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婚約を結んでから1週間。呼び寄せられた家庭教師や王宮の使者によって、リザベルの王妃教育が始まった。
はっきり言って、18歳の俺でも戸惑う程の量だった。
朝から晩まで勉強、実技、勉強、実践の繰り返し。家庭教師は褒めて伸ばすタイプではないようで、何度も怒鳴り散らした。初めてやることですら、ミスをしたら厳しく当たった。まだ5歳という幼いリザベルは、怒られる度に泣いてしまったが、泣く度に更に怒鳴られた。異様な雰囲気の教育を忌避して使用人達は近付けず、一度お茶出しに訪れたメイドも唐突に怒鳴られて涙目で引っ込んで以来、誰もその部屋を訪れることはなかった。リザベルが憔悴し切って自室に帰って来た後は、おずおずと慰めの言葉をかけ幼い彼女を慮るように接していたが、教育中に飛び出し抗議することは出来なかったようだ。その後のリザベルは教育中に泣き出さなくなったものの、いつでも涙に目を潤ませ、部屋に帰る度に泣いていた。
そんなある日のこと。リザベルは次の授業までの休憩時間に、廊下を歩く兄を見つけた。カービネナ兄妹はとても仲が良く、俺も挨拶をする度に微笑ましく思ったものだ。きっと妹の頑張りを褒めるだろうと見守っていると、兄は声を掛けたリザベルに酷く冷たい目を向けた。まるで生ゴミを食い散らかす気味の悪い虫を見つけたかのような、酷く冷淡な瞳をしていた。
「何」
「お、お兄様?あの、わたし…」
急に冷たい態度を取る兄に、リザベルも戸惑っているようだった。その姿に家庭教師を重ね、震え出す。その怯えた様子にどう思ったのか、兄はリザベルの髪を掴んで横に振ると、そのまま床に放り投げた。
「? ??」
何が起こったかわからないリザベルに、兄は舌打ちをして心底煩わしそうに告げる。
「女は良いよな。何もしなくてもオウジサマ捕まえれば出世出来て」
吐き捨てるように言い放つと、兄はリザベルに軽蔑の目を向けてその場を去った。
後から分かったことだが、兄は貪欲な程出世に執着しており、リザベルが王妃候補になったことに心底嫉妬していたようだ。その裏にどれ程の努力があるかも知らず、茶を啜って笑っていれば出世出来るんだろ、と宣ったこともあった。幼少期から王となるべく教育されて来た俺でも困惑する程の量を、幼き肩に背負って毎日憔悴するまで努力を積み重ねるリザベルに向かって。
実の兄が掛けるべき言葉ではなかった。急に増えた責任に耐え切れる強さなんて、リザベルは持っていなかった。それなのに、何も知らない兄に知らない内に敵視されていた。困惑するリザベルは、それから何度も昔のように兄に接したが、王太子の婚約者となったリザベルに彼が温かく接することはなかった。
そしてそれは、兄だけの態度で終わらなかった。
リザベルが後継に疎んじられていると知った使用人達も、段々とリザベルへの態度を悪い方向へ改めていった。仮にも国母候補を、まるで自らの鬱憤を晴らす道具かのように扱い始めた。まだ初めの方は優しかったが、徐々にエスカレートして行き、隠れて暴力を振るうようにまでなった。陰湿ないじめを繰り返し、リザベルの体はボロボロに変わっていく。着替えの度に目に入る肌は常に黄疸や青痣に彩られ、見えないところには擦り傷や切り傷まで作られた。手首から先や顔、首など露出する機会が多い箇所は避け、それ以外の場所には暴力を奮った。狡猾に隠された仕打ちに侯爵も侯爵夫人も気付かず、呆れたことに婚約者であるフィルマも気付かず、リザベルは1人理不尽な扱いに耐えていた。
大好きだった兄に冷たくされ、信じていた使用人達に裏切られた。
それだけでもショックだった筈なのに、リザベルは健気に王妃教育を熟し成長していく。自ら口を開くことは滅多になくなり、常に怒られることに怯えて過ごすようになった。婚約を結んだ後、初めて俺に会った時もきっとこの教育が心を蝕んでいたのだろう。俺に何を言うこともなく、婚約前に会っていた時には向けてくれていた本当の笑顔を向けることもなく、ただ教えられたことをなぞってその場を耐え忍ぶ。何をされても笑顔で接し、許しを与えるのが淑女だと教えられたから。そんな訳ない。そんな筈ない。それなのに家庭教師は平然とそんな世迷言を宣う。何を信じれば良いのかわからなくなったリザベルは、縋るように家庭教師の教育を信じた。
兄に冷たくされても、使用人に虐められても、許して流すことが正解だと紐付けられてしまったから。
教育さえ熟していれば、少なくとも家庭教師からの折檻はなくなったから。
だからリザベルは、どれだけ暴力を受けようと誰にも何も言わなかった。
そして数年が経ったある日、家庭教師の他に教育を施すようになった人物が現れた。それはリザベルの実母、カービネナ侯爵夫人である。母親と共に過ごすことが出来るのだ、家庭教師が怖いリザベルにとっては良い知らせだっただろう。リザベルは大喜びで母の教育が始まる前日を過ごした。リザベルの表情は憑依している関係上見えないが、何となく口角が少しだけ上がっているように感じた。久しぶりにリザベルの心からの笑顔が感じられた。俺も嬉しくなって、おやすみ、と心の中で呟いた。
だが吉報だったのは、母による教育が始まる直前までだった。
夫人の教育は苛烈だった。怒鳴り散らすばかりの家庭教師よりも酷かった。文字を間違えれば無理やり紙を剥がして目の前で破り捨てた。怯えて震えた字を書けば、また同じようにビリビリに破いた。実技でミスをすれば頬を扇で引っ叩いた。そしてそれに萎縮すれば、ご飯を与えないなど生命に関わる罰が与えられた。
優しかった母は何処へ行ったのだと、リザベルは夜に自室で1人泣いていた。すぐには分からなかった夫人の豹変の理由は、後に侯爵の浮気が原因であると明らかになる。侯爵は妾に惚れ込み、侯爵邸の離れに住まわせてそこに通うようになっていたのだ。本邸にはほとんど帰ってこない。夫人と家で話すことはほとんどなく、それが許せなかった夫人は夫に似た顔立ちの娘を酷く嫌うようになり、鬱憤を晴らすかのようにリザベルに手を上げた。そもそもリザベルの教育を買って出たのも、あわよくば自分の苛立ちを発散したいという魂胆があったのだろうと、後に気付かされた。父である侯爵も妾ばかりを気にかけ、実の娘の異変に欠片も興味も示さなかった。リザベルの味方は、家の中に誰もいなくなった。家庭教師も、兄も、使用人も、母も、父も。
誰1人として、いなくなったのだった。