先生である前に
窓の外で、大きく木々が揺れる。一瞬、その姿に気を取られて視線を止めていると、それに気付いた弟のイーテル・セクルグが、思い出したように口を開いた。
「そういえば兄上、明日から春雷の予報らしいですよ」
「春雷?」
今し方授業を終え、資料用に開いていた本類を片付けていたイーテルが、兄と同じように窓の外に視線を向けながらそう話し掛けてきた。珍しい天気模様に首を傾げながら振り向くと、イーテルは小さく頷く。
「ディアン先生が言ってました。今夜から明日に掛けて、酷く空が荒れ始めるだろうって」
言われてもう一度窓の外を眺めると、確かに先程まで青かった空のほとんどは、灰掛かった雲に覆われ風も強く吹き荒んでいる。遠くを眺めれば、この辺りを覆っている雲よりも分厚く、黒に染まった雲たちが今にも泣き出しそうな様相でこちらに向かっていた。
「本当だ。しばらくしたら一降り来そうだな」
「兄上は馬車ですよね。でしたら、早めに帰った方が良いかと」
「そうだな。しかし雷雨か。そうなると馬車も動かせないし、明日の授業は休みになるだろうな」
こちらの都合で申し訳ないと思いながらそう呟けば、イーテルはぱちりと大きく瞳を瞬いた。
「え、明日も来る気だったんですか?」
心の底から意外だとでも言うように告げられた言葉に、フィルマは小さく眉を顰める。まるで最初から休みになると思っていたかのような言い方だ。確かに土砂降りの中馬を走らせるのは可哀想だし来られないとは思うが、だからといって休みを前提にした態度を、あろうことかその授業担当の教育係に見せる姿はいただけない。他国と渡り歩く際だけでなく、臣下とのやり取りでもそんな態度を見せれば命取りだ。授業は終えた後だが大事なことなので追加で指南しようと考えていると、イーテルは何かを察したように「あー」と小さく呟き、ふるふると首を横に振った。
「そうじゃなくて……」
「え?」
何かを言いたそうにしていたイーテルは、すぐに気を取り直したようにこちらに笑顔を向けた。
「いや、兄上は僕のために雨の中でも出向いて来そうだと思ったので、先に釘を刺しただけですよ。雨は降ってなかったとしても、泥濘に車輪がハマって頭を打ったりしたら大変でしょう?」
「うっ」
「? どうかしました?」
「い、いや、何でもない…」
イーテルが出した例に身に覚えがあり、矢印が体に突き刺さるような感覚がする。まさかイーテルも、目の前にいる兄が約1年前にその通りの状況に陥って、元婚約者の過去に憑依することになったなどとは思うまい。あの奇跡のような遡りがあったからこそ今の生活があるわけだが、改めて考えてみるときっかけの情けなさに涙が出て来そうだ。
こほん、と咳払いで思考を現在に引き戻し、イーテルとの会話に意識を戻す。
「流石の俺も、馬達に無理はさせん。雷も降るほどの大雨なら、王宮に来るのは難しいだろう。こちらの事情によるところで申し訳ないが、明日の授業は休講にさせてもらおう」
「はい。そうした方が良いと思います。代わりはもう、ディアン先生にお願いしてありますし」
「えっ?」
「? どうしました?」
「あ、あぁ…いや。てっきり、授業も休みになったことだし、久々に羽を伸ばそうと考えてるんだと思っていたから、ディアンに授業を頼んでいるとは思わなくて」
先程、「明日も来る気だったんですか?」と発言したのは、せっかく休みだと考えていたのに授業で潰されてしまう危惧からそういった言葉が出てしまったのだと思っていた。学園でも、休講の可能性が出て来ると生徒は小躍りを始め、しかし結局それが嘘であると分かると虚を突かれて本音を零してしまうことがあった。わざとではないとはいえ、授業を無しにして喜ばれるのは先生としては複雑だろう。案の定、素直すぎる生徒の発言が教師の逆鱗に触れ、結局授業時間のほとんどを説教に費やされることもあった。俺は内心で喜んでいても、帝王学のお陰か表に出すことは少なかったから免れていたが。しかし付き合いの長い生徒達には一部バレていたような気もする。何故だろう。あんなにポーカーフェイスを気取っていたというのに。
その答えは今度リザベルにでも聞いてみるとして、今はイーテルの発言についてだ。ディアンに代わりを頼んでいるということはつまり、元々授業を休む気はなかったということで、なればこそ最初の発言が気になった。まるで最初から、明日は王宮に来ないかのような口振りだったではないか。明日は特に予定もなく、いつも通りの日常の筈だが、一体どうして。
考え事に唸っていると、イーテルがまた「あー」と思考を巡らせるように声を出す。
「天候は仕方ありませんから、もしそうなった時には教えてほしいとディアン先生に予め頼んでおいたんです。ちょうど、天気を教えてもらった時に」
「……ふむ?」
再度丁寧に説明されるが、何となく引っ掛かりを覚えて首を傾げる。嘘は言っていないのだろうが、何か誤魔化されているような感覚がする。何か、隠されているような、そんな予感。しかし今の会話の流れで隠されるようなことなど見当も付かず、無意識に顔を顰めた。その表情を見てイーテルの顔が強張ったことで、この直感が裏付けされたような感覚に陥る。
何だ。生徒が先生に、もしくは弟が兄に隠すことなど、一体───………。
「ハッ!!」
突如訪れた閃きに、全身がワナワナと震えるような感覚がした。その恐ろしくも納得のいく答えに、けれどそんなことイーテルが思う筈がないと何度も打ち消しを試みるが、脳裏にこびりついて離れてくれない。振り払うように頭を動かしても楔を打たれたように動かぬその回答は、それが真実であると告げるように、残酷に脳裏に鎮座した。
「まさか……いやでも……」
呆然と呟く俺に、イーテルは一瞬不安げな顔を見せる。しかしすぐに取り繕って、「どうかしましたか?」とこちらを安心させるような笑みを見せる。その優しさこそがこの回答が真であることの裏付けだと、嫌な鼓動を打ち立てながら俺はゆっくりと姿勢を正した。
認めたくない。けれど、それがイーテルの本心なら。
それを受け止めるのもまた、兄であり先生である俺の役目だ。
「イーテル、お前は今、俺に隠し事をしているな?」
探偵が犯人を追い詰める時のように、ぴしりと固い声音で告げる。その声にイーテルは一瞬体を硬直させた。
「何、を」
「いいや、分かっている。授業後のお前の態度は少しおかしかった。不意に天気の話を振り、明日の授業は休講になることを前提に話していた。まるで、俺は来ないと思い込んでいたかのように」
「っ」
まだまだ腹の探り合いに不慣れな彼は、兄に一言詰められた程度で簡単に取り繕いを剥がしてしまう。焦ったような顔に「やはり」と確信が波紋を広げ、認めたくないと警鐘を鳴らす脳とは裏腹に口を開く。
「俺に露呈してはならないことがあったんだろう。しかしそれでいて誘導しなくてはならない結論があった。明日、俺がここに来ないという結論に」
「…っ」
動揺に目が泳ぐ。分かりやすい。これも、今後教えていかなければならないことだ。けれど今だけは、彼の分かりやすい態度がありがたかった。
ごくりと唾を飲み込み、苦渋に満ちた表情で言葉を続ける。
「けれどお前の態度は分かりやすすぎた。騙すべき俺に、見抜かれてしまうほどに」
こつん、と革靴の先を鳴らして。
青褪めた彼の前に、一つの答えを提示する。
「お前は、────俺の授業よりディアンの授業のほうが好きなんだな?」
「─────は?」
ぽかんと口を開けたイーテルに、誤魔化さなくていい、と言葉を捲し立てた。
「いや俺も分かっているんだ。ディアンは長年リザベルの王妃教育や部下育成に取り組んで来ただけあって、俺よりも圧倒的に教え方が上手く、それでいて分かりやすい。俺も昔から何度も世話になった。1年前の婚約解消騒動の時だって彼の機転に何度助けられたことか。語り出したら奴の知識に助けられたことなどキリがない。勿論そんなことは当たり前で、けれどなればこそ王族として学んだ経験がある俺がイーテルの教育係となったわけだが、やはり第三者に比較されるとなると分が悪いのは事実なわけで。分かってる。分かってはいるんだがやはり………比較されると辛いものがある!」
「え、ちょっ、兄上?」
「しかもその比較を打ち出したのが弟だというのだろう……!?弟!俺の!可愛い!弟!!……小さい時から『あにうえ、あにうえ』と後ろをついて歩いて来てくれた可愛い弟に、兄上より他の人の方が優秀で教え方も上手いですよねと言われてしまうのは……!流石の俺でも……!心に来るものがあるぞイーテル……!」
「いやあのっ」
「分かってる、分かってるんだ。ディアンは陰でサポートするのが上手く、分からないところをフォローするのも上手だって。けど、けどなぁ…!?せっかく弟の教育係に任命されたわけだし、絶対立派な国王に育てるぞって思ってたのもあって、ちょっと、いやかな~り、堪えるものがある………!!」
「ちょっ待っ、兄上!!!」
イーテルの大きな声で、ハッと我に返る。あれ、俺は今一体何を口走った…?と思考を巻き戻していると、目の前で両手を広げたイーテルが、自身より背の高い俺を下からキッと睨みつけるようにこちらを向いた。
「どーーーーしてそうなったんですかッ!!?別に!!僕は!!! 兄上とディアン先生を比べたりなんか、一!度も! してませんよ!!!!」
「えっ?」
「兄上もディアン先生も、違う視点から違う角度で多様に教えてくださいますから、そもそも立つ土俵が違います! 僕は両方から学ばせてもらっていますし、学びたい! それなのに比較なんて、するわけないじゃないですか!」
「そ、そうなのか?」
「そうです! 僕は兄上から学べて、心の底ッッからッッッッ!!!!嬉しいと思ってますよ!!!!!」
ぜぇはぁと息を切らしながら、吠えるように伝えてくれるイーテル。その必死さにそれが本心なのだと手に取るように分かる気がして、ほわりと心臓が温かくなった。
「そ、そうか……そうか……」
あまりにも嬉しいことを言ってくれるものだから、つい口角が緩んでしまった。そうです、と掠れた声で膝に手をつきながら呟いたイーテルも誤解が解けたことに気付いたようで、息を整えながら口元を拭って姿勢を正していた。
「全く……一体どうしてそんな考えに……」
呟くイーテルに、ぴたりと動きが止まる。
人は、唐突な思考に至る時、必ず前々からその土台が作られている生き物だ。それがある時ある瞬間に繋がって閃きに変わるだけで、唐突に浮かび上がる答えには必ずそれに至るまでのプロセスがある。
そしてそのプロセスの裏に負の感情や不満があることも、決して珍しくはないのだ。
前々から密かに蓄積していたのであろう不満の発露を、今、確かに感じ取る。
「……だって」
「だって?」
「ディアンのことは先生って呼んでいるのに、俺は何度言ってもずっと"兄上"のままだから」
流石に教育係を務めるようになり、数日もすれば授業中は「先生」と呼び名を改めるようになった。
けれど時折ふざけるように「兄上」と呼ぶことや、「エペロア様」と1年前に変わった名字を強調するように呼ぶこともある。授業を終えた今のような時間であればいちいち咎めることもないが、未だにそういった呼び方を授業中に取ることがあるのだ。
それはまるで、「先生ごっこ」のようで。
自分の未熟さを見抜かれているような、そんな気がしていた。
「……兄、上」
「……俺はまだ、先生としては経験が浅く未熟であるからな。お前が不満を抱くのも、致し方あるまい」
先生らしさに欠けている。そんなことは百も承知だ。それを意識的か無意識的にかは分からないが、彼も感じていたのだろう。生徒というのは、誰よりも身近で誰よりも教師と関わりのある存在だ。否が応でも、先生という立場に評価を下してしまう。他に教師がいるのであれば尚更。
受け入れているつもりだったが、やはりディアンは「先生」呼びで俺は「兄上」呼びということに、無意識的な格差を感じていたのだろう。申し訳なさと自嘲を込めて謝罪すれば、俯いたイーテルがぷるぷると肩を震わせているのが見えた。
「……ど、どうした、イーテル」
「……て……」
「え?」
小さな声に聞き返せば、キッと顔を上げたイーテルが真っ赤な顔で声を張り上げた。
「だって兄上は、僕の兄じゃないですかッ!!」
同じ言葉を繰り返したような文章に、俺は「え」と虚を突かれたような声を出す。
「兄上は確かに僕の教育係を務めていて、その間は"先生"ですけれど! それ以外はずっと、僕の兄上じゃないですか!! 兄を兄と呼んで何が悪いんですか!?兄上は先生である前に、生まれた時から僕の、僕と下の弟の、兄上なんでしょう!?!?」
食って掛かるように張り上げられた主張に、俺は目をぱちぱちと瞬く。
「兄上は確かに、先生で!名字も僕達と違って、エペロア様になってしまいましたけど!それでも、王宮から出たって、名字が変わったって、臣下に、なったって……!兄上はずっと、僕の兄上なんですから……兄上と呼び続けたって、いい筈でしょう……!?」
段々と、声が震えていく。叩き付けるように紡がれた主張は少しずつ子供の癇癪のような音に変わり、駄々を捏ねる幼子のような響きへと移ろった。
かつて幼少期にパーティで見掛けた、甘え盛りの子息令嬢の主張のように。遠い昔に主張することも忘れたあの音と同じように、彼は今も大事に抱えたその感性を主張する。
ゆっくりと飲み込んだ彼の言葉が、ようやく"兄上"呼びの真意を教えてくれた。
名字が変わっても、家が変わっても。
離れていたって、ずっと。
家族であることに変わりはない。
家族と思う心に、変わりは、ない。
1年前、不意に兄が王位継承権の返還を言い出して。
王宮での暮らしも、同じセクルグの名も捨てて家を出たことを、まだ学園に通う年である彼はどう思っていたのか。
呼べなくなった揃いの名に、何度思いを馳せて焦がれたのか。
その感情があったことを、ようやく今、知る。
「俺はいつも遅いなぁ」
自嘲するように零れた言葉に、けれど自嘲以外の意も混ぜて。
呟いた言葉に疑問符を浮かべるイーテルの頭を、ぽんと優しく叩いた。
「そうだよな。俺はイーテルの兄なんだから、兄と呼ぶのは当たり前だよな」
頭に手を置いたまま、イーテルと視線を合わせるようにしゃがむ。少しだけ濡れた瞳に、申し訳なさを滲ませた笑顔を返した。
「変なこと聞いてごめん、イーテル。兄ちゃん、先生らしくしなきゃってちょっと焦ってたみたいだ。気付かせてくれてありがとう。イーテルのおかげで、大事なことに気付けたよ」
驚いたように目を見開いた同じ青が、お互いの青を映し出す。
明日も当たり前に続くと思っていた日々が唐突に塗り替えられて、一体、どれだけの不安に苛まれたのか。
今更ながらに気が付いて、そしてこちらを家族と一心に主張し続けてくれた弟に、心の底から感謝を述べる。
イーテルの優しい心に触れていたら、なんとなくもう一人の弟に会いたくなって来た。
「トリンにも会いたいなぁ」
「それはトリンも喜ぶと思いますけど、そろそろ帰った方が良いんじゃないですか?」
「え?」
イーテルに言われて窓の外を見ると、暗雲がすぐ近くまでやって来ているのが見えた。今すぐにでも唸り、泣き出しそうな空を見て、嫌な予感にひやりと背筋が凍る。
慌てて授業資料や書類やらの私物を引き寄せ、放り投げるようにバッグに詰め込んだ。
「お、俺、じゃあそろそろ帰るから!明日、ディアンに宜しく!トリンにも、今度会いに行くって伝えておいてくれ!」
「はいはい。気を付けてお帰りくださいね。雨の中飛び出さないように」
「飛び出さないよ!」
バタバタと忙しなく帰り支度を終えて、扉の方向に体を向けながらそのままの勢いで肩にバッグを引っ掛ける。
「それじゃ、またな、イーテル!」
「えぇ。兄上も、お気を付けて」
喜色満面の笑みを浮かべれば、同じように返ってくる優しげな笑みを背に受けて。
"兄上はずっと、僕の兄上なんですから"
教えてもらった嬉しい言葉を何度も反芻しながら俺は、今にも雨が降り出しそうな外へと向けて、思いっきり走り出したのだった。
本日より、ミーティアノベルス様より刊行されました、
『婚約解消したら、彼女の過去にタイムリープしてしまったみたいなんだが。』
電子書籍 第2巻、配信開始です!!!!
やったー!!!!
今巻も、春乃まい様に素敵なイラストを描いていただきました!決戦に向かう二人のような礼服姿、是非目に焼き付けてください……!最高です_:(´ཀ`」 ∠):
配信場所や詳細は、こちらではリンクが効きませんので、【活動報告書】の方を覗いていただき、確認いただけると幸いです……!
改めまして、読者の皆様に心よりの感謝を。
皆様の応援のおかげで、ここまで来ることが出来ました。本当に、感謝してもしきれません。ありがとうございます!
謎解きに関する描写や、二人の関係の進み具合の明確化、そしてあの人物の言動……全てにおいてパワーアップさせていただきましたᕦ(ò_óˇ)ᕤ
1巻よりもより分かりやすく伝えることに注力したので、是非楽しんでいただけると幸いです(*´꒳`*)
そして今読んでいただきました今回の短編ですが、イーテルの隠し事についてはもう一つ、きちんと短編で投稿したいと思っておりますので、気長にお待ちください(*´꒳`*)
ちょっと力尽きかけておりますが、電子書籍化のお知らせをする前から投稿したいと思っていたお話なので、きちんと書ける日をお待ちいただけると幸いです。
それでは改めまして、本当にありがとうございました!




