このまま失礼させていただきます」

 急な挨拶に驚くフィルマを尻目に、珍しいことに許可も得ないままリザベルは部屋を出て行った。堪え切れなかったのか、部屋を出る前から自室の時と変わらぬ無表情に戻る。それでも使用人が案内を申し出ると一瞬で笑顔に戻り、優しくそれを受け入れるのだからその教育の強迫性も分かるというものだ。そして予定より早い帰宅後、いつも通り苛烈な母親の教育(やつあたり)を受けて、自室に戻る。リザベルはベッドの上で腕を捲り上げた後で、ぼろぼろと涙を零し始めた。久しぶりに見た涙だった。

 肘まで真っ青に染まっている。ゆっくりと開いた手の平も同様の痣で埋め尽くされている。どうやら使用人の直談判以降、本当に服で見えないギリギリまで折檻の手が伸びるようになったらしい。ディアンが気付いたのもこれが原因だろうか。勉強中は、手の平を意識して隠すことなど出来ないから。

 どうしてリザベルばかりがこんな仕打ちを受けないといけないのだろうか。

 声を押し殺すように泣く彼女の涙声を聞きながら、俺は切にそう思った。

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